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私をさらったものの正体を求めて

今日、相互フォローしていただいている琴花酒さん(私は師匠とお呼びしている)に、私のことを記事内でご紹介いただいたのですよ。

(しかもヘッダーまで私の絵を使っていただいた。わーい。)

そんな琴花酒さんはなんか絶対誰にも見せなさそうな翳った面をお持ちなような気がして、どんだけ明るい記事を書かれていてもそこはかとなく翳りを感じさせて不思議な方なんですが、

(「先行きが思わしくない」という意味合いではなく、灯かりを点けていない部屋でざわざわ木が揺れるのを見ている時みたいな、そういう「翳」ね。)

この記事を拝見した際に、

私も好んで調べている「不思議な話」—たとえばパラレルワールドとかマンデラエフェクトとか、

そういったものをおそらく、師匠もご興味をお持ちなのだろう、そんな風に感じていた。

したらばどうも、私よりがぜんお詳しいみたいだった。すげえ。

そんな師匠は、19歳になる年のその当時の私の回想録をよく褒めてくださる(気がする)。

ので、今回は親愛なる師匠に向けて、けれどもいつも私の文章を読んでくださる皆様にも楽しんで?いただけるよう心掛けて、19歳になる年の私の昔話をしてみたいと思う。

今までちょっとぼかした表現を続けてきたけれど、私にはあの年の夏ごろ、決定的に「死にたい」と思わされることがあった。

それが何かまでをここで露わにしてしまうつもりは、申し訳ないけれども無いのです。

このことは長らく私の中に封印してきて、つい去年だったかな、やっと詳細を克明に思い出したけれども、今更それを、たとえ「私のB面」のここnoteでも、ちょっと書くわけにはいかない気がする。いろんな人に迷惑がかかるだろう、おそらく。

ただ、決定的に死にたいと思わされることがあったのは確かだ。

思い返せば小学校の頃から既に、鬱傾向のある子どもだったのだ。そもそも母方の家系が幻覚やら幻聴に苛まれる人が多く、うちのママンもそうだ。遺伝はしないとも言われているみたいだけれど、うちの場合に関してはきっと、遺伝してしまったのだろう。

高校一年の頃に、ほんのちょっとだけキッチンハイター的なものを飲んでみたことがあった。それが初めての自傷行為だった気がする。

そうして8月で19歳になった私は、いよいよもってこの世とおさらばしたくてたまらなくなった。

いつかこれもこれで記事にしたいと思っているけれど、うちの母はたぶん、私に「〇〇をする方法」というのを悉く教えてこなかったのだ。

例えば「机の上にはモノを出しておいちゃ駄目」とは言うけれど、片付けの仕方はけして教えない。だから私の机の中はいつもぐちゃぐちゃにモノが詰められていて、よって小学校のお道具箱も算数セットも、すっかり箱が膨らんで、ロッカーの中にランドセルをしまうことを常に邪魔していた。

一緒に料理をしたことも無い。だから大人になって焼きそばを作ろうとして、まったくもって上手にできなかった私は、なんだかよくわからないゲテモノ麺をしょんぼりしながら食べたのだ。

それこそ初めて一人暮らしをした18歳の春、私は母によって用意された二層式の洗濯機をまったく使えず、あわてて実家に電話した。「全自動洗濯機」で無いならコンセントも必要無いと、そう思って疑わなかった私は拍子抜けしたものだ。

私の上の兄が重い自閉症で、一人では到底何もできなくって、小学一年になったらすぐに札幌の星置の全寮制の学校とやらに入れてしまったそうなので(そして兄は小二で病気をし亡くなった)、母はきっと「自分が全部やってしまえばいい」と思いながら、母なりの子育てをしてきたのだろう。

それは責められない。責められないけれど私はやっぱり、彼女は毒親だったのだという認識を改められない。

子どもの頃、私は「パラレルワールドとの境界が薄い夜」を感じたことがあった。

時折夢の中で見た世界はおそらく、パラレルワールドなのだと感じられた。やけにリアルで、居心地のいい世界。あともうちょっとどうにかしたら、私はその世界に居残れる気がした。なのに目が醒めてしまった朝、私は「昨夜は本当に、境界が薄かったなあ。おしい!」、そんな風に思ったものだ。

中学の時、昼休みに親友だったAちゃんと一緒に、校舎を出て外のどこかでごろ寝して、空を見上げたのを覚えている。

「ねえ、帰りたいって思ったこと、ある?」「あるよ、そりゃあ学校から今すぐとっとと家に帰りたいよ」「ううん、家じゃあない、ここではないどこかに帰りたいって…そう思ったこと、ある?」

