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第14話【劇場版】3日間の水源リトリート体験記/思い出した自分と、忘れられない記憶について


はじめに

これから私は、極めて個人的な体験を語ります。それは、3日間のリトリート体験記です。

ここでは、リトリートで私が話したこと、感じたこと、内省したことを開示していきます。どこの誰だか、わからない私のプライベートな体験を読まされて、ほとんどの人は面白くもなんとも、ないかもしれません。それでも今回は書きます。加えて今回、書かずにいられないのは、私とパートナーの話です。

きよしさんが書いたものをわたしも読みたい

パートナーの快諾を得られたので、リトリートの主催者である、しょうこさんたちに相談し、個人的な体験記に、させていただきました。

この記事で紹介している物語は2つ。1つは、しょうこさんたちが提供している『水源リトリート』の体験記です。それに参加した私が、自分の目線からリトリートを時系列にそって、自分で撮った写真とともに、その3日間を紹介していきます。

もう1つの物語は、パートナーシップを通じて成長したい(変容したい)と願う、私の内省を記録したものです。その材料、肥料となる豊かな体験で、リトリートは埋め尽くされていたと私は感じています。

それらの構成で体験記を作ることが、私にとっての今回の表現の、ど真ん中である。そう納得するまでに、ずいぶん時間がかかりました。納得は統合であり、そうなるまでのプロセスで私は、自分と出会い直していたんだろうなと、振り返っています。

願わくば、この物語が、しょうこさんたちのリトリートの醍醐味の1つを伝えることに、なりますように。

前置きが長くなりました。本編は 1万4,740 文字、使用写真 82 枚という、もっと長い物語になってしまいましたが、楽しんでいただけたら幸いです。

願いと感謝、憧れと尊敬を込めて。


神奈川県の海から、群馬県の森へ

2022年10月のスタートは、目覚めの悪い朝でした。

興奮して寝つきが悪かったのと、荷造りが決まらなかったのとで、前日の私は、いつもより、ベッドに入るのが2時間くらい遅れました。にもかかわらず、この日、私が目覚めたのは、アラームが鳴る30分ほど前でした。二度寝による遅刻を恐れた私は、洗面所で歯を磨くことにします。

磨きながら、洗面台の鏡に映る自分を見て、ボーっとしいると、気づいたのは忘れ物です。旅行用の耳栓ケースを用意し忘れたことに、気づいたのでした。

自分のクチに、つっこんだ歯ブラシを落とさないようにして私は、和室の押し入れを開けたり閉めたりします。探し物を見つけたのは、ガムテープで塞がれた段ボールを開けたときでした。この家に越して来てから、1度も開けずにおいた段ボールです。

世界中で、はやり病が騒がれ始めてから今(当時)の家に、私は引っ越してきました。泊りがけ&リアル取材へ行くのは、それから、この日が初めてです。

旅行用のケースに耳栓を入れ、キャップを閉じ、バックパックの中へ。洗面所で歯ブラシを洗い、水でクチをゆすぎます。うがいに、トイレも済ませ、準備OK。玄関を出ました。

車のトランクに、バックパックやトレッキングシューズなどを積み込みます。トランクを閉め、運転席に座り、確かめたのはメッセージでした。スマホを取り出して、目的地で待つ主催者からの連絡が、来ていないかをチェックします。すると、昨晩のうちに1通、メッセージが来ていました。

しょうこさんは、これから私が向かう目的地で、私を待つうちの1人です。かつ、しょうこさんは、そこでリトリートを主催してくれる人でもあります。

リトリートのプログラムの1つに焚き火があり、夜に火を囲むと聞いていましたが、この日は10月1日。私は神奈川県の海側にいます。この時期、日中はTシャツ1枚です。肌寒さを感じる夜も、タオルケット1枚が、毛布1枚に変わるくらいで、基本、冷えを感じません。家のなかでは暖房器具も使っておらず、エアコンの冷房や除湿の出番が続いています。

車を降りた私は、フリースを取りに家のなかに戻ります。一昨日、洗濯をしたばかりです。ハンガーで、つるしてあります。場所もわかる。探すことに時間も、かかりませんでした。それを車のトランクに入れ、運転席に戻った私は、スマホの地図アプリで目的地を設定します。シートベルトを締め、回したのは車のイグニッションです。

