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信仰を育む科学 - 第2章

「聖書が信仰を育む必要性を私たちに強く促している意味を理解することは、他のどんな知識よりも重要である。」

百人隊長は、主が彼のためにあることをしてくださるよう望んでいた。主は「行こう」と言って、それを行おうとした。すると、百人隊長は「お言葉だけで、それは成し遂げられます」と言った。

つまり、百人隊長は「お言葉だけ」がその業を成すと期待していたのである。彼は自分の望みが叶えられるために「お言葉だけ」に頼った。そして、イエスはこれを「信仰」、しかも「大いなる信仰」と言った。

これにより、信仰とは神の言葉がその通りに成し遂げられることを期待し、その言葉に頼ることだということが明白である。

百人隊長は自分自身で主の言ったことを成し遂げようとはしなかった。もしそうしていたら、それは信仰ではなかったであろう。なぜなら、それは言葉に命や力がないと否定し、すべて自分に頼ることになるからである。

しかしあなたは、多くの場面で、自分が神の言葉に書かれていることを行おうとしてきた。しばしば、あなたはその言葉に頼らず、自分自身で成し遂げようとしてきたのである。そして、なぜキリスト教生活でうまくいかなかったのか不思議に思った。しかし、それには不思議に思う余地はない。あなたは信仰を働かせなかったのであり、すべて自分自身で、神ではなかったのである。

さらに、百人隊長は主が自ら言葉を成し遂げることを期待していたわけではなかった。つまり、主が言葉を発し、その後その言葉とは別の方法でそれを成し遂げることを期待していたわけではない。それもまた信仰ではなかったであろう。なぜなら、それは言葉が生きており力あるものであることを無視することになり、神がその言葉だけで何かを成し遂げることができると信じないことになるからである。

しかし、あなたは神の言葉を目の前にして、その言葉が示すことを熱心に求めながらも、その言葉を信じず、主にその言葉とは別の方法で自分のためにそれを行ってくれるよう求めてきたことが何度もあった。神の言葉自体が言っていることを成し遂げることを期待せず、その言葉とは別の方法で主がそれを成し遂げてくれるよう期待していたのである。

そして、それがなされなかったとき、あなたは不思議に思い、困惑した。しかし、不思議に思う余地はなかった。あなたの期待は虚しかったのである。あなたの願いは信仰によるものではなかった。それは神の言葉を無視していたからである。

さらに、あなたには言い訳の余地もなかった。なぜなら、あなたの主が信仰とは何であるかを明確に示していたからである。そして、あなたはそれを何度も読んでいた。百人隊長が主に「お言葉だけで、私のしもべは癒されます」と言ったことをあなたは読んでいた。その時、百人隊長が「お言葉だけ」が彼の願いを成し遂げると期待し、「お言葉だけ」に頼っていたことが明白に示されていたのである。あなたはまた、イエスがこれを「大いなる信仰」と言い、それゆえに「お言葉だけ」を発し、「しもべはその時に癒された」と読んでいた。さらに、主がただ「お言葉だけ」で全てを成し遂げた他の多くの事例も読んでいた。

大いなる信仰を働かせたいなら、神の言葉をそのまま神の言葉として受け入れなさい。そしてその「お言葉だけ」が言った通りに成し遂げられると期待し、その「お言葉だけ」に頼って、あなたのために、またあなたの内で、その言葉が言っていることを成し遂げると期待しなさい。

そうすれば、信仰を持って願うことで、あなたは求めたものを受け、信仰によって義とされ、主イエス・キリストを通して神との平和を得るであろう。

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