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第12話_そうしてもらえなかった、母との90分を書く前に

仮説ですが、私の興味や関心が相手へ向かい、相手に届くと、そこを支点に私が相手に引き寄せられる。それがDさんやEさんと私のあいだで、私に起きていること、なのかもしれません。

相手の興味、関心事に私が惹きつけられる。

惹きつける、引き寄せることをはばんでいるのが評価、判断、ジャッジ(執着もかなぁ)なのではないか。

人と違うから
何かが足りないから(欠損感)

そういう自己評価は今も、ときどき湧いてきて、自分で自分を責めます。そこを刺激されるのかも、しれません。そのつもりが相手になく、無意識で無自覚な振る舞いだったとしても私が勝手に、反応している。何が私をそうさせるのだろう。

相手への私の関心は薄れていくのに、相手の評価、判断、ジャッジは一方的に向かってくる。それが私は、うっとおしいのかもしれない。ソレらを相手から私が感じると、どうか。改めて目を閉じてみます。まず、意識を向けるのは呼吸です。浅く、早い。ゆっくり、深くしていきます。気が付くのは体の反応です。そうしていると、浮かんでくる顔が、あります。

母の顔です。



母は自分のことを私に話しません。

母が話すときの主語は「お父さんは」「きよしは」です。2人への評価、判断、ジャッジを母は話します。母がする父の話は、母の分析であり、母がする私の話は、母の答えであり結論です。

私は、自分の興味や関心を母に聴いてもらった覚えが、ありません。聴く、という母の振る舞いが、私への共感だったとしても、母の答えや結論らしきモノを押し付けられているような、そうした何かを感じます。これは、私が母(の振る舞い)をうっとおしいと感じる理由です。私へ迫ってくる何か、私に入ってこようとする何か、too much な何かが、あります。でも同時に思ったのは、これも反応ではないか、ということです。私が、母へ投影しているのかもしれないと、そう思いました。

自分にあるのに、それを認めることが難しい部分を母(相手)に見い出す、投影しているのでは、ないだろうか。それを内側に抱えることができない私は、母(相手)のせいにする。だから本来、課題があって苦しいのは私です。

私には
評価したり
判断したり
ジャッジしたり
執着したりは
ない

いや、前述の自己評価のほうが、近いようにも感じます。

私は人と違う
私は何かが足りない(欠損感)
そんなことが
あってはならない
認められない
それは耐えられない
だから自分には
ないことにしよう

それは私ではない、誰か(たとえば母)にあって、その人が、していることだと、そうやって自分ではない他人に、私の課題を見い出すのです。

ほら見ろ
母は私を
ジャッジした

もしくは

人と違うのはアイツだ
母だ
何かが足りないのは
アイツだ
母だ

指を差して確かめる。そうして自分にはないと安心する、のかな。

年老いて、その振る舞いは、ずいぶんと大人しくなりましたが、父は、いまでいうモラハラ的にかかわる人でした。きめつけ、あからさまに見下します。その相手は母でした。

お前は、そんなことも、わからないのか

高いところから低いところへ流れる水のように、そうすることが当然であるかのように、上から下へ向かって物を言う父の振る舞いが、嫌いでした。書きながら気づくのは、私が感じる「バカにされた」「茶化された」「真剣に扱ってもらえない」という、反応の根源は、ここにあるのかも知れない、ということです。うーん。

こうして母と父への思い、その思考を巡らせると私は、自分の脳みそを迷路へ押し込められる感覚があって。なんだか、何かにあやつられれているようにも感じます。それは古い自分の、やりかたでも、あります。もうベースではない、私の古い信念、価値観、行動です。それはオプションになりました。


*   *


あの日。ブルーシートの上で父と話した日の午後に、同じ場所に私は、母を連れてきました。

「――母さんはさ、父さんといて幸せなの。 おれは母さんには、ただ笑っていてほしかった。ただ、父さんと仲良くして、ほしかっただけなんだ。それがおれの願いだったのかも、しれない。大人になるまで気がつかなかったよ」

もう心配、いらないから

「心配なんか、してないよ」

それを話してくれようとして、ここに来たの?