出典元◆ Fujiwara

目的地は、群馬県利根郡みなかみ町、藤原ふじわら

目的地までの距離は、私がいる神奈川県の海側から約240キロです。休まずに車で行くと、高速道路などを走って、およそ3時間強かかります。渋滞になったり、高速道路の乗り口やジャンクションの分岐を間違えたりしなければ――。

間違えた私は結局、待ち合わせ時刻に60分以上も遅れたのでした。遅れたのですが、私のリトリートは目的地に着く前から、すでに始まっていたように振り返っています。着く前とは、いつか。それは、今回の企画に誘ってもらったときから、なのかもしれません。

私たちの情報発信に協力してもらえるなら、参加費無料でリトリートにご招待します

そうやって、しょうこさんたちに声をかけてもらい、数年ぶりの取材記事を書くことにした私は、しょうこさんたちに、みなかみで会えることをとても楽しみにしていました。初体験のリトリートを今の自分が、どう感じるのか。そのことに興味津々で。同時に、社会人になって、初めて泊りがけで行った、1人取材のことを思い出すことにもなって。

目を閉じずとも容易に思い出せ、ワクワクして心が踊るような、冒険の旅に出るような気持ちです。この日を迎えるまでの、自分の人生を少し振り返ることにもなりました。みんなにも早く会いたい。それなのに、この日の私は大遅刻です。

撮影者/井上昌樹まさき

ここに着くまで、ナビの設定を間違え、高速道路の乗り口や降り口を間違え、そのたびに車を停め、しょうこさんに状況を報告し、遅れることを謝りました。何度も出合ったのは、工事&事故渋滞です。

渋滞を抜けたあとの車は、高速道路の右車線を誰よりも速いスピードで走りました。アクセルを踏みながら声になったのは、嘆きです。

「これほど心待ちにしていたイベントを大遅刻するとか、あるかね?」

「今かな? 今日に限ってこんなに目に合うかぁ!?」

そうやって何度も、自分の手抜かりを車内で独り、声に出しました。その体験を含め、今から思い返しても説明がつかない、不思議な3日間でした。このときの私は、そんなことになるとは夢にも思っていませんでしたが。

(みなさん、お待たせして本当にすみませんでした。。)


出会い&ランチタイム

現地に着いた私は、車を降り、開口一番に「遅れてすいません」と詫びます。そんな私に、しょうこさんたちは、そのことに一切触れず、ただただ、笑顔を返すだけ。

いいのいいの、食べましょ

物言わぬ笑顔は私に、そう語りかけていたように感じます(自分に好都合な解釈かもしれませんが)。

みんなの後に、ついて行くと、用意されていたのはランチボックスです。上の写真の中央に見える木の下が、日陰になっています。そこにシートを敷いて、その上に腰をおろし、ランチタイムです。

色鮮やかな食べ物と、会いたかった人たちが目の前に現れ、浮ついていた私は、さらに興奮気味でした。そんな私以外に興奮したメンバーはいません。まず、しょうこさんです。

柳沼やぎぬま祥子しょうこさん

昨日の夜に「暖かいものをお持ちいただけたら」と、メッセージしてくれたのが、しょうこさんです。この日から3日間を通じて、彼女がリトリートの案内役を務めてくれました。彼女が作るリトリートの速度、時間は私にとって心地よく「身を委ねて、いいんだ」そう思ったことも体験記を書きながら思い出します。

井上昌樹まさきさん

まさきさんも今回のリトリート主催メンバーの1人です。まさきさんがまとう『のんびり、いこーぜ感』に私は、このとき、とても救われました。救われた、と言えば、私が取材と撮影を兼ねてリトリートに参加したことが伝わる貴重な1枚を撮ってくれたのも、まさきさんです。

まさきさん撮影による私

まさきさんは、リトリート2日目に、先約のため帰宅してしまうのですが、それまで、自分のカメラでリトリートの様子を撮影していました。そこに私が映っているため『リトリートに参加している取材者、撮影者としての私』が幸いにも写真として残っていたわけです。

基本的にカメラを構えて過ごし、アクティビティやワークに参加するときはカメラを置く。そんなかかわりかたで私は、3日間のリトリートを過ごしました。

三浦一平さん

そういうかかわりかたでの参加イメージを私が持つきっかけとなったのが、いっぺいさんでした。彼も、主催メンバーです。リトリートに興味を持った私を「みなかみに行きたい」「藤原ふじわらで、みんなに会いたい」と強く思わせてくれた人でもあります。

