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銀魂の資本主義リアリズム

資本主義の胎内記憶

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 空知英秋による『銀魂』が連載された時代、それは小泉内閣、そして安倍内閣の時代である。
 戦後政治の総決算、戦後レジームからの脱却を唱えた中曽根-小泉-安倍によって新自由主義+新保守主義が形作られる中で、小泉内閣は聖域なき構造改革を掲げ、郵政民営化をはじめとした大規模な改革を断行し、グローバル企業をはじめとした大企業の躍進に貢献した。
 こうしてグローバル経済が推し進められ、平等な国際関係が築かれるが、それは唯一非対称な関係、アメリカ-日本をもってして成り立つ虚構性を帯びる。このアメリカの絶対的な一極体制を日本は忘却に拠ってして、平成を過ごした。これはつまり戦後、GHQ以来のことであり、『銀魂』においては天人の支配がそれに相当する。
 そして、この虚構性を腐った世界と批判し、破壊することを選んだ者こそが『銀魂』における高杉晋助である。彼は大切な人、吉田松陽を奪ったかの大戦を忘れるこの国に、反旗を翻す。しかし、まずもって『銀魂』は江戸、黒船の来航した時代、平成と時を隔てた舞台であるが、江戸が朝鮮からの文化使節を除けば日本は孤立し、ガラパゴスに文化を形成していったのに対し、平成はグローバル経済真っ只中でありながら、文化的には「J回帰」、つまり閉鎖的な文化圏を形成していた。この「J回帰」という点で、江戸と平成は共通している。高杉晋助はこの江戸を平成に重ねる行為そのものの虚構性を批判しているのである。実際にある程度閉鎖された空間で、文化を醸成していった江戸に対し、平成は開かれた空間を前にして閉じ籠もる。それもアメリカ=天人による加護を享受することで。この虚構に塗れた「享楽」、「終わりなき日常」に彼は怒りを覚える。
 そして、それを理解した上で尚、その日常を肯定するのが坂田銀時である。例えば第五十三訓『煩悩が鐘で消えるかァァ己で制御しろ己で』での彼は、大晦日の夜、服部全蔵とジャンプを賭けて戦う。しかし、それはもはやかの大戦のような大義を持たず、金が足りないことを発端として商品を奪い合うという極めて資本主義的な競争である。だが、こうした大晦日といったお祭り騒ぎの渦中にあっても、物語の背後にみえるトラックが、実はジャスタウェイという爆弾を詰め込んだテロリスト集団のものであったりなどと、隠された政治性が垣間見える。このようなことに、坂田は否応なく巻き込まれていくことで、法外の「享楽」は常に中断される。  
 そして、この法外という「計算不可能性」を求め、歴史の忘却に向かう中、忘れられるもの。それが「亡霊」である。

憑在論としての新自由主義

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 高杉晋助は、師である吉田松陽をはじめとした人間が、確かに存在していたことの「痕跡」、すなわち「亡霊」を、この地をもう一度かの大戦のような焦土に返し、可視化することに破壊の原動を見出す。
 しかし、この「亡霊」の失われた世界には、また新たな「亡霊」が跋扈している。アメリカ=天人の資本主義によってもたらされたそれは、貨幣に取り憑く。資本主義においては、労働が「具体的有用労働」から「抽象的人間労働」へ変遷することと並行して、商品は具体的な使用価値を差し置いて、交換価値が重視される。こうした社会では、

(前略)人間のさまざまな労働がどのような形態で行われたかにはまったくかかわりなく、単に無差別に行使された人間労働の凝縮物という亡霊のような対象性にすぎない。
マルクス『資本論』

 このような商品の交換価値を担保するのが、貨幣の亡霊性に他ならない。
 そしてまた、前述のように平成は新自由主義+新保守主義によってそのグローバル資本主義が推し進められ、時代の意識はこうした資本主義に呑まれていくこととなった。

わたしがこの本全体をつうじて議論していることだが、新自由主義をもっともよく理解するには、それが単なる経済政策ではなく、市場の価値観と評価基準を生活のあらゆる領域へと散種し、人間そのものをもっぱらホモ・エコノミクスとして解釈する統治合理性であると理解するのがよい。新自由主義はそれゆえ、かつては公的に支援され尊重されてきたものを、たんに私有化する――個人の生産と消費のための市場に委ねる――だけではない。むしろ、それはあらゆるものをあらゆるところで、人間そのものを含めて、そして人間だからこそ、資本の投資と評価の観点から規定するのである。 
ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃』

