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MinorityによるMinorityへの差別とは

最近,博士後期課程に入学してから,この題目について頭を抱えるかともいうほど深く考える,懸念するほど,頭が痛くなってきた.

また,記事として書き綴って良いのか迷ったが,アーカイブとして残すことに.
決して批評しているのではない.それだけは言いたい.


では,本題に入ろう.

そもそも,”MinorityによるMinorityへの差別”とは何かという前に,”Minority(マイノリティー: 社会的少数者)”は下記の通りであり,障害者も含まれる.
(ソースがWikipediaで申し訳ない)

特に聴覚障害者は,聴覚障害というカテゴリだけではなく,手話やろう文化を身に付けた人はろう者,つまり少数民族でもあると訴えている方もいる.

私個人的にはそんな少数民族がいても良いと思うし,少数民族ではないっていう人もいても良いと思っている.


しかし,本題である”MinorityによるMinorityへの差別"が実際に存在する.
平成から令和に改元した現在でもだ.

聴覚障害者に限定して,例えをいくつか出すと,こんな感じだろうか.

1. "何故,声(or 手話)を使おうとしない?"と責める
2. 人工内耳の装用者に向かって"あんたはろう者ではない"と言い切る
3. 何かの生活様式に向けて”ろう者(or 健聴者)に合わせろ”と押し付ける

これらは思いついた限りで,実際に起こったかはわからないが,イメージが伝わっただろうか.
この差別については,当事者団体や特別支援学校内でも発生しやすいではないかと思っている(勝手な個人的な見解で申し訳ないです)

それもあり,大学に入学してから,色々と経験したのに加えて,常に”MinorityによるMinorityへの差別”を意識しながら行動するように心がけている.(と言いつつも何度も失敗し,後悔することがほとんどであるのは否めない)

ただ,いつも頭に浮かんでいるのは,「"MinorityによるMinorityへの差別"を受け,”当事者同士の嫌悪感”を抱えてしまった人はどうしているんだろうか.」である.

具体的に述べると,東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎 准教授が下記の記事でも触れている通り,"「自立」するのには,社会の中に「依存」先を増やす”に結びつけて述べると,”当事者同士の嫌悪感”によって当事者の視点が共有されやすい場が「依存」先ではなくなってしまい,想像すらしたくないほど絶望の先へ陥ってしまうのではないかと考えてしまう.

もちろん,私はそんなの経験したことがない(普通に差別だと受け止めていないだけかもしれない)ので,絶望の先へ陥ってしまうのってどんな感情なのか,どんな心情なのかも想像もつかない.

それもあって,常に障害者をターゲットにした新たなテクノロジーについて述べる際は,あくまでも選択肢の1つだと強調するしかないだろうって腹に決めている.

これは偶然にも,Xiborg社の遠藤 謙さんも現在の”OTOTAKEプロジェクト”関連で,同様な事を言っている.(遠藤さんが述べたソースが見つからないので,乙武さんが述べた記事で申し訳ない)


結局,もっと社会がシンプルで多様性が溢れるようになれば,この”MinorityによるMinorityへの差別"も極端少なくなれるかなって僅かな希望を持てないし.そうでもないとやりきれないなとしか言えない.

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Thetaθ Akihisa (Akihisa Shitara)
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