突拍子の無い私からの問いかけに、Aちゃんはきょとんとしていた。でも、美少女且つすごく性格の良かったAちゃんは、そのままうまいこと話を合わせてくれた気がする。彼女は今頃、何をしているんだろう。

19歳のあの年—誰が悪かったわけでも無い。

寧ろ、私を掛け値なしに愛してくれた人がたくさんいた。

しいて言えば悪かったのは私の置かれた生活環境であって、私はきっと一人で暮らしていくにはまだまだ脆すぎた。夜学とバイトの掛け持ちをこなせるほど、私は優れてもいなかったし人間も出来ていなかった。

最近、父に腕枕してもらって寝る夢を見た。中学三年の冬に亡くなった父だ。

朝起きるとそばにはコウペンちゃんのぬいぐるみがあった。幼い頃から私は、何かを抱きしめて眠らないと安心できないのだ。

もっと父に甘えたかった自分のことは、とっくにもう自覚している。

私と高校生活を共にした同級生の大半の様に、両親からの愛情を(人並みに)受けながら、お金のことを気にせず、豊かなキャンパスライフを送りたかった。

そして私は、壊れた。

よく不思議な話をまとめたサイトとかで言われている「世界線を超える」という状況がもしも実在するのならば、私はあの夏、きっとそのままでは死んでいたのだ。

私が世界線を超えて、違う世界—パラレルワールドへ来たというのならおそらく、あの夏に違いない。

もしかすると、置いて来てしまった世界のほうの私は、あの夏に死んでしまって、兄と同じ納骨堂におさめられ、故郷のお寺からひたすらに海を眺めているのかも—そんな風に思う。

それから数年間、私はすっかり壊れてしまって、幻聴に惑わされるわ金縛りに遭うわ、自殺未遂はするわ、それでもOD(薬をめいっぱい飲むこと)で死のうとして失敗してICUに入っても、お医者さんに「よく死ななかったね!」と驚かれるほど元気になってしまったり、そんな塩梅だった。

それから私は、まるで断固として私を死なせないルートを誰かに選ばれたみたいに、割と無理矢理な経路で上京し、お金も無い割にどうにかして一人暮らしをし始めたりして、気づいたらここに居る。

辻褄合わせをするならば、私という物質をこちらの世界に馴染ませるための準備期間こそが、壊れていたあの時期なのかも知れない。

「何を書いてるんじゃ、こいつは」と思われても仕方の無い内容だけれども、私にはそうして子どもの頃から「今いるこの世界」への違和感があった。

だからタイムリープだパラレルワールドだマンデラエフェクトだ、そういった話題についてとても興味があるし、科学的にもまったく無いとは言い切れないことだもんで、私が生きている内にある程度明らかになってくれたら嬉しいな、そう思う。

ところで、この世には我々人間がまだ見つけられていない「何か」、不思議な力がある—そう思った理由のひとつに、木曾義高の存在がある。

北海道の片田舎に住んでいた私が、まるで初恋の人の如く心に抱いてきた存在・木曾義高。

源 義高(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。清水冠者(志水冠者)と号す。木曾義高とも。源義仲の嫡男。(中略) 寿永2年(1183年)、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。—Wikipediaより

彼の終焉の地である神社が、私の嫁ぎ先の割とすぐ傍にあったのだ。

北海道の片田舎で暮らしていた時は、入間河原なんてどこにあるのかまったくわからなかったし、生涯自分が訪れることの無い場所なのだろうと勝手に決め込んでいた。それくらい内地は遠かったし、自分の人生もせいぜい、親が望んだレールをとんとんと渡って暮らしていくのだろうと、そんな風に考えていたところがある。
けれども実際は、何がどうしてかこうして、義高の最期の場所まで巡り着いてしまった。偶然なのだろうけれど、どこか必然を思わせる。だって、義高なのだ。他の誰でも無い、義高なのだもの。

…ということでまとまり無くなっちゃったんですが、改めまして、琴花酒師匠、記事でのご紹介本当にありがとうございました。

不思議な話について心ゆくまで討論できる場所が欲しいものですが、5ちゃんとかおっかなそうだし、今しばらくは、師匠に教えていただいたサイトや、まとめサイトなんかに上がってくる情報を眺めて過ごそうと思います。

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桃胡雪(みるくゆき)
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