60年分とそれから#4
「カートvsコウタロー」
何をいうか身構えていると、カートは何も言わずに顔を戻しテーブルに向かったまま動かなくなった。微動だにしない。感情を読み取らせまいとしているのか、あえて無表情を貫くその状態は白さや美しさも相まって石膏で作られた彫像を想像させる。先ほどまで力強く何かを捉えていた瞳はまるで光を失い何かに耐えているようだ。あるいは時が経つのをただ待っているようにも窺えた。俺は思わず感動してしまった。まるで子供とは思えない佇まいだ。姿形は年相応に幼いのに、彼が醸し出す颯然とした空気感との差異は普通ではない。それを受け俺は彼を先ず賢いと思った。たしかに先ほどの眼は俺のことを認識していた。自分の身に起きていることをちゃんと理解した上で、今彼は座って構えるという「選択」をしている。もしかしたら、ユキエちゃんは幾度となく俺のことをカートに話していたのかもしれない。彼が傷つかないように、そして頼りない俺がカートと少しでも打ち解け易くなるように。だから彼はいまこうして俺の存在に驚くことなく、ただ座っている。そうであるなら俺は自分の名誉を挽回する意を込めても彼と戦わなければいけない。舐められないようにとか、大人だからではない。土俵に立って待ち構える小さな彼の人間の部分に対して、おれは人間として真摯に向き合わなければいけないんだ。
俺のことを認識してか、気づけばカートの居るテーブルには誰も居なくなっていた。何も言わないが態度が答えだろう。その錯綜とした思考たちが空気に変わって上から肋骨の内側から圧迫してくる。気持ち悪い。皆俺のことを把握した上で接しないのだ。振り回されてはいけない、俺はただカートと向き合おう。ここには俺とカートの二人しかいないんだ。
静かな気持ちで、ゆっくり。俺はカートの向かいに座って慎重に膝から先をテーブルに置いた。
静寂。沈黙。無音。サイレンス。
おれは掌を握ったり開いたり組んだりして最初の一言を探ったが、まるでなにも出てこなかった。いっそのこと確信に迫ろうかとも思ったが、そんなこと喋り出せるわけがない。みるみるうちに居心地が悪くなってしまい、テーブルの下にしまいたくなった手もタイミングが図れずただこまねき続けている。
ガシャン!
突然後ろの方で音が炸裂し、一様な悲鳴の複合体が飛んできた。唐突に発生する音がとにかく苦手な俺は ハグッ とまるで新種の爬虫類みたいな声を鳴らして驚いてしまった。これユキエちゃんが最も好きな俺の癖の一つだったな。恥ずかしい。ちなみに音の正体はガラスを割った音だった。もっと厳かに割ってくれ。顛末を察して安心した俺は、振り向いた顔を戻す。もう一度沈黙。
そうだ。一年前のリベンジをするところからやればいい。名前を覚えてなければ自虐的に話を進めればいい、このつかみで行こう。
もうどれだけ経ったかわからない沈黙の末、なんとか話の糸口を見つけた俺がさっそく針穴に通すべく彼を見ようと俯いていた顔を上げる。すると彼は想定と反して先ほどとはまた違った表情をしていた。
そこには静かにとん、と怒りが現れていた。違ったと言っても大きく変わっているわけではない。だがこちらを見る目も真一文字に結んだ口も、はっきりと印象は違っていた。ユキエちゃんの面影と彼女とは違う鼻と口が、俺のみぞおちの奥を握りしめてくる。俺はこのとき安易にその表情の内訳を想像してしまいながら喋り出した。
「カート君」
彼の瞳は動かない。
「久しぶりに会うね。僕の名前わかるかな?」
「いらない」
想定外の答えだった。予想たちをひっくり返してみてもそんな答えは見当たらないだろう
「あれ、僕は欲しいな〜、名前。コウタローって呼んで欲しいな。どうしたらいいかな?」
かろうじて砕けた喋り方をしてみせるが、完全に先制点を取られてしまった俺は完全に謙りに行っていた。カートの顔は、瞬く間に怒りで溢れていった。
「知らない、いらない、欲しくない!」
途端に激昂するカートにとにかく俺は焦っていた、先ほどまであれだけ静かだったのに、その内にはこんなにも熱量の多い感情を秘めていたわけか、完全に読み違えていた。つくづく自分の安直さに失望した。まるで言葉を失ってしまった、この状況をどうおさめていいのか俺は知らない。つい後頭部で感じ取ってしまう周りの大人達が、こちらをみているのがわかる。俺が不用意に子供を怒らせているように見えているだろうな、間違いなく俺のせいだと皆思っている。情けない男がデリカシーのないことを子供に大人気なくかけてしまい傷つけたのかと。違う、俺はただ話しかけただけだ。危機回避の手立てなく喘ぐ俺に、カートは追撃するように言い放った。
「父さんなんていらない!ママがいるからいらない!いらない欲しくない!」
やっぱり。やっぱりカートは賢かった。そういう意味では、俺が初めて出会った一年前からずっと避けずに考えていたのかもしれない。俺が介入する隙なんてなくて、ちゃんと分かっていたんだ。俺がユキエちゃんを奪った敵なんだということを。そして取り返すことなどできないということを。理解してないのは、俺の方なのだ。