ここに来る以前に東京で、いっぺいさんと会ったとき、彼が私に、かけてくれた言葉があります。それは、私の決断を後押ししてくれる声援のようで。リトリートに限らず、私が1歩を踏み出すサポートをしてくれた、という感覚があり、そのいっぺいさんの声に私は導かれるようにして、今回の参加を決めました。

かなさん

かなさんは、私と同じ参加者です。初めましての数分後に、私は、レンズをかなさんへ向け、バシャバシャと写真を撮ってしまい、あのときはゴメンナサイ。あんまり、よい気分ではなかったですよね。。イラストレーターであり、カウンセラーでもある、かなさんの動画をインターネットで事前に見ていた私は「テレビ画面の向こうにいる人に会えた!」という感じで、高揚していたのだろうと思います。あのときの私の圧というか調子は、きっと、かなさんを戸惑わせたに違いありません。

遅れてきた道中の言い訳をしていた私は、食べることを忘れていたようで、気づくとランチボックスの中身が残っているのは私だけに。これ以上、みんなを待たせるわけには、いかない。そんな気持ちになったことも、これを書きながら思い出しました。

味わいながらも急いでランチを食べ終え、片付けへ。

着替えるために車に戻り、サンダルからトレッキングシューズに履き替えます。履きながら、リトリートへの期待と、味わったことがない人の温もりと、2年ぶりのリアル取材によるワクワク感で、まだ私は興奮気味でした。加えて、このときの私は約束の時刻に1時間以上も遅れています。

それらの感情が心のなかで、ない交ぜで、複雑な気分でした。

それなのに気持ちは、はやります。はやるのは、大切な何かが待ち受けていて、それを味わいたいという期待感であったと、このときを振り返って思います。その気持ちが体の外へ、あふれ出しそうで「まだ、まだだよ」と自制するというか。ソワソワしていたのは間違いありません。

そんな自分に気づいた私は、トレッキングシューズのヒモをきつく結ぶことで、暴れ出しそうな気持ちを引き締めます。

立ち上がり、タオルや水筒を小さめのバックパックに詰め、森へ入る準備は完了です。ランチをしていた場所の隣りにある、原っぱ(上ノ原)に再集合します。

いよいよ、私たちのリトリートが始まります(といいつつ、すでに始まってる、とも言えるのですが)。


上ノ原でチェックイン&オリエンテーション

私を含め、しょうこさん、まさきさん、いっぺいさん、かなさんの5名が、輪になって座ります。

草の上に腰を下ろし、自己紹介からスタートです。ここで呼ばれたい名前、住まい、普段は何をしているか、参加の動機、そのきっかけなどをお互いに話します。

それとは別に、しょうこさんは、自分たちが実践しているリトリートへの想いも聞かせてくれました。

  • どのように3日間を過ごしたいか

  • そのおおまかなスケジュール

  • 注意事項

  • グランドルール

などなど。注意事項のところでは、スマホなどのデジタル機器の扱いや、守秘義務についても触れられました。グランドルールとは「この3日間で話したり聞いたりした内容は原則として、ここ限り」そんなルールです。

その前提を共有することは、1人ひとりが「何を話しても、よいのだ」と思えるような工夫、配慮なのかもしれません。大切なルールだと思いました。その思いは、リトリートを終えた今も変わりません。変わりませんが、そのルールを今回に限り、私は破ります。関係者の承諾を得られたので、この体験記では私のプライベートな話に限り、踏み込んで書きます。

話をリトリートのチェックインに戻します。


望まない在りかたとは? どうやって自分と向き合う?

ここから次第に、5名の対話が深くなっていきました。

全員の自己紹介が終わると、この土地、上ノ原うえのはらの自己紹介が、しょうこさんから、ありました。土地は、しゃべることができないので代わりに、しょうこさんが話す、というわけです。

次は役割を降ろすワークです。

役割を降ろすとは、メタファーです。付箋くらいの大きさの短冊に、自分の役割を書き出すことで、体の内から外に出す(降ろす)ことを表現しています。ここでいう役割とは地域、会社、家庭などの場において、それぞれが担う、それぞれの役割です。思いつくだけ何個でも。私は以下の役割を書き出しました。

  • ストーリーテラー

  • パートナー

  • 息子

  • 聴く

  • HSP

  • ライター

普段、皆さんが担っている役割は、一旦ここに、降ろしてください。降ろした役割は3日間、私が大切にお預かりします。この場に、その役割を全員が降ろし、それから森へ入って行きましょう

