The StadiuM広報部|第2弾(全4回) #バルセロナでの熱き5年間
プロスポーツトレーナーアカデミー「ProSTA」を運営している株式会社The StadiuM広報部です。社長の山田に経歴を聞きました。スポーツトレーナーのきっかけや出会い、アカデミー「ProSTA」について話を聞いていきたいと思います。今回はシリーズの第2弾です。
バルセロナでの熱き5年間
ある本との出会いが社長山田をバルセロナへと導いた
- もともとバルセロナに行く予定だったんですか?
山田 いいえ、全くそんなことは考えてもいませんでした。もともとは当時在籍していた企業にロサンゼルスの支店に行ってほしいという話を頂いていました。研修を終え、勤務開始日も決まっていた時、人生を変えるある一冊の本に出会ってしまったんです。
- 人生を変えた本とは?
山田 羽中田 昌さん著「グラシアス」です。この本は日本代表確実と言われたエース・羽中田さんの人生について書いた本です。本の中では羽中田さんが不慮の事故で下半身不随となり、一度はサッカーの夢を断念するも、バルセロナの地でサッカー指導者を目指す姿が描かれていました。
この本を読んだ時、自分はバルセロナに行きたい。羽中田さんに会いたい。そう思ったんです。
「グラシアス -サッカーからの贈り物- 」羽中田 著 1999年刊
下半身不随となり、一旦はサッカーの夢を断念するも、妻や師や友人に支えられ、もう一度グラウンドへ戻ることを決意。バルセロナの地でサッカー指導者を目指す著者の、熱血サッカー人生論について書かれた本。
- 本に感銘を受け、その後バルセロナに行かれたんですか?
山田 はい。まずは1週間。どんな場所なのか知りたい、自分で感じたいと思いバルセロナに行きました。そして行く前にバルセロナでどうしても羽中田さんに会いたいと思い、手紙を送りました。
- はじめてのバルセロナ、山田社長はどんなことを感じましたか?
山田 とにかく衝撃的でした。全部のものが今まで自分が知っている世界とは全く違うものに見えたんです。すべてがキラキラと輝いているように感じました。そしてこの期間、無事羽中田さんともお会いすることができ、「俺は絶対ここに住むんだ」と決意しました。そして1週間の滞在後、当時在籍していた企業を退職しました。
100万円を握りしめ、いざバルセロナへ
- バルセロナに渡り、最初はどんな生活を送っていたんですか?
山田 たった100万円しか持っていなかったので最初の2週間位は1泊2000円位のゲストハウスに住んでいました。エレベーターのない6階建ての建物を大きなスーツケースを持って移動するのは大変でしたね笑 当時スペイン語の語学力もゼロだったので羽中田さんに教えてもらった語学学校で勉強しながら生活していました。
- そこからバルセロナの3部のユースチームのトレーナーになったと聞きましたが、どのようなきっかけだったんですか?
山田 きっかけはまたしても羽中田さんです。当時羽中田さんのお知り合いの方が3部のユースチームの監督で、お金は稼げないけど働いてくれるならチームに参加してほしい、そんな風に言ってもらったんです。当時の私はとにかくスペインのサッカーチームに入ることを目標にしていたので喜んでその依頼を受けました。
- ユースチームでのトレーナー生活はどうでしたか?
山田 大変でした笑 トレーナーとして働くことが決まった後、すぐにチームに合流したのですが、もちろん他にトレーナーはいなくてテーピングやハサミと行った器具もありませんでした。この状態ではきちんと仕事ができないと思い、自費でプロ用の器具をすべて揃えました。当時のチームにはお金が無かったので。それ以外にもテーピングも試合ごとに自腹で買い、試合会場に持っていっていましたね。それ以外にも言葉が伝わらなかったため、スケッチブックに膝の絵を買いて症状や治療ついて必死に説明していました。
トップチームのトレーナーにならないかと依頼が舞い込む
- ユースチームで働いていく中で転機はありましたか?
山田 ちょうどユースチームで働いて2年目になるとき、トップチーム(オスペタレッド)のトレーナーにならないかという話を頂いたんです。今まで1年間の自分の頑張りを見てくれた仲間の後押しもあり、すぐにこの仕事を受けることに決めました。当時の会長には「なんでもやります!全部やります!」と熱意を持って伝えていました。
ピッチの下からバルセロナのスタジアムを見上げてみたい
- トップチームでの仕事で山田社長に変化はありましたか?
