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第15話_空いた穴を私で埋めないで

母から感じる、うっとおしさには、私を母の何かに『使われている』『利用されている』感覚が、その根っこにありそうです。それは、母の中にある空洞、ぽっかりと空いた穴、寂しさなどを私(人、行為など)で埋めようとする感じではないか。

私を使わないで
あなたの
寂しさを埋める存在として
私を利用しないで

そんな気持ちは、母とのコミュニケーションにおいて私が感じる、うっとおしさと関係していそうです。

母からは「何かをしてあげよう」とする振る舞いを感じます。きよしのため、と。きよしのためを考えて、と。そう接されることを私は望んでない。矢印、ベクトルを私へ向けないでほしい。母の、そういう振る舞いの全部が一方的で、うっとおしい。そっとして、おいてほしい。放っておいてほしい。気にしないでほしい。それらの視線、気配を感じる。感じたくない(感じてもいい、とOKを出せない私が、まだ、います)。そんな仮説を立てました。

本題は、ここからです。

それを投影だと考えます。




母へ向けた
言葉のすべては
私が他人へ
していることだ

そう捉えてみました(仮説です)。

誰かに「何かをしてあげよう」としているのは私だ。相手のため、と。誰かためを考えて、と。

母のなかにある空洞、空いた穴や「寂しい気持ちを埋めてほしい」は、母ではなく私にある。「寂しい気持ちを埋めてほしいのは私だ」「足りていない私を誰かで補おうとしているのは私だ」と。それを認めることが私には、できない。のでは、ないか。 自分に空いた穴を埋めたい私がいることを私自身が受け入れられないし、認められないのでは、ないか。もしかしたら、そういう自分に気が付いてすら、いないのかもしれない。

私に穴なんか
空いてない
埋めたいのは私ではなく
他の誰かだ
ほら見ろ
母がそうだ

と。

私には欠損感が、あります。


*   *


自分が不十分な存在であるという感覚です。

劣っている、というよりも、何かが足りない、欠けている存在だと感じるときが、あります。だいぶ減りましたが、それは、ときどき私を苦しめるのです。

欠けた部分、その穴を私ではない何か(人、行為など)で私は、補おうとしているのではないか。

そんなことが
あっては
ならない
認めるとかなんか
できない


補う、という行為を私は「はしたない」「未熟だ」「間違っている」「いけない」なようなことだと感じている… 信じているのでは、ないだろうか。そんな行為をしようとしている自分を認めることができないので、私にはなく他人にはあることだと。そうして私は他人のせいにしている。ほら、母さんが自分の穴を埋めるために、足りない部分を補うために、寂しさを埋める存在として私を使おうとしてる、と。そうやって私が反応することで、欠けているのは、足りないのは、寂しいのは私じゃない、と私が思い込みたい。これは無自覚な行為というよりも、防衛、保護なんじゃないだろうか。そんなことを思います。

幼い、古い私が、自分を守るために採用してきた価値観です。

大人になった今の私が、引き続き採用すると、不都合を生む価値観です。

最近出会う、私を満たしてくれる出会いも、実は、私のなかにある欠損感を満たしてくれる出会いなのかもしれません。


*   *   *


特に最近の私は、ありたい自分で、あれています。

それは欠けている、足りない姿だと思って隠してきた自分です。そんな自分を私は、私という全体性の隅っこ、縁に追いやってきました。それを呼び戻し、話を聴いて、理解し、寄り添い仲直りして、育て直し、自分の一部にしています。自分を取り戻す行為です。そう思いこんでいただけで私は、まだまだ、欠けている自分を自分で補うことが、できていないのかもしれません。

あるいは空いている、補いが必要な、ソレを求めている、寂しさに気づいてほしい、という私の内側からのサインか。

もしくは、補う自分を自分で裁き、その行為を罰しているのかも… それは、まだ見ぬ、セルフの振る舞い、反応なのかもしれません。

わからない

統合待ちの、新たなセルフが、いるのかもしれません。それは私が気がついていない、周縁化している、なかったことにしてきた私です。書きながら思うのは、罰する存在(というよりも声のほうが近い)は、いそう(ありそう)だなあということ。

母から感じる
うっとおしさとは
私のなかにあるモノの
投影だ
私は何を
投影しているのだろう

そうやって言葉にして味わってみると、しっくりきます。

課題を抱えているのは
私だ
目の前の相手
(母)ではない

洗面台の前に立ったとき

鏡に映る自分の顔に、マヨネーズがついています。その原因は、自分の顔につくマヨネーズです。鏡のマヨネーズを拭いても、自分についたマヨネーズは、とれません。鏡は、自分を映し出しているだけ。投影です。

母の前に立ったとき

母の振る舞い、コミュニケーションに反応する私がいます。その原因は、自分にある何かです。母の何かを取り去ろうとしても、自分が抱える何かは、とれません。母は、私を映し出しているだけ。投影です。

そう捉えたら
何が浮かび上がるだろうか

そんな仮説を立ててみました。思考を巡らせ、理解しようとする試みです。

これまでも、そうして私は自分の苦しみを「理解しよう」「わかろう」としてきました。慣れ親しんだやりかたです。私にとっては、古いやりかたでもあります。得意なやりかた、と、表現したほうが、誰かへは伝わりやすいのかもしれません。

私は、自分が得意なやりかたが、生きる術のすべてだと無意識に信じていたようです。ソレとは違う新しいやりかたを私は知りました。新しいやりかたに触れ、覚えています。私にとって新しいやりかたで、とても心地よいのす。でも、その新しいやりかたを私は知らなかったわけじゃ、ありませんでした。はじめて触れた、やりかたでも、ありません。

それは感覚に留まること。感じる、というやりかたです。

今回のことで言えば、それは、母から感じる、うっとおしさを感じ続ける、というのもの。そうすることで味わえた体験があります。私にとっては、考えて、思考すること(だけ)では味わうことができなかった体験です。

感覚はあざむかない、判断があざむくのだ

Johann Wolfgang von Goethe






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