「お父さんとお母さんから話しがあるって、母さんが、そういうから。おれも話したいことあったし。そうなったら、自分が心地よいと感じる場所で話したかった。それを探してて、ここを見つけたんだ。その数日後に、話があるって母さんに言われて。ああ、連れてくるのは今日なんだって思ったんだ」

今年の元旦にも話してくれたことね

「そうだよ」

怒り、憤りなどなど。父のときとは違い、私にはハッキリとした苛立いらだちが、ありました。この1時間くらい前に父から聞かされた話で、自分の生まれにかかわる話があって、多少の動揺があったのと。あとは、振り返ると自己開示がなかったこととも、関係していそうです。

母の主語は、やっぱり「お父さんは」「きよしは」なのです。

「私(母)は」ではない。

このときも母は、自分のことを私に話しませんでした。母を外へ連れ出し、2人きりで話したことは、このときまで1度も、ありません。実家ではない場所で、母と私の1対1での話し合いです、ここに来る前、父を家に送り、入れ替わりで助手席に乗る母は「なんだかドキドキする」そう言いました。緊張していたのか、どうか。少なくとも父だけ、母だけを私が外へ連れ出し、目的のない話をするというのは、普段と違う何か異例のことです。

あの体験を母は、どう受け取ったんだろう。書きながら思うのは、母へ向かう私の関心です。

私は
彼女のことを
何も知らないのかも

彼女とは母のことです。母というラベルをはがし、かかわることで私は、彼女の関心に自分を寄せることが、できるかもしれないと期待します。そう思うと、湧いてくるのは彼女への関心です。彼女への興味や関心が私に、あるのだ、ということに少し驚いてもいます。

父が私に聞かせてくれた話を私から母にするか。私に接するようには、父が母に接さない理由についてです。そのことを母に尋ねるか。いや、それは――。それは古い価値観の私です。2人の仲を取り持つために私が、幼い私が、やってきた振る舞いです。それはしない、したくない。ベースからオプションになったソレを使いたいとは思いません。

私は
どうしたいんだろう
何が私を
こんなにも
反応させるんだろう

なんとなく、わかりそうで、わからないのです。理由は、さほど大切じゃない気がします。でも理由に触れることができたら私は、自分のなかにある何かが溶けたり、叶えられなかった願いを叶えることができたり、するのかもしれない。そう期待する自分もいます。いずれせよ、わかりません。わかりませんが理由もなく、そうしたいと感じる自分がいます。そうしたい、とは、もう1度あの場所に母を連れ出したい、ということです。膝や腰が悪い母とは90分も居られませんでした。いや、90分も話せた、言えた、伝えたいことを表現できた、ともいえます。よくやったと自分を誇りに思うし、労ってもやりたい。でも不十分でした。まだやり残していると、そう感じる私がいます。わからないし理由もハッキリしないのに、何かをやり残している感覚が私を動かそうとするのです。

なぜかは、わからないんですが、きよしさんの話を聞いていて、世界平和、という言葉を5回、思いました

私が過ごした、ブルーシートの時間を指して、そうやって言葉をかけてくれた人も、います。

きよしさんの、やりたいように、やったらいいと思いました。やり尽くしてみては、どうですか

父との時間に感じた、満たされた、豊かだと思えたソレとは違い、母との時間には満たされない何かが、あります。その1つにあるのは、母の話を聴くことが、できなかったからなんじゃ、ないだろうか、という思いです。あのときの私は怒り、憤り、苛立いらだちを感じていました。それに意識を奪われ、母の関心事に自分を寄せることが、できなかったんです。

私は
どうしたいんだろう

なぜだか、そうしたい自分がいます。私の評価、ジャッジを脇に置いて、母の関心事に触れることが私に、できるだろうか。それをやってみたい。そう感じる自分に気が付きます。

そうすることに
誰かを納得させるだけの理由は
ないんですが




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「いま、この人を伝えたい」を発信するメディア『THEY』
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