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第9話_大学時代の友人と、昨晩の自分の振る舞いが、ダブってみえたとき/投影という召喚【前編】



突き動かされるまま、言葉にしてみます


私は、より、私になる


以下は1カ月以上前に、私が大学時代の友人へ向けて送ったメッセージの一部、抜粋です。

おれはさ、お前からバカにされていると感じるよ。土足で家の中にあがられている不快感がある。おれが大切にしていることを無碍むげに扱われているようにも感じる。気持ちの境界線を無断で越えられているようにも感じるし、無神経だなって、腹立たしい。ムカつくよ

おれが大切にしているテーマを笑って、ヘラヘラしながら、バカにして、それに水かけるように、いたずらして、人にさらして、指さして笑ってさ。バカにされているように感じる。お前の価値観で、おれを裁かないでほしい。裁かれているように、おれは感じる

泣いたり笑ったり怒ったり叫んだり悲しんだり、ぐちゃぐちゃになりながら、おれは今日も自分のパートナーと真剣に関係を育んでいて、おまえはさ、そういう事情を何も知らないだろ。おれと彼女は真剣なんだよ。なんにも知らないだろ。おれが少し話しただけで、それをお前の価値観で判断して、茶々入れて、バカにされるのは受け入れられない。おれが基本的にお前らに自分のことを話さないのは、ジャッジせずにおれの話を聴くことをしないから。すぐに茶化して、バカにするからだよ。それが痛い。辛いし、悲しいし、傷ついてる。ずっとな。気に障る、という程度の浅い傷じゃなくて、深手なんだよ。そのことを、これまで言えなかったけど、伝えると決めた。

〇〇〇(相手の名前)にも、おれが大切にしていることを尊重してほしい。今後は、そうやって付き合っていきたいんだけど、尊重してくれるか。

10日ほど前に、大学時代の友人からメッセージが返ってきました。以下です。個別名称は抽象化してあります。

返信遅くなりました。ちゃんと読んでちゃんと考えた。きよしの考え方だから尊重するもしないもない。結論から言って、オレは変わらないし変わる気もない。それが嫌なら切ってくれて構わないよ。この歳になって大学時代からの友人をなくすのは悲しいけど妥協して嫌な思いしながら付き合っていくのもお互いのためにはならないしね。このことに関してもう議論する気はないよ。活字でやりあってもお互いの思い伝わらないと思うし、話があるなら会って話そう。(中略)先週、好例の祭りに行ってきた。6人と少なかったけど相変わらず楽しかった。そこに▲▲、〇〇はもちろん、きよしがいたらもっと楽しいとは思ったけどね。離れたとしてもきよしやきよしに関わる人の幸せを願っているよ。最後に、オレはきよしのこといままでバ力にしたことは1ミリもないよ。でもいろいろ環境変わったのを知って突っ込むなっていうのはオレには無理..

大学時代の友人の振る舞いに「バカにされている」「茶化されている」と感じます。そうしたことが、本人には1ミリもない、と、そうわかった今もです。これは私のなかの、存在してはいけないものの投影なのではないかと、そう思いました。たとえば以下のような思いです。

私は
無意識に
無自覚に
他人を傷つけている


場面は変わります。



他方で、私の興味や関心が自分を通過するように感じる人と昨晩、同じ席にいました。私の振る舞いが嫌いな人、我慢ができない人です。

仮にAさんとします。

場面は6名の食卓で、Aさんは私が話している最中に、突然、勢いよく椅子を引き立ち上がりました。「ギギギギー」大きな音を立てて、です。私の周辺視野が、私の顔に突き刺さるAさんからの強い視線を捉えます。Aさんが私を嫌うことを事前に6名のうちの、ひとりであるBさんから聴いていたので、Aさんの行動の意図を理解することは、できました。この体験から私に湧いているのは、大学時代の友人とのやり取りです。大学時代の友人にインテグリティを貫く私の行動と、大きな音を立てて椅子を引いたAさんの行動が、ダブりました。

  • どちらも、自分が大切にしていることがおびやかされたと感じたのではないか

  • それを守るための反応(リアクション)が、インテグリティを貫くことであり椅子を引いて、その場から去るという行動だったのではないか

  • おびやかした側は無自覚で無意識である

  • おびやかした側に、おびやかそうとする意図は、ない

  • これは投影という現象ではないか


私も大学時代の友人同様に、無自覚に無意識に、Aさんを傷つけた(Aさんが、そう感じたのではないかという仮説です)。でも、そんなことが私に、あってはならない。だから、これまでも、ないことにしてきた。ないことにする、という行為を「自分ではない他人がしていること」として指さし、確かめることで安心してきた。「相手が私にしてくる、私がやっている(私のなかにある)ことではない」と。無自覚に無意識に、誰かを傷つけているのは私ではなく他人だ、と。その象徴的な現実の1つが、大学時代の友人の振る舞い。その反応として私はインテグリティを貫いた。

私はAさんを無自覚に無意識に、傷つけた。これは他人ではなく、自分がしていること。その反応としてAさんは、大きな音を立てて椅子を引き、その場から立ち去った。

インテグリティを貫いた私と、大きな音を立てて椅子を引いたAさんは、おびやかされたと感じた自らの何かを守ったに過ぎない。そう仮定したとき、私が守りたかったのは、自分の尊厳や存在価値のようなものだった気がします。まだ手探りですが、そうしたものであったように感じます。

Aさんは、どうだったんだろうか。

Aさんと話すことができるなら、それを私は確かめたいと思っています。Bさんを介すことなく、Aさんに直接です。

私は、インテグリティを貫くことを大切にしていて、自分が感じたことを表現する、という道を進むと決めました。しかし、そのことによって無意識に無自覚に私は誰かをおびやかしているのかもしれません。同時に、それは相手側の何かが投影された、私という存在(配役)の振る舞い(演技)であると認知することも、できそうに思えてきました。

あのときAさんは何を守ろうとしたのか

それを私は知りたいと思いました。同時に、おびやかされたとAさんが感じるなら、その意図が私に、ないことを自分の言葉で伝えたいとも感じます。

もう1つ。

*   *


私が、インテグリティを貫くとき、目の前の人が恐れていること、見たくないこと、その人自身が向き合いたくないと思っているテーマと、強制的に向き合わせてしまう現象が起きている気がします。




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