各々が書いた短冊をしょうこさんが預かってくれました。

自分の役割を降ろしたあとは、森に持っていくモノの話です。モノとは、問いのこと。1人ひとりに、カードとマジックが配られます。私は2枚のカードを受け取り、1枚に1つずつ、問いを書きました。以下が1枚目です。

以前より私は、パートナーシップに悩んでいました。

パートナーとの関係において私は「自分が、どう在りたいか」わからなくなっていたのです。それを見つけたい。ヒントがほしい。そうした苦しさから浮かんできたのが『私が望まない在りかたとは』という問いでした。

望む在りかたを見失っていた私は「それとは真逆の、望まない在りかたなら、見つけることができるのではないか」と。そんな期待からです。

2つ目の問いとして『どうやって自分と向き合うか』が湧いてきました。

ここに来る2日前の話です。

私は、パートナーと真剣な話し合いをしました。内容は、ふたりの関係についてです。

たとえば、ある日のパートナーの言動について、私が感じたことを伝えると、彼女は「自分を否定されている気がする」と言います。それを聞いた私が感じるのは「私の気持ちが受け取られない」という寂しさ、もどかしさです。

そうした、お互いが抱える気質や特性、辛さなどを伝え、私たちは聞き合いました。夜の8時から夜中の3時までです。その数時間後、朝早くに出勤した彼女は、いつも乗るバスのなかから、少し長めの文章を私にLINEしてきました。書き出しはこうです。

前に、きよしさんが言っていたように、わたしは自分と向き合わないといけないんだなと思っています

このセリフが、リトリートの初日まで、ずっと私のなかにありました。

自分と向き合うことが苦手な、私のパートナーに私は、どんな、かかわりができるのだろう。そんな思いが『どうやって自分と向き合うか』という手段や方法を求めさせたように感じます。

カードに問いを書き出した私たち5名は、その場で少し瞑想をしました。あぐらをかいて呼吸を整え、自分の体に意識を向け、今ココに集中するワークです。それは、上ノ原うえのはらという土地へのチェックインであると、言い換えることができるでしょう。まぶたを開けると、しょうこさんの声がします。

書いた問いを胸に、これから森へ向かいますが、ぜひ、3日間のリトリートを通じて、その問いに意識を向けてみてください。何かのメッセージや、サインを森から受け取ることが、できるかもしれません

瞑想を終えた私たちは、上ノ原うえのはらのすぐ脇にある、歩いて30秒ほどの場所から湧く、自然の恵みを汲みに行きました。湧き水です。この水は、湧いていたり湧いていなかったりします。汲みに行ったときの水の勢いは申し分なし。手で受け、喉の渇きを潤したら、たっぷりと水筒に入れ、蓋を閉めました。

さあ
森へ行くぞ

そう思って皆のいる場所に戻ると、始まっていたのが、お茶会でした。


結果を手放し、楽しむ。お茶会からの2つの気づき

皆の元に戻り、話に耳を傾けました。

すると、お茶をたててくれている人が、オカダさんという名前であることがわかりました。オカダさんは東京の渋谷から、ここ群馬の藤原ふじわらへ通っているのだそう。なぜ通っているのか。オカダさんは青水せいすいのメンバーだからです。

画像出典元◆http://commonf.net/wordpress/?page_id=18

この土地を守っている(管理・継承している、のほうが近いのかもしれません)団体の名称が青水せいすいです。

その活動の一環で、この日、オカダさんは森の保全活動をしていました。その休憩中、私たちの姿を見かけ、声をかけてくれたのです。そこから「お茶をどうぞ」と。偶然を装ったリトリートのプログラムなのではなく、まったく予定していなかった、突然のお茶会です。

このときを振り返って、2つのことを思います。

1つ目は、お茶会をしている最中に思ったことで、しょうこさんの言葉を思い出しての気づきでした。

私が水を汲みに行く前に、しょうこさんは「リトリートは森とのダンスです」と話してくれました。言葉の背後にあるのは、山の天気が変わりやすいという事情です。「急に雨が降って予定していたアクティビティを短時間で切り上げることがあります」そう話していました。

それを自分がいる日常に置き換えたとき、頭に浮かんだのは、資本主義社会に生きている、ということでした。

話を単純化し、際立った特徴を優しい言葉に置き換えるなら、資本主義社会における日常の代名詞には、会社や仕事があると思います。さらにイメージしたのは、結果をコントロールすることでした。実践すれば報酬や名声が与えられます。