 例えば第百六訓『もの食べるときクチャクチャ音をたてない』での本城狂死郎。彼はお金を貰って女性を接待するというまさしく「抽象的人間労働」のホストを生業とするが、母が誘拐された際、彼は身代金によって解決しようとする。ここで資本主義のドグマは人間すらも金と等価に交換可能、計算可能なものにしてしまう。しかし、坂田は身代金の取引を妨害することでその交換を否定し、人間が人間であるためのなにかが「計算不可能性」にあることを示唆する。また、母の「母さん アンタが元気でやってくれれば それでいいです たとえ どんなんなったって アンタは私の 自慢の息子です」の言葉にあるように、その交換不可能、計算不可能な無条件の愛は、家族の時間に最も過剰に、時には鬱陶しいまでに生まれる。

歴史の終わりと新保守主義

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 そして、こうした計算不可能性に逆行して自らを交換可能、計算可能な場に投じる者たち。それが新撰組=真撰組である。真選組は副長の土方十四郎によって書かれた違反した者を切腹に処す厳格な局中法度を規則とすることで、かの大戦以前にはあった「大きな物語」を死守することに努める。このような在り方こそが「歴史の終わり」において尚、人間が動物的な在り方に陥ることなく生きる姿ではないか。

私がこの点での意見を根本的に変えたのは、最近日本に旅行した(1959年)後である。そこで私はその種において唯一の社会を見ることができた。その種において唯一のというのは、これが(農民であった秀吉により「封建制」が清算され、元々武士であったその後継者の家康により鎖国が構想され実現された後)ほとんど三百年の長きにわたって「歴史の終わり」の期間の生活を、すなわちどのような内戦も対外的な戦争もない生活を経験した唯一の社会だからである。ところで、日本人の武士の現存在は、彼らが自己の生命を危険に晒すことを(決闘においてすら)やめながら、だからといって労働を始めたわけでもない、それでいてまったく動物的ではなかった。「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」或いは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」或いは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた。これは、その効力において、日本や他の国々において「歴史的」行動から生まれたそれ、すなわち戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律を遙かに凌駕していた。なるほど、能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。このようなわけで、究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビスムにより、まったく「無償の」自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。この自殺は、社会的政治的な内容をもった「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。
アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』

 そしてまた、真撰組が天人によって傀儡政権と化した幕府を、それでも擁護する。このような在り方は、平成の日本における統治のかたちとも重なる。まさに、アメリカの加護を受けながら、小さな政府によって資本主義を称揚しつつ、伝統的な文化を擁護する新保守主義そのものである。
 しかし、第百五十九訓『掟は破るためにこそある』では、その局中法度を決めた張本人である土方自身が、妖刀の力によってそれに違反してしまう。そもそもこの土方という男は物語において、刀をあくまでも道具として捉えているのに対し、山崎、沖田、近藤は購入した刀の自慢をし合うのに代表されるように、商品として刀を捉えているが、その土方ですら刀を商品とする「亡霊」に取り憑かれてしまい、無我夢中でアイドルといった商品を貪ることとなる。このように、新保守主義を体現する彼ですら、新自由主義の魔の手から逃れることはできない。こうして、局中法度に違反した彼は真選組から追い出される、つまり「計算可能性」の外へ向かう。これは、すなわち過去の侍政の存続という歴史的、時間的な重みから離れ、全き現在の享楽に投じることでもある。

日輪を待ちながら

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 しかし、この相反する新自由主義、新保守主義は、社会福祉とその受給者を嫌悪することで結託する。無論、本作の世界にどのような社会福祉の整備が成されているかはわからないが、現実に生活保護の受給を忌避して風俗に足を踏み入れる女性は多い。本作も、そのような現実を反映しているといえるであろう者が存在する。それが、吉原桃源郷の女たちである。
 第二百十二訓「晴れの日に雨傘さす奴には御用心」で明らかになるように、かの大戦の後、天人によって地中深くに作られた吉原桃源郷は、幕府にも黙認される超法規的空間であり、遊女たちは一度入ったら二度と日を拝むことの出来ぬ、この「監獄」のごとき場に閉じ込められる。このような場において、資本主義の論理は徹底され、男性による監視、観察(observe=opticon)は人間をも商品としてしまい、忘却されたアメリカ=天人との支配関係は眼前に露呈するが、それでも尚、商品であることを拒む女、日輪が、共同体の中で象徴的な存在と化していく。
 そこで、坂田銀時は日輪を母と信じ、会うことを望む少年、晴太とともに吉原桃源郷に乗り込む。この乗り込む要因が、前述の本城狂四郎と同じく家族にあることは、確認すべき点である。このようにして坂田銀時は「終わりなき日常」を肯定する立場にありつつも、目のまえの人間に対する「憐み」をもってして政治的立場を越え、その暗部にも立ち会う。これは、過去、つまり故人の「亡霊」を尊ぶがゆえに、目のまえの人間に対する共感や同情を無下にする高杉晋助とは対照的である。

