コミュニティメソッド・トラストワーク

 そのコミュニティを安全な場として認識するために、信じるためのワークを行う。

 トラストワーク。

 信用って、何で築いていくものなんだっけ!と考えさせられるワークだけど、外から見るよりもやっていることはなかなかに複雑。
 ここでは全員が全員に対してケアしなければいけない。一対全という構図になる場合、全は一の為に最大限のサポートをしなければいけないというのがルールとして敷かれているので、気を抜くことが常に許されない、多くのエネルギーを消耗するワークだ。
 重要なのは全の方だと思いがちだが、このワークには最も難しい部分が他に隠れている。それが、一の側が最初の一歩を踏み出す勇気を出さなければ始まらないという部分だ。
 人間は集団生物であり、意地悪に言えば集団に隠れているときこそ本領を発揮しやすいと言える。それが、全体に対して一個人の力で事を起こすというのだからその困難たるや察するに易いことだろう。
 信じるためのワークなのに、全体を信じると言うその大きな一歩を個人の勇気に委ねられている!
 これが、トラストワークに対して僕が思う難しいところ、というより最も考えなければいけない部分だと思う。
 もちろん、信じ易くなる環境を整え切った上で彼、彼女が全体を信じないのならば、それは積み上げてきた全体の努力に対する裏切りとも取れる。そこを拾い上げてやるのか切り上げるのかは、管理者の裁量によるところだけれども。
 信じ易い環境を作るというのは、果たしてどういったアプローチが適切なのだろうか?ということについてよく考えてみたい。
 このワークでは、目を瞑って歩いている1人を円で囲って、ぶつかる前に手で受け止めてやるという随分物理的なアプローチを行う。
 ここでも、最初に言及したことと同様の問題が発生する。「目を瞑って歩き出す、その一歩目の勇気」である。これは完全に個人の戦いであり、しかも手で受け止められるまでの長い長い数歩の間、歩いている本人は静寂の中恐怖を感じ続ける!
 これが良いアプローチなのか、これで信用が積み上がるのか?僕は些か乱暴な気がしてしまった。
 本当に必要なのは、一歩を踏み出す勇気を高めるためのアプローチなのだ。
 これは今、無の状態から個人の力で一歩を踏み出させて、結果として大丈夫だったという成功体験を積み上げて勇気を作ろうとしている。「まず一歩踏み出させる」という所に疑問を感じる。これは、一歩を踏み出す怖さもしっかり自覚させているからだ。そして手で受け止められようが、その1人を襲い続けた長い間の恐怖の方が束の間の安心を上回る構図になっているとも思える。
 一歩を踏み出す恐怖を取り除く、のが一番大切なポイントだ。これは一度のワークでは達成できそうにない。メソッドとして考えられた通りには人間の心はうまく作用せず、ましてや個人の力に大きく左右されるならなおさら物理的なアプローチでは無機質が過ぎる。
 せめて物理的なアプローチではなく、言葉を使った肯定感を上げる方向から、且つ簡単で対等なラリーから始めるべきではないだろうかと僕は考える。具体的に考えてみよう。
 まず、一体一を用意しよう。それ何個も用意して、集団の中に隠れた一対一という構図を作る。
この中で、なるべく抽象的か大きく意味を持たない一つのテーマについて喋ってもらう。聴く側は絶対にそれを肯定するというルールだ。これはラリーで行う。1人が喋ったことについて相手は肯定し、次はその喋った内容に乗っかって自由に喋る。これを2周行う。というものだ。それが成功したら、次は一体三にして、一周するまでローテーションで乗っかった話をしていき、三人側はつねにポジティブなリアクションをとる。出来れば、最後は全体に対して気負いのしないテーマについて話し、全員でそれにポジティブなリアクションを返していくのだ。
 他にも簡単なワークはある。向かい合った二重の円を作るのだ。そして1人ずつズレていき、相手を褒め続ける!なるべく間髪入れずに。
 人間は言葉を操る生き物なので言葉に感化され易い。ポジティブな言葉を交わして、発言や踏み出すハードルを下げていくのはトラストワークとして中々有効なのではないか?
 または、パーソナルエリアを侵させることで距離をさっさと縮めるというのは良くあるワークだ。できるなら一人一人ハグさせていきたい。物理的なアプローチならそういうネガティブが先に来るワークよりポジティブで埋め尽くすワークにするのが、緩やかなトラストワークといえるだろう。

 思いつきだけで言っても仕方のないことだが、トラストワークというのならそれだけ歩み寄ったところから始める努力をするべきではないかと一個人として、思う。

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