複雑なものは複雑なままで



 要約の問題を解くとき、人に何かを説明するとき、レポートの結論を書くとき、他人をみるとき。私たちはわかりやすいように一つにまとめる。できるだけわかりやすいように言い換える。


 去年の12月中旬、監督玉田真也、脚本アサダアツシの「そばかす」という映画をみた。恋愛に興味もないししたいとも思わないという主人公の話だ。
 いわゆるその主人公は、アロマンティック・アセクシュアルというセクシュアリティを持つ。他者に恋愛感情を持たないアロマンティックと、他者に性的感情を抱かないアセクシュアルが組み合わさったものだ。しかし、この映画の中でそのワードは出てこない。

 玉田真也監督はインタビューで、「名前をつけることで、輪郭がはっきりしてわかりやすくなると同時に、そこから剥ぎ落とされる部分もあると感じたんです。削ぎ落とされた部分も、その人の一部なのに。」と話す。主人公佳純を演じた三浦透子も、こう話す。「セクシュアリティが、そもそもグラデーションのあるものですもんね。はっきりと、「こっちとこっち」みたいな境界が引けるものでもなくて、その間にいる人もたくさんいて。答えを出しきれないような「複雑なもの」は、複雑なままでいい。」

 確かに、名前をつけることはとても怖いことだ。例えば、少し気になっている人がいるとする。友達にそのことを話す。「それ、恋じゃない?」と言われる。その途端、私のその気持ちは否応なく「恋」と断定されがちだ。わたしは、「この気持ちは、恋なんだ」と思う。今まで名前のついていなかったその気持ちが、一気に輪郭を見せてきて、その人を見るたびに、「恋」というワードが浮かび上がる。それが、本当に恋なのか、恋じゃないのか。その問題はさておき、名前がつくことで、一気にその気持ちは私の中で意識される。

 他者と接するときも同じだ。私たちは他者を一面的に捉えてしまうことが多い。少し嫌なとこがあったら、その人の全てが嫌になってしまう。そのときその瞬間にされたことだけしか見えなくなってしまい、イライラが募る。


「複雑なものは複雑なままで」


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