それに染まり切っていた以前の私なら、意識的にか無意識的にか、予定通りにコトが進んだときだけ、ポジティブに捉え、そうならないと、ネガティブに受け止めていたでしょう。でも、ここは森です。

急斜面に足をとられたり、山道の途中に架かっている橋が不安定だったり、虫よけスプレーをしても虫にたかられたり、雨が降ってアクティビティが中止になったり。湧き水が出ていないこともある。それらを日常の価値観で受け止めると、森で過ごす時間が、ネガティブな出来事の連続になります。

結果をコントロールできないこと、予定通りではないことを自分の日常のように、ネガティブなことだと受け止めず、その状況を楽しもうとする姿勢が「森とのダンス」という言葉で表現されている気がしたのです。予定通り、プログラム通りの3日間を過ごすことが、リトリートの目的ではない。しょうこさんから話を聞いたとき、そんなことを私は思いました。

それが早速、現れているのかなと、そう思わせてくれたのが、このときのお茶会でした。


体現者の存在を通してコモンズに触れる

2つ目の気づきは、リトリートを終え、3日間を思い返し、この体験記を書きながら思ったことです。それは、オカダさんは藤原ふじわらの森の在りかたを体現した1人だったのかなあ、ということでした。

この森は入会いりあいの森であり、英語でいうところのコモンズに該当します。

その理念を実践しているのが、森林塾青水せいすいのメンバーです。オカダさんも、そのメンバーの1人。藤原ふじわらに住む青水せいすいメンバーも当然いますが、ここ以外に住む青水せいすいメンバーもまた、オカダさん以外に大勢いるのだとか。

そうした人たちが各々の事情で、かかわり合う土地に私はいた。そういう土地であることに私は、オカダさんの存在を通して触れることができたように感じました。

リトリートの舞台は、いよいよ藤原ふじわらの森へと移っていきます。


五感全開

オカダさんにお茶のお礼を伝え、私たちは森林塾青水せいすいのメンバーによって再生された、ゆるぶの森へ向かいます。

その入り口にあるのは立て看板です。次のように書かれてありました。

 ここは上ノ原「入会の森」です。ミズナラなどの樹木や様々な生き物が暮らし、茅場(ススキ草原)へとつづく多様性の豊かな森です。木材資源を利用するために少しずつ伐採することで、若々しい森が維持され、私たちに心地よい環境(アメニティ)を提供してくれます。この森で遊ぶと五感が開放され、ココロとカラダが緩むことから「ゆるぶの森」と名づけました。「ゆるぶ(緩ぶ・弛ぶ)」は万葉集などでも使われている古語で、ゆるむ・くつろぐ・和らぐ・のびのびする・うちとける、などの意味です

森林塾青水

立て看板にあった茅場(ススキ草原)は、陽の光を浴びて黄金色に輝いて見えます。

そのススキ草原を背にして、ゆるぶの森を私たちは進みます。

どんな木が植えられているか、どうやって森を管理しているか。そうした森の在りかた、森とのかかわりかたを時折、足を止めながら、しょうこさんが話してくれます。

よかったら、木に触れてみてください

このセリフは、五感の1つである触覚に意識を向けることへと、つながります。

木に触れることは特別なことでは、ありません。ここでしか味わうことができない体験でも、ありません。でも、その感覚に意識を向けることは、いつもしていることでは、ないはずです。

都市生活において、公園で木陰を探したり、街路樹を避けて歩いたりすることはあっても、その木の肌に「手のひらを添えよう」「その感覚に意識を向けよう」とは、しないものです。触れた感覚に正解はありません。あるのは、自分は何を感じたか。それを問う在りかただけは、このとき確かに存在しました。

ススキを撫でたり

果実のように見える植物を見つけたり

腸整作用がある木肌を削って食べたり

ハーブの香りがする草をいだり

沈む夕日を

眺めたり

ワクワクする何かに魅了されたり

ゆるぶの森を歩いた時間は、五感を解き放ち、総動員させた時間だったように思います。その連続だった、散策のハイライトを1つだけ挙げるなら? もしそう聞かれたら、それは私にとって瞑想の時間です。


