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信仰を育む科学 - 第3回

「来て彼を癒してほしい」という百人隊長の願いに対し、「ただお言葉をください。それでしもべは癒されます」と言ったとき、イエスは周りにいた者たちに向かい、「まことに、イスラエルの中でもこれほどの信仰を見たことがありません」と語られた。

ここには、ローマ人であり、イスラエルからは異邦人として蔑まれ、神から嫌われていると見なされていた人物がいた。彼は生涯、異邦の影響の中で生き、聖書の恩恵にもあずかっていなかった。それでも彼は、主が語るとき、その言葉自体に力があり、その言葉が言ったことを成し遂げると理解し、ただその言葉に頼っていた。

一方、イスラエルの民は、主の言葉に日々触れていながら、その言葉が言ったことを成し遂げる力を持っていることを学んでいなかった。彼らは自らを「聖書の民」と誇り、神の言葉に対する知識を自慢していたにもかかわらずである。

イスラエルのこの欠落は、彼らが誇りとしていたその言葉が、繰り返し、神の言葉がどのようなものであるかを明確に示していたにもかかわらず起こっていた。そしてその言葉は毎週の安息日にシナゴーグで読まれていた。

その言葉は、生涯を通して彼らに次のように語っていた。「雨が天から降り、雪が天に戻らずに大地を潤し、種を蒔く者に種を与え、パンを食べる者にパンを与えるように、私の口から出る言葉もそれと同じである。それは私のもとに空しく戻ることはなく、私が望むことを成し遂げ、私が送ったことにおいて成功する。」(イザヤ55:10, 11)

自然そのものが、地面はそれ自体では何も生み出すことができず、天からの雨や雪の水分によってのみ作物を生み出すことを、彼らに絶えず教えていた。

主はこう言われた。「私の言葉もそうである。地がそれ自体では何もできないように、あなたがたも自分では何もできない。そして天からの雨や雪が地を潤し、芽を出し、実を結ばせるように、私の言葉があなたを義の実を結ばせ、神の栄光を現す。」 「私の言葉、...それが私が望むことを成し遂げる。」

イスラエルは何度もこの聖書箇所を読んできた。そして、年々、神の言葉を読み、「私はその言葉が言うことを行います。私は主が望むことを成し遂げます」と言ってきた。

さらに、その言葉をより確実に守るために、その言葉を細かく分け、さまざまな区分に細かく分解し、細部に至るまで正確に実行しようと努めた。

しかし、すべての行いの中で、彼らは何の平和も、ましてや喜びも見つけることはなかった。彼らはいつも、自分がその言葉が言っていることを成し遂げることができていないことを知っていた。それもあまりにも遠くかけ離れており、イスラエルの絶望的な叫びは、「もし一人の人が一日だけでも律法全体を守り、一点をも犯さなければ、いや、安息日の適切な守りに関する律法の一点だけでも守ることができれば、イスラエルの苦しみは終わり、ついにメシアが来るだろう」というものであった。それでも彼らは、自分たちの無駄な行いの中で働き続けた。それはすべて自分の行いによるもので、信仰によるものではなく、神によるものではなかった。それは、神の言葉自体によって成し遂げられる唯一の真の行いではなく、自分自身による行いであった。

このイスラエルの乾き切った砂漠のような状況の中で、どんな人物であれ、神の言葉の力を発見し、神の言葉が語られたとき、その言葉自体が言ったことを成し遂げることを知り、「お言葉だけ」に頼る人物に出会うことは、イエスの心にどれほどの清涼感を与えたことであろうか。これこそが信仰であり、これによって神の力がその人生に入り、神の喜ばれることが成し遂げられたのである。

「私の言葉、...それ(あなたではない)が私が望むことを成し遂げる。」 「神の言葉は、信じるあなたの中で効果的に働く。」(1テサロニケ2:13) 神の言葉があなたの内で働き、神の目にかなうことを成し遂げることを期待すること、これが信仰である。この言葉への依存を育むことこそが、信仰を育むことである。そして、「聖書が私たちに信仰を育む必要性を強く促している意味を理解することは、他のどんな知識よりも重要である。」

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