概ねこんなことを考えたりしている。
生きているうちのどこまでが動物的欲求(本能的)なのか考えることがしばしばある。
誰かのために命を落とすというような利益を超えた利益、非生存益といっておこうか。別に殉死がいいのじゃなく。自分を度外視して他人のために何かすることで、その人の利益を自らの心的利益と捉えられることがだ。それを良しとできる所が俺の愛する人間の美しいところなのだ。それは人間が理性を得たときについてきた進化の産物なのか、或いはミツバチが種を守るために内蔵と繋がった針で戦死するような、群生が故の原始的な行動なのかはわからない。是非探求したい話題だけどとにかく。俺はそんな人間の一部を愛している。
だけれど今俺が生きている社会では、なんとなく即物的で実利重視のスタイルが流行っているように感じる。具体例はめんどくせーから書かないけどね。サムい時代だとはおもわんかね。勿論価値基準としては大正解だろうけどそれらにはもっと付随しているものがあったのでは?逆にすべてを無視して感情で決めてしまうような極端な人もいるのだから、そこにはやっぱり幅があるわけだ。体のために必要な要素はこのサプリで足りますと朝食を済ませる人がいたら、味とか空腹感とかどうなってんの、って思うような感じだ。行きすぎた例かもしれないけどこれは実在する。つまりそういう感覚に、陥ることが俺の世代の社会には多い。俺にはね。
動物界で先祖たちは生存権を確固たるものにし、自由。俺が言いたいことに近づけると余裕。さらに意訳すれば遊びを手に入れた。娯楽は勿論、どうやって生きるか決められるようになった。遊ぶ人「ホモ・ルーデンス」ここに現れり。とくにこの日本ではなかなかの人が社会のなかで生きる余裕を得て幾度となく選択肢を通過し、みな分岐した生き方をしているだろう。
勿論そこには階級等の社会的差異があり、生存権を得るために奔走している人も少なからずいるだろう。その点において現代は野生と違った困難がある。確かにそこに遊びはないはずだ。
ではなぜ、そうでない遊びがあるはずの人達が実利的な必要があるのか?いや。俺が今言っている基準ならその必要はなく、この問答は成り立たない。なぜなら生存権がゴールになっているから。しかし現代においては、それならば生まれた瞬間にゴールしている人がごまんといるのだ。故に生き方に悩んだりするわけだが、これはなぜなのか。
俺はこの遊びのない実利重視な状態を感じさせている原因は「当たり前」と「常識」の概念の積み上がりなのではと思う。生きていて当たり前。食べて当たり前二重飛びできて当たり前、大学より専門が格下なのは常識、荷物は時間通り届いて当たり前。まあなんでもあるけど。クリアしていて当然と思わせる項目が増えて行くことで、何をするかよりもそれに追われるようになって言った。それは「あの国の生まれだから」と体験もしていない過去に捕われて殺し合う感覚と暗闇で通じている。とある日の俺は言っていた。
どこまでが生きるためで何が本当に大切なのか。自分が活きる上で、「ねばならない」から抜けだし「そうでなくても良い」と思える遊びが世界に拡がることで真に自分が求めるものが見えてくるかもしれない。そうすれば非生存益を良しとする人がふえてくれるかも、最近はやるべきことにも気づけずそんな生産性のない目論みをしている。なんだかなぁ。