10号
「働かずに、不敬虔な者を義とされる方を信じる人は、その信仰が義とみなされる。」(ローマ 4:5)
これは、この世で誰もが義とされる唯一の方法です。まず、自分が不敬虔であることを認め、それから神が不敬虔な者を義とされることを信じることです。そうすれば、その人は神の義で義とされます。
世界中のすべての人は不敬虔です。「不敬虔」とは「神に似ていない」という意味です。聖書には「すべての人は罪を犯し、神の栄光に達することができない」と書かれています。
したがって、自分が何かにおいて神に似ていないことを認める人は、自分が不敬虔であることを告白しているのです。
しかし、実際のところ、誰もがあらゆることにおいて神に似ていないのです。なぜなら、「彼らは皆、道を外れ、共に無益になった。善を行う者はいない。一人もいない」(ローマ 3:9-18)と書かれているからです。
それなら、地上に不敬虔でない者は一人もおらず、神が不敬虔な者を義とされるので、神の側から見れば、義認(義)、救いはすべての魂に対して完全で、自由で、確実なものです。
そして、誰もがその義を確実に自分のものとするために必要なのは、それを受け入れること、つまり神が自分自身を、個人的に、不敬虔な者である自分を義とされることを信じることです。
したがって、多くの人にとって奇妙に聞こえるかもしれませんが、義認の唯一の条件、そして唯一の準備は、自分が不敬虔であることを認めることです。
そのような条件を満たし、そのような準備を整えたら、義認を完全に、自由に、そして確実に得るために求められることは、神が自分を、不敬虔な者である自分を義とされると信じることだけです。
多くの人にとって、自分が不敬虔であると信じることは比較的容易ですし、それを認めることもできます。しかし、神が自分を義とされることを信じるのは、多すぎると感じる人もいます。
そして、彼らが神が自分を義とされることを信じられない唯一の理由は、彼らが非常に不敬虔だからです。
もし彼らが自分の中に少しでも善を見つけることができれば、あるいは自分でなんとかして改善できれば、神が自分を義とされるという希望を持つ勇気が持てるかもしれません。そうすれば、彼らは自分の行いで自分を義とし、その後で信仰による義認を信じると主張するかもしれません。
しかし、それは義認のすべての根拠を取り除いてしまうことになります。なぜなら、人が自分の中に善を見つけることができるなら、すでにそれを持っているので、他のどこからもそれを得る必要はないからです。もし自分で改善できるなら、他のどこからも義認を得る必要はありません。
したがって、「私は不敬虔すぎて、主が私を義とするなんて考えられない」というのは、言葉の矛盾です。なぜなら、もし私が不敬虔でないなら、義とされる必要はありません。私はすでに義です。神性と不敬虔の間に中間地点はありません。
しかし、人が自分を非常に不敬虔であると認識し、そこには義認の希望が見出せないと感じるときこそ、信仰が入り込む場所です。実際、それは信仰が唯一可能な場所です。
信仰とは、神の言葉だけに依存することです。自分自身に依存するものがある限り、自分の中や周囲に依存できる何らかの希望がある限り、信仰は生まれません。信仰は「ただ言葉のみに依存する」からです。
しかし、自分の中や周囲の何かに依存できるあらゆる希望が消え、それが消えたと認めるとき、義認の希望が見えないとき、神の約束に、ただその言葉のみに自らを投じ、希望を捨てずに信仰が現れます。そして、信仰によって、不敬虔であっても完全で自由な義認を得るのです。
なぜなら、永遠にこう書かれているからです。「働かずに、不敬虔な者を義とされる方を信じる人は、その信仰が義とみなされる。」 「イエス・キリストの信仰による神の義です。」 「神は、過去の罪の赦しのためにその義を示すために彼を定められた。」
これが信仰を行使するということです。あなたは信仰を行使していますか? なぜなら、「信仰を行使する方法を理解することこそ、福音の科学だからです。」