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私は誰かの心に爪痕をのこしていたい

私がこのnoteで出逢って、その文章が素敵すぎてめっちゃ尊敬している方の内のお一人・琴花酒さんが、こんな記事を書いてらっしゃった。

ので、私も「詩のこと書きたい」と思った。単純です、凄い人のことは真似したいものなのです。だって、かっこいいんだもの。

(琴花酒さんのこちらの記事、胸がぐっと熱くなってもう圧倒されて「ああ!自分もこんな熱量の文章を書きたい!」ってなるから、皆様も是非読みに、琴花酒さんの頁へお出掛けしてきてくださいね。)

私は幼少期から詩というものが好きで、多分それは小学校の頃に詩を書いて何度か賞をいただく、という嬉しい体験を重ねられたおかげだった。

うちの両親は揃って貧乏家庭に育って学が無かっただけに、娘にはありとあらゆる学問を身につけさせたい人たちだった。その中でも、本には不自由させなかった。本屋さんから毎月何冊も月刊誌を取り寄せた。おかげで私は文学が好きだった。あ、全部ウチにまだ余裕があった頃の話です、のちのち赤貧生活に陥ります。

そんな風に育った結果、私は授業で強いられずとも、家でも詩を書いたりして過ごしていた。その内小説も書くようになって、心のどこかで「いろんな進路が途中で挫折せざるをえなくなっても、最終的に自分は、物を書くことで小銭を稼いで生活できるんじゃあないか?」と思うようになった。おこがましいでしょう?でも、いろいろ八方塞がりな人生に足を踏み入れかけていた思春期の少女にはそのことが、真っ暗な夜空にやっと輝く星の様に、すがりたくなる希望でもあったのでした。だから大目に見てね。

で、高校卒業後の進路は、いろんなこと(主に金銭面)の兼ね合いで、北海学園大学の日本文化学科の二部、つまり夜学に落ち着いた。ニトリの社長さんや大泉洋さんなどなど凄い人をたくさん輩出している大学なんだけども(彼らは昼の部だけどね)、私はうまく馴染めなかったのですぐに辞めちゃったのでした。今だからそう言い切る気持ちも持てるんだけど「大学は悪くないんです」と、ここで言っておきたい。私みたいなのも入れてくれたのは確かなんだから(苦学生にももっと考慮しろよ!って先生も、まあ居たのは事実ですが)。

正直、やりたいことは他にたくさんあった。音楽療法を勉強しに行きたかったし、映像を作る技術も身につけたかったし、なんなら服飾もやってみたかった。けれどもそういうのはなかなかにお金が必要で、新聞奨学生という選択肢は「雪ちゃんには…難しいと思う…」と当時の担任に止められた私は、やっぱり「ぎりぎりやれる気がする」というラインを選ぶしかなかった。

そういう中で一番、自分の興味を引いたのが夜学の「日本文化学科」だった。

あ、もう私、ここで学びながら文章を書くしか無い―そう思った覚えがある。そうしながら、部活で習得した油絵を描いたり、あわよくばそれで個展を開いたりしながら、ゆるゆると「芸術」に向かう手はずを整えたい。できるような気がした。実際は入学後にメンタルを病んでそういう気力も持てなくなり、自分には何もねえっす!自分はダメなやつです!…ってなってっちゃったワケですが。

ところでその頃、私は片想いをしていた。相手は年上、会ったことも無い、テレビでしか見たことも無い相手。しかも、女性。

この方です。元バレーボール選手であり、元全日本代表・吉原知子さん

やーん、今でもお名前を拝見するだけで胸がきゅんとなる。

私が高校生の頃に(めっちゃ歳がバレるな…)テレビでバレーの試合を観て、キャプテンとしてチームメイトを引っ張っている吉原さんのお姿に、私はいつしか惹かれていた。めちゃくちゃ好きだった。その当時、友人と二人展を開いたことがあったのだけれど、その際に私は、吉原さんの油絵を描いて出したくらい。それくらい好きだった。恋だって実感は無かったけれど、今考えれば確実に、恋。4プラのアクセサリー屋さんで、彼女のイニシャル「T」のピアスを買ったほど、彼女に夢中だった。

そんなさなか、何がきっかけだったろうか、私はとある詩人の存在を知る。

吉原幸子―吉原知子さんと、名前が似ている。それだけで私はもう、彼女の作品を知りたくて仕方なくなったのだ。

幸いにも、北海学園大の図書館に、彼女の本があった。どんな内容だったかは覚えていないけれど、おおかた彼女の詩集だったろう。私は今、はっきりと言えることがある。私が学園大に入学したのは、吉原幸子の詩集に出逢う為もあったのだろう、と。

勿論、その他にも「学園大じゃなかったら出逢えなかったであろう人」なんていう存在もある。そういう人というのも大概、私に自由を教えてくれた人たちで、その辺の話は下記の記事でしているので、もしよかったらどうぞ。

