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第7話_両親の親役を務めてきたという感覚が私には、あります
まるで、今日という日の準備のための、数十日前だったかのようです。
3時間くらい前のことです。
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母から、話したい事がある、とLINEがきました。文章を読んだときに思ったのが、20日ほど前に書いた記事【「環境によって、だいぶコンディションが変わる人ですね」パックになる】で触れた、あの場所です。
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今週末は天気が不安定で、私が住むエリアは雨が降ったり止んだり。写真のような晴れ、秋晴れとはいかないまでも「ここへ連れ出して話を聴こう」「自分の思いを改めてちゃんと伝えるって、そういう流れなんだな」と受け取っています。私の思いを改めてちゃんと。
*
私には、両親の親役を務めてきたという感覚があります。
私は、自分が抱えるトラウマのようなものや、自らの感情の扱いを学んでいる(育てている)最中です。未熟であったり、不完全であったりするように他人からは映るかもしれません。そんな私からして両親は、感情的に未成熟に映ります。それは、きっと親自身が感情の扱いや、もっとおおざっぱにいうと愛を知らないからなのだとも思っています。それらの手本を見せてもらったり、教わったりをしていません。でも、彼らの振る舞いを私は無意識に、感情の扱いかたの手本の1つにしたり、愛という振る舞いなのだと思い込んでいた気がします。
最初に違和感を抱いたのは、10代の頃でした。
当時の恋人に「言葉にしないと私には、わからない」と面と向かって言われたことが、きっかけです。
いやいや
言葉にしなくても
伝わるじゃん
そう思って(信じて)いた私にとって、衝撃的な一言でした。同時に私は、自分が信じていた価値観が、自分の価値観ではないことに気が付きます。「言葉にしなくても伝わるじゃん」は、母の価値観でした。
私はね、以心伝心ってあると思うの
それを幼い私は、無意識に母から刷り込まれていた。当時も幼い私の主張は、1ミリも受け取られず、聴いてもらえず、真剣に扱ってもらえず、育ってきました。母から、かけられた言葉の記憶、というか映像、思い出は鮮明です。他方で、当時の恋人には、まったく逆のセリフを投げつけられました。
わたしは、以心伝心なんか信じない。言葉にしてくれないと、わかんない
それからです。自分の気持ちを言葉にすることに努めたのは。特に異性との関係において、それを大切にしてきました。大人になったいま、そこに性別を意識するアタマはありません。以心伝心があるかないか、それが大切かどうかへの関心も、だいぶ薄れました。相手が男であろうが女であろうが、私は自分が感じたことを表現する。そう約束し、誓いました。それは、幼い私、幼い私のいのちが諦めた、本当に叶えたかった生きかたのように、思えてなりません。
感じたことを表現したかったのに、それができなかった
許されなかった
聴かれることもなく
受け取られた経験は一度もなかった
いつしか、それを毛嫌いするようにもなって。未熟、幼稚、無意味、無価値とラベルを張って、自分から遠ざけました。でも、遠ざけた存在は自分自身(自分の一部)です。自分の内側にある(と感じることが辛いので、ないことにするために)、未熟さ、幼稚さ、無意味感、無価値感を外側に投影していました。ある人は不本意な現実といい、ある人は敵といい、ある人は外化といい、的確な言葉で表現している人たちの多くは心理学を修めた専門家です。心や体のことを扱う対人支援のエキスパートが、クチを揃えています。自分の内側のことが外側で起きると。外側とは現実世界のこと。内側とは、精神世界や自身の心、内面などを指しています。つまり現実を変えるとは、心の世界の在りかたを変えることです。そう断定するに、もっともなエビデンスやデータを紹介・参照することは、できません。そうしたいとも、思わなくなりました。
自分が感じたこと、味わったことを私は表現します。
なんの得もなく、1銭にもならず、はたから見ると「なんで、そんなことを?」と思われる私のこの表現に、自分でも、もっともらしい理由が見当たりません。誰かを納得させるだけの説明が、できないんです。できないのに、する。してしまう。もはや私という意識とは別の何かの働きかけ、なのだろうなと、そう思うと言葉にできない、しっくりくる感じがあります。それを私は魂、いのち、といった言葉に置き換えて使うようになりました。
私の意思を超えた存在です。
それらは、私という体を通じて表現したい何かがある。それが何かは、私にもわからない。きっと、わかる必要は、もうないのだと思います。それに体を預けたい。委ねたい。あとをついて行きたい。そこに待っているのが至福だったからです。出会た人、味わった体験が至福だったからです。それに自分の人生を明け渡したい。そんなふうにさえ感じます。
*
親の愛を知らない父と母は、きっと、それぞれにトラウマを抱えているはずです。それを私がなんとかする、というのが、幼い私の愛着関係の築きかたで、そうやってかかわることで私は父と母をつなぎ止め、その間に自分の居場所を作ってきました。それを止めます。
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今週末の天気は、いまひとつかも、しれません。それでも私は二人をあの場所に連れ出そうと思います。でも、二人一緒ではなく、ひとりずつです。日向はなく、日陰を作る必要は、ないかもしれません。それでも私は、ひとりずつ、あの場所に連れ出します。
木下にブルーシートを敷いて私から話を切り出すんです。
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