「誰かの役に立つ」って
発信していると「ウケのいい言葉」と「ウケの悪い言葉」があるなあって肌感覚としてわかるんですけど、【人の役に立つ】という言葉や内容はあまり好まれないんだな、ということに気づきました。
「”好き”を大切にする」とか「自分を満たす」とかはふつうに反応がいいんだけどね…。
でもそれは誰が悪いわけでもなく、おそらく根底にある原因って日本人の気質や文化なんだと思うんですよねぇ。
「人の役に立とう」って言われると、イコール、我慢する/本音を抑える/誰かの言いなりになる/役割を押し付けられる…みたいに、自分が抑圧される感覚に陥りませんか?
で、きっと近代日本の教育って、そういう方向で「人の役に立つ」ってことを教えてきてるんですよ。自分を我慢して相手を優先する、みたいな。そういう儒教的思想や全体主義が都合のいい時代もありましたから。(今でもまだそういうところがあるよね)
そして実際に、この一見「イイコトをしよう、いい人間になろう」みたいな言葉で我慢を重ねてきた人も多いんだと思う。
そりゃ拒否反応が出るよね。
でも、ですよ。ちょっと考えてみてほしいんです。
私たち自身も日常の中で、いつも自分にとって役に立つものをピックアップしていませんか?
それはインフラのような生活に役立つものだったり、美しい作品や大好きな音楽、肌触りのよい毛布のような五感や感性が喜ぶものだったり、感情や欲求を満たしてくれるものだったり。
形あるものだけでなく、情報だって「自分にとって役立つもの/何かを満たしてくれるもの」を選択したり好きになったりしてるはずなんです。
なので、私たちは人の役に立ってなんぼなわけですね。
選ばれる人になるってそういうこと。
そのときに忘れちゃいけない大前提が、人の役に立つということは自分を我慢することではない、ということです。(太字にしちゃうぞ)
あなたの才能(私は”機能”という言い方が好き)を使うんだよーってことだし、その機能がもし好きなことであるなら尚のこと、与える側/受け取る側の双方向にとって幸せですよね。
自分の才能を知りたいっていう人はたくさんいるけれど、もっているものが才能なんだって自覚できるのは、それが誰かの役に立ったとき。
もっているだけじゃ才能だと気づくことはできません。
だから、どんどん人の役に立っていこうじゃないか!と、最近の私は思うのです。