けれども、吉原幸子に出逢えたのは、きっと学園大に入ったからだと思う。もしも別の夜学の別の学部の別の学科を選んでいたら、私はきっと、詩というジャンルからはある程度離れていた気がするからだ。

というか必然だったのかも知れない、私が文学から離れずとも済む学科に向かったのは。やりたいことはたくさんあって、制限されたのちの選択だと思っていた。でもそれは私の早とちりで、本当は私が選ぶべき道こそ「こっち」であって、私は神様の思し召し通りのルート選択をして、今も順調に歩いているだけなのかも知れない。

吉原幸子の印象は「」だった。それは私がどこかで避けていたものだった。自分には無いもの、と思い込んでいたものとでも言い換えればいいだろうか。

小中高と「ブス」と言われ続けてきた私は、自分には女としての魅力が無いのだと、そう思い込まないと耐えきれないほどの苦痛があった。だってもし私が仮にも「ブス」で無いなら、どうして私は計十二年ほども「ブス」として疎まれてこなければならなかったのか。私の十二年の苦痛がもしも錯覚だと言うのならば、その十二年をいったいどうしてくれよう?「ブス」というレッテルのせいでフォークダンスが物凄い苦しみだったこと、「ブス」だから人を好きになることも躊躇われたこと、それらはもう、成仏できずに漂う地縛霊にでもしてしまえばいいというのか?そんなの、あまりにもむごすぎる。

ああ、私は知子さんのほうの吉原さんに、きっと抱き締めてもらいたかったんだな。あんなにチームメイトを思いやれる素敵な人だ、こんな私のことも、きっと受け止めてくれると思っていたのだ、私は。だからあんなに大好きだった。試合で彼女が札幌に来ていると分かっていた日には、今すぐ飛んでいきたいと思えたほどに。

―吉原幸子は、ともかく「女」のにおいのする詩を書く人だった。色っぽいというか、艶を感じた。でも露骨ではないというか、発情した雌のにおいではなくって、愛した先に魂が繋がり合う感覚、とでも表現したらいいだろうか。でもとても物悲しい空気が漂っていて、この人はたくさん恋をして、その都度それはもう情熱のかぎりに恋をして、心を焦がして毎回憔悴しきる、そういう女性なのではないかと、何となく感じていた。

しだいに精神を病んでいった私ではあったけれど、この時期に吉原幸子に出逢えて、良かったのだと思う。私はほんとうは「女」になりたかった。一丁前に男の人を好きになって、きちんと恋愛をしてみたかった。あ、同性愛を否定しているとかそういうワケではけして無いです。表現が下手でごめんなさい。

そのことを自覚させてくれたのはきっと、彼女の存在であったろう。吉原「知子」さんとよく名の似た、「幸子」。私の精神にとって、「知子」さんが次女なら「幸子」は長女だった。その一番下に私があって、姉らを見て大人になろうとする少女こそが、この私だった。

多分、吉原幸子の作品は著作権がまだ切れていないと思うので、ここで引用はしないでおく。でも、彼女の「夏の墓」という詩集の中に「宣告」という作品があり、私はそれが彼女の詩の中でもっとも共感するものであることをここで伝えておこう。Twitterではbotさんが紹介してくださっているので、気になる方はそちらをば。

その「宣告」を心の中で反芻しながら、私はいま、こんなことを思う。

私は誰かの心に爪痕をのこしていたい。その対象は男女関係ない。とにかく、私は人の心に消えない爪痕をのこしたい。誰かの裸の皮膚に、ざっくりと私の爪痕をのこすかの如く、私という存在が消えずにずっと心に有る、そういうものでありたいのだ、私は。

それもあって自分の名前は「雪」だ。雪を見れば私を思い出して欲しいから。名前というのはある種の呪いだという。私は「雪」を名乗ることで、私を知る人に呪いをかけたのだ。けっして私を忘れぬよう、雪を見たらば必ず私を思い出すよう。

その所業を、果たして音楽でやれるか物を書くことでやれるか、その他でなすか。まあどれでもいいんです、どれも、私の好きなことならば。嫌いなことで残すのもしゃくだから、好きなことやって、誰かの心にのこっていたい。

嫌な女です、なんやかんや独占欲の塊です。でもね、私はそういう自分を嫌いじゃあないから。少女だった私は「幸子」に爪を立てられた。そうして消えない爪痕をいまも心にのこす。そのことが私には必要で、そのことが私には、とても幸せなことだったから。私は「幸子」のように、人の心にのこっていたい。そういう「女」でありたい。自分になるたけ正直でありたい。

…なんてつらつらと書いてみましたが、きっかけをくださった琴花酒さん、本当にありがとうございました。琴花酒さんについては下記の記事でも書かせていただいているので、よかったらこちらもどうぞ。


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桃胡雪(みるくゆき)
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