 柄谷さんや高橋さんの他者は究極的には神だと思います。ぼくやローティの他者は、動物というか、近くにいるペットみたいなものだと考えればいい。例えば「飼い犬は他者か?」と問うたとき、柄谷さんや高橋さんはおそらく否と答える。けれども、ローティは飼い犬こそを他者だと思うのではないか。裏返せば、それは人間を動物と同じように扱ってしまう哲学でもあります。ローティは「目のまえの人間が苦しんだり痛がったりしていると、人間は手を差し伸べてしまう。そこから始まるんだ」というわけですが、それはペットをまえにした感覚と同じですからね。柄谷さんや高橋さんは、おそらくそういう感覚を他者への直面だとは考えない。
 彼らにとっての他者は、そのような共感ではけっして届かない、絶対的なものだと思います。それは宗教的な体験にも近い。そのような体験は、それはそれで尊いものではありますが、社会をかたちづくる原理としては十分ではないように思います。超越的な他者を強調することによって、目のまえの人間に対する共感や同情を壊してしまう可能性すらある。したがって、ぼくはローティのほうを支持するのですね。
東浩紀『哲学の誤配』

 このように、坂田銀時、そして「憐み」とは現在のもとに生起することから、「歴史の終わり」においてこそ育まれる人間の動物的な有り様を呈す。

忘却の絶望の島

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 この「憐み」をも忘却に至らしめるもの。それが、資本主義である。
 第二百六十五訓『人気投票なんて糞食らえ』では、その資本主義による競争が、読者=神が天人=アメリカに代行して、人気投票という形で人間をも評価経済に呑み込むことで、メタ的に表象される。この読者=神によって一方的に監視、観察(observe=opticon)され、閉鎖的空間を形成することは、新自由主義により資本主義が加速される現実の日本においても同じである。こういった状況下において、競争の外を、資本主義の外を想起することは、非常に難しい。

「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。このスローガンは、私の考える「資本主義リアリズム」の意味を的確に捉えるものだ。つまり、資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態のことだ。
マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』

 また、この「資本主義リアリズム」は空間的な閉塞感のみならず、時間をも支配する。

浅田:一般論として、近代とは、恐るべき終わりを予期しながら、常にそれを先送りすることによって均衡を保つプロセスです。
 世界の終わりの日が分かっていたなら、だれもその日には紙幣を受け取らない。だから、その前日も、いや、巡り巡って今日も、受け取らない。必ず明日があるという前提のもとで、最終的決算、つまり恐慌を繰り延べていくのが資本主義です。大江健三郎、浅田彰『平成二年五月一日朝日新聞夕刊

 つまり、「資本主義リアリズム」とは来たる恐慌に慄きつつも、常にその忘却に拠って、全き現在を生きることを要請する。この資本主義を、前述の中曽根-小泉-安倍の新自由主義的政策が、加速させると同時に、中曽根-小泉-安倍の新保守主義的政策は、戦後の意識、そして日本がアメリカの下にあることを忘却させ、「J回帰」を引き起こした。
 そして、このような「資本主義リアリズム」と「J回帰」の結託に、日本、その「常民」は蝶番のようにして番いを成す。

『常民』は民俗学の基礎概念であると同時にその独自の対象領域を指す主体概念であって、『常民』の客体化された現象形態が民間伝承に外ならない。国民の生活文化一ここにいう“文化”に 対置されるものはおそらく“自然”であろう一は時間的な奥行きと空間的な広がりとの掛け合わせの中に階層性の契機を含むから、時代的に区分され、地域的に区分され、また階層的にも区分されうるが、それらとは別に『常』と『非常』との二つの契機に区分されること、後者が通常歴史学 (文献的)の対象であるに対し、それに対置されるものとして前者の世界が別に存在することを新しく発見し、他学未訪のこの新分野を独自の固有領域とすることによって民俗学は一つの個別科学として成立したものと考えられる。従って『常民』とは、視角の如何によって時代別・地域別・階層別など種々に区分されうる当体としての国民生活文化を『常』の契機で捉えたものに外ならない。 それは新しく開発された全く独自の部面であって、庶民・民衆その他既存のいかなる語を以てしてもその概念を充分に尽くしえないため術語としてことさらこの新語を創設する必要があったのである。
竹田聴洲『常民という概念について—民俗学批判の批判によせて—』

 この「常民」の性質それ自体が「終わりなき日常」を非常との関係のうちに捉えることを余儀なくさせる。銀魂の人気投票とは、資本主義の内にありながら、平時の「俗なる時間」から隔てられ、過去と未来を欠いた閉鎖的空間としての「聖なる時間」を生きさせる。すなわち、2000年代、あるいは平成とは祭りの時代であった。
 したがって、こうした虚偽の「カーニバル」としての資本主義の終わり、また外を志向する唯一の方法は、にほかならない。よって、物語は志村新八と山崎退、現実はカート・コバーンとマーク・フィッシャーの死によって終わりを迎える。

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