刺青とオナニーと叔父
私の父方の叔父は、背中に龍を飼っている。和彫りのその龍を、私は未だ見たことはない。ちなみに私の知る限り、父方はそういった筋の家ではない。
龍のことを知ったのは最近だった。
母は私が知っていると思っていたらしく、家で母が当然のようにその龍の話をして、私はすっかり驚いた。
私の中の叔父の記憶は、私が五歳くらいの頃に親戚の集まりで私に突如「オナニー、知ってるか?」と言ったことと、たばこの臭いがついた寄生獣の漫画を貸してくれたこと、だけ。
「オナニー」という言葉を知らなかったあの時。私の中で平仮名にもカタカナにも変換されずに、リフレインする「分からない」。4モーラの音だけが私の脳にうずまって消えない。
意識の上では忘れていた。
第二次性徴が男と女を象って、私たちの眼前に生物的性差を生み出し始めた、それくらいの時期に、私は忘れていたその行為を忘れたまま認識して、忘れたまま経験を終え、暫くして理解した時に忘れていたことを思い出した。消えてなかったんだな、と知った。
そのことは私にとって笑い話であり、何らシリアスなことではない。
ただ、ある時点では認識すらしていなかった何かをやがて理解した時、私たちは自分の脳内の、言葉が配列されていく部屋にかつてあった隙間、或いは、順序というものを知らなかったためにちぐはぐにもなれなかったぐちゃぐちゃなジグソーパズルに思いを馳せることができてしまう。そのことに戦慄した。
叔父が刺青を入れた理由を私は知らないけれど、きっとその龍は叔父を守ってきてくれたのだとも思う。じゃなかったら、彫る時の痛みとか温泉に入れないこととか龍の背を覆うくらいのその大きさとかが、何かと釣り合っていない気がする。悪いことばかりでもないのだと思う。
叔父が背中に龍を飼うように、私も心に龍を飼ってみたかったな。派手さも華やかさもいらない。目を凝らして漸く見えるくらいでいいのに。きっとその龍は私の「分からない」を食べ尽くして、「分からない」への恐怖を忘れさせてくれただろう。
私には龍はいない。「分からない」を許容してくれる者はいない。だけど、それも悪いことばかりではない。
分からなかったことを理解した刹那にそれに付随していたあらゆる記憶が流れていく。それがどんな記憶であれ、過去の私から現在の、そして未来へと巡っていく。そうして育まれた好奇心が私を突き動かす。でも、だからなんだというのだ。
嗚呼、私の中でうずまって、忘れられたものが、火薬庫みたく、何らかの拍子に強烈な痛みを乗せて飛び出してきてきっと私を抉るだろう。そんな杞憂が今も私を襲う。
纏ったものを脱ぎ捨てれば、背中の龍は忽ち現れる。私にはそれが羨ましいのかもしれない。