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言語世界のクィアな支配者(高橋 弘希『送り火』/第159回 芥川賞)

「筋肉が機能しなくなるナノマシンを人類全員に打ち込めば世界が平和になる」

この小説を読み終えたあとに思い浮かんだのは、高校三年生の頃に考えていたことだった。ホワイトワーカーが肉体の運動から阻害されていることに対する本能的な後ろめたさに付け込むように筋トレが持て囃される平成最後の夏にあって、そのような考えはこの小説を読むまで忘却の彼方にあった。筋トレの理想とする肉体の論理に、自分でも対象化していない反発があったのかもしれない。

『送り火』においては少年たちの権力関係を超越し、転倒しうるものとして肉体の力が扱われている。日常生活における権力関係は「燕雀」や「回転盤」等の知性的な遊びによって決められる。イカサマを持ち込んで勝敗関係を操作することができるという事実が、それを一層強固にする。この平面上の権力関係は、肉体の強さに裏付けられた縦の権力関係を背景とする。知性的な権力関係ではトップにいた晃は、上級生に虐められていた。

暴力を止めるものは誰もいなかった。歩たちでは、とても肉体的に敵う相手ではない。(一〇九頁)

クラシカルな読み方をすれば、この小説はマゾヒストとしての歩が理想的な支配者を求めて彷徨う話である。晃による同級生と歩への支配に危うさをいだきつつも、魅了されたかのように離れがたく距離を近づける。一方で、祭りの準備における上級生の支配については隙あらば離れようとし、地域の上級生の支配関係について取るに足らない関係性であるとさえ考える。

皆で力を合わせて逃げることなら可能かもしれない。晃が輪の中へ立ち入り、歩がそれを補佐し、稔を救出して、皆で協力して山から逃げる。もしそれができるのならば、この一件は十五歳の少年の一夏の冒険として、歩の記憶に刻まれるかもしれない。(一〇九頁)

マゾヒストにとって理想的な支配者、それは快楽を予期させる決定を可能とするものである。支配者のまずい決定とは想像力の抑圧であり、それを察知した際にマゾヒストは逃げていく。まずい決定をしたという事実が支配者にフィードバックされ、支配者に内省を促し、支配関係を転倒できるかどうかは、マゾヒストによる逃走の成否にかかっている。ここにおいて、サドは適切な支配者とはいえない。ただ、支配者の欠如を埋め合わせる者である。〈理念〉に突き動かされないほとんどの人間は疲弊し、他者の想像力を抑圧する。『送り火』においてはまずい決定をするサドとして横井たち上級生がふるまう。本来、人間は誰しも、サディストに向いている。〈理念〉の有無に依存せず、自らの価値の体系を一度は普遍的なものと捉えるからだ。ここでそれを常にトレースし、描像を与え続けることのできるものだけがクィアを理論化し続けられるのであり、時間によって破壊されるその肉体に宿る非物質としての情報を、テクストとして物質化できるものだけが理論家や〈理念〉に基づいて行動する者になる。クィアを追い続けることのできるものはそう多くない。クィアは今や、ドラァグな格好をしていない。不死のクィアに現実的な主人がいないように、支配の対象は―不明瞭である外部を相手にしないことを掲げているにもかかわらず―不明瞭であり、実在しないかに見え、実存と関与しないかに見える。

「わだっきゃ最初っから、おめえが一番ムガついでだじゃ!」(一一七頁)

歩の価値判断は言葉を対象化することによって行われる。子供が感じていることを言葉にあらわす際に表面化するピントのズレにも敏感に反応するほどに、強固な感覚である。

風が咲いた、風が咲いた、とはしゃいでいた。歩は子供達を横目にしながら、彼らにまだ言葉が足りないことを微笑ましく思った。(七一頁)

一方で、あまりに遠く伝達性のない言葉に対しては、非常に冷淡である。

「あれだっっゃからす××ぐ××でしかがしッコがわ××てな××だきゃ」

歩は気味の悪さを覚え、老婆を無視して自転車を走らせた。(六八頁)

この老婆に対するのと同じく、訛りの強い稔の言葉に対してもあからさまではないが端々に嫌悪感が見え隠れする。また、土地の人々に色彩の感覚が強いことに気が付き、それを自分の技術として取り入れようとする側面がある。

その風に〝雀色の風〟と名付けてみる。すると風にいくらか親しみを覚えた。(七六頁)

歩は〈理念〉のもとに動き、〈理念〉を対象化しようとするために一歩一歩すすんでいる点で崇高である。理想的なサディストではない。マゾヒストのクィア性はその実践にあり、歩は理想的な支配者であるとも言える。

それは習わしに違いないが、しかし灯篭流しでなく、三人のうちの最初の一人を、手始めに焼き殺しているようにしか見えない。(一二〇頁)

複数の肉体の論理は、受肉した肉体からの逃走論理ではない。受肉した〈この〉肉体を支持体とする思考と、〈この〉肉体ではありえなかった因果性を持つ別の身体とを重ね合わせて、芸術を創造するための方法論理である。

藁人形の頭が燃え盛り、無数の火の粉が山の淵の闇へ吸われていく。(一二〇頁)

死がその冷たい指を死にゆくものの眼の上に置くとき、一つの視線が発する光は、いったいどこへゆくのだろうか。

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