山田 そうですね、トップチームに入ってからは今まで以上にサッカー漬けの日々になりました。自分が参加している試合も含め、一日4試合すべて見ていましたからね笑 そしてそんな日々を送っている時ある一つの強い思いがこみ上げてきたんです。それが「ピッチの下からバルセロナのスタジアムを見上げてみたい」という思いです。スペインでサッカーに携わっている以上、超一流の場所でお客さんではなくトレーナーとしてピッチに立ちたいと思ったんです。志が定まった瞬間でした。
- 志が決まった後、山田社長はどんなことをしたんですか?
山田 これまた、すごくタイミングが良かったのですが、仲間のヘッドコーチがスペインリーグ1部(ラシン・サンタンデール)のジェネラルマネージャーに昇格していったんです。これは通常ではありえない異例の出世なんですが、どうしても1部の世界を見てみたかった私は、彼にお願いをして、1ヶ月間の夏のキャンプに参加させてもらったんです。
- 1ヶ月の夏のキャンプはどうでしたか?
山田 今までなんだかんだで一人でトレーナーとして働くことが多く、チームとして働いたことがなかったので正直最初は難しかったです。でもこの期間、選手にもスタッフにも認めてもらうために必死に頑張りました。
参加型トレーナーとして存在感を発揮
- 選手とスタッフに認めてもらうためにどんなことをしたんですか?
山田 まずは1番最初に出勤、準備、みんながめんどくさいと思うことは全部自分でやりました。「山田がいたら助かる」そんな風に思ってもらいたかったんです。そして選手にも認めてもらうため、きつい練習も一緒に参加しました。
- キャンプ最終日に驚くべきことが起きたと聞きました。
山田 実は最終日に選手が会議を開いてくれて「山田をチームに残してくれ」とジェネラル・マネージャーと会長に告げてくれたんです。そこで契約が決まり、スペイン1部リーグのプロスポーツトレーナーになることが決まりました。あまりにも嬉しくて、プロっぽくサインしているところを事務の方に撮ってもらったりなんかしましたね笑。
- すごいですね。実際に1部のトレーナーになってみてどうでしたか?
山田 私は飛び級みたいな形で、ラシン・サンタンデールのトレーナーになったので、「なんでお前が?」みたいな視線も感じたことは正直ありました。でも皆に認めてもらうため、時にユースチームを手伝ったり自分のできることは全力でやっていました。
- 日本とスペインのサッカーの違いは感じましたか?
山田 スペイン1部リーグの選手はやっぱりプロだなと感じました。みんな生き残るのに必死。全力で練習するし試合にも挑む。死にものぐるいで戦っていたのが印象的でした。
もうこれ以上、上には上がれない
- そんな中、2シーズンが過ぎて日本に帰国することを決意したと伺いました。
山田 はい。ラシン・サンタンデールは素晴らしいチームだったのですが、この場所にいても自分が更に上がっていくことが感じられなくなってしまったんです。飛び級みたいな形で1部チームに入れてもらい、更に上ってなんだろう。自分が成長できる場所ってなんだろうって。
- そこで日本帰国を決意されたんですか?
山田 最初はなんとなく次のステージってなんだろう、と頭に浮かべていただけだったのですが、帰国を決めたのは日本で立ち上げた治療院に仕事のオファーが来たことでした。実は2シーズンが終わって一時帰国していたとき、元同僚の野球のトレーナーの渡部拓と一緒に成城学園にロコ・ケアと言う治療院を立ち上げていたんです。そしたらそこに湘南ベルマーレからトレーナーとしての仕事の依頼が舞い込んで。スペインでの学びを日本で活かせる、トレーナーとしてチームを編成できるといった条件に惹かれ日本への帰国を決意しました。
第3弾は日本帰国後のJ1でのトレーナー活動、なでしこジャパンのメンバーとの出会いと絆についてお届けします!
[プロフィール]
山田 晃広(やまだ みつひろ)
株式会社The StadiuM代表取締役。株式会社ロコケア取締役。Penya F.C. Barcelona Japan 公認サポーターズクラブ副会長。
東京都葛飾区出身。大手鍼灸スポーツマッサージ院で7年勤務し、アトランタオリンピックなどへも帯同。単身でスペインへ渡り、リーガエスパニョーラで5年間トレーナーの経験を積む。帰国後、スポーツトレーナーとしてJ1や澤穂希選手のオリンピック帯同などプロアスリート選手の試合帯同の傍ら、スポーツトレーナー専門アカデミー「ProSTA」事業を開始。現在は200人の卒業生を輩出している。
[資格]
鍼灸あん摩マッサージ指圧師/認定ProSTA アカデミーマスター講師/原田式メンタルトレーニング指導者/呉竹学園東京医療専門学校スーパートレーナーコースマスター講師