話せないハエが教えてくれたこと

森に入ってから10分くらいが過ぎたころ、見えてきたのは、ははその泉でした。

広さにして4メートル、5メートル四方くらいの泉です。ここまで歩いてきた私たちは、泉の周辺に、1人ひとりシートを敷き、その上に座りました。

撮影者/井上昌樹

できる人は、あぐらをかく。上の写真のいっぺいさんのように、背筋を伸ばすことができるなら、楽になるのは呼吸です。すぐ脇には、泉からなる細い川が流れています。

一帯をミズナラの木が囲い、その背丈は見上げるほど。高さにして、50メートルくらいは、ありそうに見えます。その隙間から陽が差し込む森のなかで、聞こえてくるのは、水が流れる音と、虫の音と、しょうこさんの声。

1点を見つめるか、まぶたを閉じて、呼吸を整えましょう

他の人の話し声や車が走る音は一切、聞こえません。癒される空間の、はずでした。

癒しを感じなかった原因は、ハエにあります。

瞑想をしているあいだ、私の周りを飛んでいたのはハエでした。私の顔に止まり、手に止まり。まぶたを閉じていても、その数が増えていくような感覚があります。

少しずつ普段の呼吸に戻ります。目をつぶっている人は、まぶたを開けましょう

しょうこさんの言葉に促され、まぶたを開くと、自分の左手の甲に止まるハエが見えます。数は4匹。それだけではありません。目の前や耳元を飛ぶハエが次々とやってきます。

そのたびに私は顔を背け、手で払う。「少し落ち着いたかな」そう胸をなでおろしたところで再び、ハエの登場です。これを何度も繰り返すうちに私は「キリがないな」そう思うようになりました。諦めた、というより、状況を受け入れた、のような感覚です。ハエをうとましいと感じる自分が、いながら、同時に私は「たかられても、よいのだ」と感じる自分が、いたように思います。振り返ると、あのときの私にあったのは穏やかさでした。味わったことがない感覚です。

ハエを払ったり顔を背けたりを止めた私は、自分の手の甲に止まるハエの動きに、注目します。少し動いては止まり、飛んで行くと、今度は違うのがやってくる。いや、同じハエなのかもしれない。私の周りを飛び回るハエを見ていて、私は神奈川県にある、自宅周辺の喧騒けんそうを見せられている気分になりました。


不快を感じる自分を初めて「OKだ」と思えた

ハエの体験は、日常生活の自分、そのままだと思ったのです。

HSPと呼ばれる気質を持つであろう私は、繊細で五感が鋭く、音、臭い、光、味などに敏感です。はやり病によって世間にテレワークが増えてから、とくに音に悩まされる状態が続いています。

ほかの人が気にならないような音は、私にとって、ハッキリと聞こえる音です。ほかの人がハッキリと聞こえる音は、私にとって「大きな音が聞こえる」であり、無視できません。たとえば拡声器で話し続ける選挙カーは、連日になると耐えがたい苦痛です。耳栓をしていても、その効果は、ほとんどありません。耳を塞ぎたくなるような、その場から逃げ出したくなるような、脅威やストレスを私は感じます。

それが続くと始まるのは耳鳴りです。こうなると仕事に集中できません。自宅でパソコン作業をする私は、邪魔をされている気がして、今も住まい探しには困っています。

ははその泉で瞑想をした私は、自分に集まるハエを見て、自分に集まる騒がしさ、その日常を見せられているように感じたのです。

せっかくの
リトリートが
台無しだ

そう考える自分がいても決して、おかしくないと感じながら、ネガティブで否定的な感情は微塵みじんも、ありません。選挙カーのときのように、逃げ出したい気持ちにもならない。生まれて初めての体験です。

思い出すことに抵抗もない。ただし「もう1度、味わいたいか」そう問われ、迷わず首を縦に振ることは難しい。安易に人へ勧めることは、できないとも感じます。それゆえ、私の体験を詳しく書くことに迷いがありました。

詳述することで、それを目にする人が、しょうこさん、まさきさん、いっぺいさんたちのリトリートを勘違いしたり、誤解したりすることに、なるのではないか。それは避けたい。そう考えたからです。

その不安を乗り越えて記事にしたのには、わけがあります。理由は2つ。1つ目は、誰かが感じる価値を自分がジャッジすることなく、ありのまま尊重したいという思いが、私にあるから。

それが、どんなものであれ、自分が感じた価値も、なかったことには、したくない。今回のリトリートを通じて、しょうこさん、まさきさん、いっぺいさん、かなさんが感じた価値、本人の考えも尊重したい。なんとなく私は、そう考えていました。

