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[介護][生活]墓参と爆音ー父についての雑感

一昨日、父の墓参をしてきた。父というか、父方の先祖の墓参り。先祖といっても2代前程度だが。
訪れた理由は二つある。一つは、通常の墓参り。もう一つは、墓じまいの準備である。私は結婚もしていなければ子どももいないため、早めに手続きをしようとしている。

母? 母は、この墓には入らない。長年の経緯があるので、ここは割愛。
認知症でグループホームにいる母はまだまだ元気一杯だけれど、本人は樹木葬にしてくれとか、海に撒いてくれ、とか言っている。

私は「父方」筋が苦手であった。これはおそらく私の姉とも共通の感覚と思う。理由はいくつかあるが、まず祖父の性格的な問題があった。この祖父をひとまずT彦と呼んでみるが、昔の多くの男性がそうであったように(今も多いが)差別的な発言をよくしていたことが挙げられる。

もう一つ。祖父は連れ合いを先に亡くし再婚していて、その相手は私の父よりも若い女性であった。それが別に悪いというわけじゃない。ただ事実として、父にとって「新たな母」は、父自身より若い年齢の女性になった。だから私にとっての二人目の「おばあちゃん」は、父よりも、かつ私の母よりも若い。

祖父の死後、その女性はいわゆる死後離婚をしてから、亡くなった。そして、なんということか、この二人目の女性が所有していたものを巡って、これから裁判が始まるのである。

「父方」筋は、真にめんどくさいことを遺していった。負の遺産。これが苦手意識を持つ大きな理由だ。父はとても苦労していたし、祖父に溺愛されていたようだから、かわいそうな人とも言える。

それでも「父方」に愛着を覚えない。結果として私は、戸籍としてこの「家」を終わらせる役割を担う人生となっている。それは私の大仕事の一つでもある。

ところで、墓じまいもかなりの手続きがいるらしく、愕然としている。権利者が母になっているから、委任状ではないけど、まずは自分に権利を移さないといけない。この作業が第一段階。それから、骨をどうするか、別の霊園などに移すのか、移す場合は役場にも許可申請を取らないといけない等々。

そういえば、10数年以上前に読んだ阿部和重『アメリカの夜』のラスト近くで墓の描写が出てきたのを思い出す。主人公の気持ちとは異なるが、わたしは、「父方」の墓に自分の名前が刻印されることを拒みたい気持ちがある。いやむしろ、拒むだろう。だから「終い」にする。

悪く思わないでほしいし、最後に残った人間がやるべきことを、いま一生懸命にやっているのだから。父には育ててもらった一方で、愛情は特に感じることもない。彼は文学的に生きたかったはずで、基本的に「無頼」に憧れていた。何せ卒論が萩原朔太郎である。そのことについてもいずれ書いておこうと思う。

帰り際に、日帰りの温泉が近くにあるらしく寄ってきた。久しぶりの露天風呂は心地よかったけれど、ドーン、ドーンという大きな爆音が響いている。はっきりとそれ、とわかる音だ。

自衛隊の演習で、砲弾が発射されているのである。受付の人に聞いたら、毎日ですよ、と言っていた。ちなみに窓ガラスが震えるほどだったから、相当である。

よく晴れた日の空に響き渡る爆音に、いまの世界を思い浮かべた。これからどんなふうに、わたしたちの暮らしは変わっていくのだろうか。私はふと舌打ちした、恐ろしくめんどくさい世の中になった、そんな気持ちを込めて。世界中で戦争が起こっているときに、私は露天風呂に浸かりながら、ぼんやりと持病のことを考えた。

(改稿用メモ追記)萩原朔太郎、文学、高村光太郎など



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