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#乙武義足プロジェクト に関して思ったことや考えたことなどを整理してみると #xdiversity

こないだ,#乙武義足プロジェクト の終幕を見届けてきた.
元々,xDiviersityに関わるようになってから,このプロジェクトの存在を知るようになり,自分の中でも色々と思うようになったのは言うでもない.

ただ,私個人としては,本記事を通して批判するつもりはないし,なんでこう思ってしまったんだろうかを改めて自分の中で整理していくことで,こういう視点もあるのかっていうのも皆さんにも知ってもらいたいと思い至った.

まず,乙武さんが4年間かけてロボット義足を使った歩行にチャレンジしてきたことについては,下記のnote記事でも触れている通り,まだ整理するのに時間を必要としているかもしれないと乙武さん自身でも実感している.

遠藤さんの方でもきっかけについて下記のnote記事で触れている.

では,私は一体なぜこうにも色々と思うようになったんだろうかというと,下記のステップというか,論点が混ざってしまったのが大きかったんだろうと今になって実感している.

  • 例のスキャンダルを一掃するためにチャレンジ

  • 参画してもらうにあたって,インフォームド・コンセント取得の面

  • 広告塔としてみんなの為にチャレンジ

  • ロボット義足の見せ方

まず,例のスキャンダルを一掃するためにチャレンジするのは,私としては正当化するつもりはないし,これは乙武さん自身の問題なので,どちらかといえば,乙武義足プロジェクト全般への批判として触れるのはちょっと違うなと自分の中で受け止められるようになった.

また,参画してもらうにあたって,インフォームド・コンセント取得の面についても,ちゃんとやりとりを重ねたうえで意思を確認していると私は見ている.実際に遠藤さんから乙武さんへ説明を重ねていることも乙武さんから説明があったし,途中で止めようと思えば止められるはずなのに,終幕までやり遂げたのは乙武さん自身が諦めたくない意思が反映されていることは間違えていないと私は捉えている.

広告塔としてみんなの為にチャレンジする,この部分は私は少々モヤッとしている.「自分は歩こうと思わないが,他の皆さんが選ぶきっかけや希望となるのであればチャレンジする.」というのは,まだ違和感を感じていた.ただ,乙武さんではなく,歩きたい方がチャレンジするとなったら,他の皆さんが見守ろう,チャレンジを応援したい,私もできる!とかになることができたのかは未だに的を得たような回答を思いつかなかった.これは今後の広告のあり方やマスメディアなどの見せ方についてみんなで一つ一つ議論を重ねていきながら改善していくしかないのかなと今の私にとって妥協的な回答しかできない.

最後に,ロボット義足の見せ方についてだが,私も1度だけろう難聴者に例えて考えてみたことがある.それは人工内耳である.
しかし,結局,例えて考えるのをやめた.それは意味がないと分かったからである.まず,人工内耳は,下記の点になると思う.

  • インプラントという侵襲性が伴う

  • 言語やコミュニケーション

  • 聴覚という名の知覚

しかし,ロボット義足だと,上記の点を踏まえるようなことはないと言える.

  • インプラントという侵襲性が伴わない
    →センサーが取得した情報を元にしてモーターが稼働する形になっている

  • 言語やコミュニケーションという側面はない
    →そういった側面はなく,運動による体験を可能とする

  • 知覚というような側面ではない
    →知覚よりも運動支援になる

また,車椅子という選択肢しか偏るのではなく,当事者がロボット義足,義足,車椅子のどれかを選んでも良いし,途中でやめても良いと思う.それよりも,マジョリティに合わせる選択肢,マイノリティなりの選択肢と様々な選択肢を選べる段階に至っているかどうかの問題ではないか?

偶然にも,乙武義足プロジェクトが終幕を迎え終えた現在になって,片山真理という方が,ハイヒール型義足を用いたプロジェクトを再開している.
そこでも本質が似ていると改めて思い至った.

まず,選択肢があーこーだというよりも,選ぶか選ばないかという前提があるかどうかだと思っており,今回の乙武義足プロジェクトは,車椅子や電動車椅子などのマイノリティなりの選択肢ばかりではなく,マジョリティに合わせる選択肢に新しく加えた選択肢として示し,どうやってその選択肢を尊重していくかの過程を見せることができたのではないかと私個人的には捉えている.

逆に,人工内耳を装用して〜みたいなプロジェクトだったら私はおそらく反対するであろう.そうなった場合,その人の人生に永遠に付き纏うようなものが生じてしまうからだ.そう,「インプラントという侵襲性」「言語やコミュニケーション」の2点によって,その人が取り止められなくなってしまうからである.それに加え,マジョリティに合わせる選択肢ばかり示し,手話などのマイノリティなりの選択肢を潰してしまいそうではないかと危機を抱えてしまうからだ.

だからこそ,私は人工内耳を装用することに違和感を持つだろうし,耳で聞くのではなく,音声認識をどう活用すれば良いだろうか,音声情報を活用しないで済むだろうかと考えながら生きている.実際に,See-Through CaptionsやHaptStarterもそういう意味が込められている.

そして,ろう・難聴者の皆が,いや私も含めて,どうやって手話という言語を通してテクノロジーを学び,聴者の視点で作られたテクノロジーを逆手に生かすような環境を整えるようにはどうしたら良いかって薄々と頭に浮かべながら歩き回っている.ここら辺の話はまた長くなりそうなので,一旦切り上げるとして.

改めて,今回のプロジェクトはある意味一石を投じることができたのではないかと思う.今後はそういう議論が盛んになっていくことを祈るのみである.

というのが,私なりに自分の中で色々と思ったことを整理した内容である.

そして,4年間走り抜けた,乙武さん,遠藤さん,乙武義足プロジェクトメンバーの皆さん,改めてお疲れ様でした!

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