第7号
信仰とは、神の言葉だけに依存し、その言葉だけがその言葉が言うことを成し遂げると期待することです。
したがって、信仰による義認とは、神の言葉だけに依存し、その言葉だけがそれを成し遂げると期待することによる義認です。
信仰による義認は、信仰による義であり、義認とは義と宣言されることです。
信仰は神の言葉によって来ます。したがって、信仰による義認とは、神の言葉によって来る義認です。信仰による義とは、神の言葉によって来る義です。
神の言葉は自己実現的です。すべてのものを創造する際に、「彼は言葉を発し、それは存在した」となりました。また、地上にいたときには、彼は激しい海を鎮め、癩病を癒し、病気を治し、死人を蘇らせ、罪を赦しました。すべてはその言葉によってです:そこでも「彼は言葉を発し、それは存在しました」。
今、創造の際に「言葉を発し、それは存在した」と言ったのと同じ方、すなわち「光あれ、光があった」と言った方、地上で「言葉だけ」を語り、病人が癒され、癩病が清められ、死人が生き返った方—この同じ方が、信じるすべての人に神の義を語ります。
すべての人が罪を犯し、神の義に及ばないにもかかわらず、私たちは「神の恵みにより、キリスト・イエスにおける贖いを通して無料で義認されました。神は彼を設け、過去の罪の赦しのために義を宣言するために設定しました。」(ローマ人への手紙 3:24-25)
創造の初めにすべてのものを創造する際に、神はクリストを設け、すべてのものが存在するようにする言葉を宣言しました。クリストは「言葉だけ」を語り、すべてのものが存在しました。そして、贖いの中で、すなわち再創造において、神はクリストを設け、義の言葉を宣言しました。クリストが「言葉だけ」を語ると、それは成就します。彼の言葉は、創造でも贖いでも同じです。
「世界は神の言葉によって形成され、見ることのできるものは見えるものから作られたのではありません。」かつて世界は存在せず、今の世界を構成する材料も存在しませんでした。神はクリストを設け、世界を生じさせる言葉を宣言し、世界を構成する材料をも設定しました。
「彼は言葉を発し、それは存在した。」彼が語る前には世界は存在しませんでした。彼が語った後、世界が存在しました。このように、イエス・キリストによって語られた神の言葉は、その言葉が語られる前に存在しなかったものを存在させる力があります。その言葉がなければ、決して存在することがなかったものです。
この点で、人の生活においても全く同じです。人の生活には義はありません。人には義がなく、その義が彼の生活に現れることはありません。しかし、神はクリストを設け、人に対して義を宣言するために設けました。クリストが「言葉だけ」を語り、暗黒の虚無の中に義があります。言葉が受け入れられる前には、義もまた義を生じさせるものもありませんでしたが、言葉が受け入れられた後には、完全な義とその源が存在します。信仰によって受け入れられた神の言葉、すなわち、その言葉が言うことを成し遂げると期待され、言うことを実現するように依存される言葉は、人の生活において以前は存在しなかった義を生じさせます。まさに、最初の創造において神の言葉が世界を生じさせたように。彼は語り、それはすべて信じる者にとってそうなります:すなわち、受け入れる者すべてにとってです。言葉自体がそれを生じさせます。
「したがって、信仰によって[神の言葉だけに期待し依存して]義認されて、我々は主イエス・キリストを通して神と平和を持っています。」(ローマ人への手紙 5:1)。それはその通りです、主を祝福します!そしてこの祝福されたことを食べることが信仰を育成することです。