それをハッキリと自覚し「自信を持って、私が感じた不快な体験も伝えよう」そう思えたのには、まさきさんの言葉が関係しています。


心地のよい「かい」だけでなく「不快」の価値も大切にしたい

時計の針を少しだけ巻き戻します。ゆるぶの森に入る前の話です。

トイレ休憩のため、私たちは車で上ノ原うえのはらから少しだけ下りました。時間にして、15分程度の出来事です。

その車中で「いい天気ですね」「藤原ふじわらの天気に、こんなに恵まれるのは珍しい」そんな話になりました。私が連発したのは「サイコーです」というセリフ。あまりの天気、陽気の心地よさに、それを何度もクチにした記憶があります。このとき、ハンドルを握るまさきさんが言いました。

そうした、藤原ふじわらかいをリトリート参加者に味わってもらうのは、僕らの喜びの1つです。でも、それだけではなく、不快の価値も大切に扱いたいんですよね

まさきさんと似た思いを違ったタイミングで話してくれたのは、しょうこさんでした。

(私がハエに悩まされた体験を指して)あれをリトリートの参加者全員が、ポジティブに受け取るとは限りません

ネガティブな体験として受け止め、虫の多さで、森にいるだけで気持ちが疲れてしまう参加者がいるのも、事実です

ははその泉で瞑想をしたとき、私以外の、ほかのメンバーにも、ハエが集まっていました。「ハエが自分に集まるのは、ハエが、自分を植物や土や森だと思っているわけで、自然なことだ」そう話したメンバーもいました。

不快の価値も大切に扱いたい。虫の多さで、森にいるだけで気持ちが疲れてしまう参加者がいるのも事実。ハエが自分に止まるのは、ハエが自分を植物や土や森だと思っているわけで、自然なこと。

刺激がオーバーしやすいことは、私にとって不快なこと。それで気持ちが疲れてしまう私がいるのも事実。でも、そんな不快も自然なこと。

そうして当時のことを振り返ると、ゆるぶの森にいたときの私は、拒んでいた自分を初めて味わったように思います。穏やかな気分だった理由は、そこに、あるのかもしれない。不快な状況をコントロールできず、不快だと感じる自分の特性を受け入れるという、その感覚を初めて味わった。頭で理解したのではなく、体で感じた、という体験。これを私は、他の誰かにも味わってほしいと思った。受け入れることができず、許すことができない自分の気質や特性、感情に苦しむ、私とは違う、他の誰かに。これが、不安を乗り越えて記事にした2つ目の理由です。


水源リトリートのガイド役は、プロのコーチ

まさきさんは、こんな思いも聞かせてくれました。

リトリートを単なる消費価値には、したくないんです

ことの本質がわかる人だけに参加してほしいという、上から目線で頑固な、理解のない姿勢とは違います。むしろ、彼らの振る舞いは逆です。

大遅刻をした私を彼らは、プログラムのスケジュールを柔軟に変更しながら、温かく迎えてくれました。

3日間を通じて感じたのは、食事への配慮です。私の苦手な食べ物を事前に確かめ、昼や夜のメニューで必ず、それを尋ねてくれました。個人的に、何よりも見逃せないと思っているのは、しょうこさん、まさきさん、いっぺいさんがプロのコーチで、その有資格者であり、多くのクライアントにコーチングを提供してきたという点です。

3人は、いわゆる人材支援の領域で活躍しています。

人の悩みに寄り添い、人の成長をサポートし、専門的な学びと実践を繰り返しているプロのコーチです。実践の1つは、1対1のコーチングセッションだったり、企業に対話を生み出し、エンゲージメントを高める活動だったりします。キャリアとしてはコーチが先で、実績も豊富。つまり彼らは、コーチの経験をリトリートに活かしているのです。

「そのお陰で、替えることができない時間を過ごすことができた」

私は、そう感じます。

この事実は、大きなアドバンテージであるとも感じました。私にとってだけでなく、彼らのリトリートに参加する、すべての参加者にとってもです。

彼らは、観光ツアーの1つとして、リトリートを提供したいのでは、ありません。決して、そうした活動を否定するものではありません。参加者の意向次第では、ソレを提供する心構えも覚悟もある。ただ、彼らが心の底から届けたい何かとは違う。それを彼らの言葉に換えるなら、たとえば「自己肯定感の低さを解決し、本来の自分を取り戻すサポート」であると言えます。これに取り組むプロセスで、森に入る。

木の一部を伐採し、森の密度を整える間伐では、樹木や地表に光が届きます。これは、森にとって命にあたる、光を招き入れる作業です。間伐は、管理の手や目が行き渡らず、荒れてしまった里山を甦らせます。

間伐が森に命を吹き込むなら、森に入ることは、人の五感を呼び覚ます。そこでは、思考で過密になり、うっそうとした人の感覚に光が当たる。たとえ遠くに追いやっていたとしても、照らされることで輝く、その明るさをたよりに、対話や内省の声が感覚に届く。そうして人は、忘れていた自分を思い出したり、離れていた自分の一部に気が付く。それは、自己肯定感の低さという荒廃からの復活へと、つながっていく。そのきっかけや兆しをリトリートで得たのかもしれない。まさきさんの言葉を振り返って私は、そんなことを考えました。

話をリトリート初日に戻しましょう。

ゆるぶの森での散策を終え、私たち5名は一旦、宿に帰りました。夕食を済ませると、この日の締めのプログラムである、焚き火をしに、日が暮れた上ノ原うえのはらに戻ってきました。まずは、みんなで火起こしです。


星降る夜に、対話と沈黙と内省と

このときの焚き火を振り返って思うのは、恥ずかしさや劣等感から、普段は言葉にできないことを抵抗なく話せた、ということです。友人とする焚き火とは何かが違う。パッと思い浮かぶ違いは、主催メンバーがプロのコーチであるということ。カウンセラーである、かなさんを含めれば、私以外の全員が、話を聴く専門的なスキルを身につけていた、ということでした。

グランドルールを守りたいので、ほかの人の話を紹介することは、できません。明かすのは、私の話だけ。

このとき私は、ゆるぶの森でのハエの体験を話しました。

あの体験が、音に悩まされる自分の日常の縮図に思えること。そんな自分を自分で許し、受け入れることが、自分にとって簡単ではないこと。焚き火をしながら、それらをメンバーに聴いてもらうと「受け入れるためには、どうすれば、よいのだろうか」という問いが、私のなかに浮かびます。

連想したのは、私が望まない在りかたとは、という問いでした。この日の午後、ゆるぶの森へ向かう前に私が書いた問いです。

私は、何を望んで、いないのだろう。

浮かんでくるのは、繊細な自分を責め、拒む在りかたです。そんな自分をどうしたらいいかは、わかりません。わかりませんが、好きになることが簡単ではない自分の気質を責め、拒む在りかたを私は望んでいない。そこに気が付いた、というよりは思い出した、再認識した、取り戻したという感覚です。森へ向かう前に書いた、もう1つの問いにも意識が向かいます。

どうやって(そんな)自分と向き合うか。

自分を責め、拒む自分と、どうやって私は向き合うのだろう。問いを味わうには、うってつけの夜でした。

この日は雲1つなく、見渡す限りの星空で、天の川を見ることも、できました。見上げた空を埋め尽くすのは、輝きかたが異なる、数え切れない光の粒です。そんな夜に私たちは火を囲みました。

私が流れ星を確認できたのは3回。その光の筋は、あっという間に消えて、なくなります。それでも、私以外のメンバーも、何度も目撃しました。反対に「まだ見ていない」そうこぼすメンバーも。嘆きをきっかけに、プライベートな話や、自分の思いを吐露するメンバーがいて。その話を受け、さらに問いを投げたり「もう少し聴いてもいい?」そうやって仲間の内省をサポートしたり、違うメンバーが自分のことを話したり。

この夜の、しょうこさんの問いかけ、まさきさんの問いかけ、いっぺいさんの問いかけ、かなさんの語りが、今も私の記憶に鮮やかな景色として残っています。

「足下が冷えるな」そう感じて流れ星を探すことを止めたとき、薪の炎は勢いを失い、ほとんどが炭になろうとしていました。

薪が炭になり、炭が灰になるさまを見ていると、自分の魂が休みたがっているサインにも思えます。「これで今日は、終わりにしよう」そんなサインです。

この日の焚き火は、自分が知る焚き火とは、ひと味もふた味も違う体験でした。上着が燻製くんせいのように煙臭くなりましたが、それもご愛敬です。お陰で、この体験記を自宅で書いている今、つるした上着の香りで、この日の夜を鮮明に思い出せます。心地良さを再体験することもでき、そんな自分に驚いています。香りが呼び起こす記憶というのが、あるのですね。

(後編へ、つづく)



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