見出し画像

間奏曲 ―食事のあと始末―

(福田正彦)

このシリーズを書いているといろいろな方から声をかけられます。
 「食卓が続いたんだから、今度はそのあと始末だよね。」
という声もあったのです。その人は当然のようにおっしゃるのですが、海洋小説でそういった“しも”の話は、まあ出てきません。もっとも、日常生活に欠かせない、そのような問題をどうやって解決していたのだろうと、興味を持つのも分からなくはありません。そこで、今回は小説の中の話というのではなく、事実と推測を少し、このシリーズの間奏曲として書くことにしました。

この話には大前提があります。まずは帆船時代の軍艦に「女は乗せない」のです。第1回で「ワイブズ」のお話をしましたが、これは港にいるときの話で、いざ出港するとなれば「ワイブズを追い出せ!」と、当然ながら厳命が出ます。したがって、ほんの例外的な(貴族の女性を命令によってどこかに送り届けるような)場合を除いて軍艦で女性に気を使う必要はありません。

もう1つの前提は乗組員の人数です。一番小さなスループ艦でも数十人、フリゲート艦なら百人単位、戦列艦なら数百人から千人にもなります。例えば第3等級戦列艦(74門艦程度)で500人の乗組員がいるとします。人が1日に5回小便をするとしましょう。一物を取り出し、終わってから仕舞うまで1回に最低1分かかるとすると2,500分が全員に必要な時間です。これは41時間40分ですからトイレが1個なら使用率は174%になります。

つまりトイレ2個でもほとんど一日中、昼も夜もトイレの前に人が数人並んで待つという状態を意味しています。しかもこの計算は人の尿意が平均化しているという条件で、ある時間には集中するとなると混乱が生じることは目に見えています。つまり小便だけで考えても大型艦で4つや5つのトイレではとても足りそうにありません。

では、軍艦のトイレはどこにあるのか。まず艦長ですが、これは艦尾楼の張り出し部分(右舷側)が艦長用のトイレです。もちろん水洗式というわけにはいかないので、そのまま海に落とすために張り出し部分にあります。これは毎日艦長付きの召使が掃除をします。ついでにいえば、風呂(湯舟ではなく桶に水を入れて体を流すぐらい)も同じです。
次に士官ですが、これは同じ艦尾楼の片側(左舷側)にあったようです。その構造は艦長用と同じでしょう。そういった様子を『輪切り図鑑 大帆船』で見てみましょう。

画像2

画像2

上が艦長用のトイレを召使いが洗っている様子、下が士官用のトイレ使用中の図です。いずれも右舷、左舷に分かれています。船では長い間右舷側が上位と考えられていて、例えば、明治丸の天皇用寝室は右舷側にあります。艦長と士官もこれに沿っているのでしょう。この図鑑はスティーヴン・ビースティが絵を描いて、リチャード・ブラットが文を書いています。トラファルガー海戦に参加した3層甲板艦がモデルで、かなり精密に描かれていて、かなり信用できそうです。

画像8

また准士官や士官候補生は、艦首部に囲いのあるトイレがありました。第1等級戦列艦であるヴィクトリーの、囲いのあるトイレを下にお見せしましょう。見ての通り何段か階段を上がって用を足すようになっています。これはおそらく左右両舷にあったと思われますが、一等級艦で准士官や士官候補生下士官クラスならせいぜい20~30人、多くても50人以下でしょうから、あまり痛痒を感じなかったはずで、十分に体面を保つことができたでしょう。

画像4

画像5

さて、一般水兵のトイレですが、これは艦首部の船体先端とバウスプリットを囲む格子のある部分に設けられています。もちろん囲いはなく露天です。同じヴィクトリーのトイレをご覧に入れると、上が実際にヴィクトリーに行ったときに私が撮った写真で、下は亡くなったザ・ロープの重鎮、白井一信さんが作った精密な1/48の模型です。ちょっと見にくいのですが、巻いたロープの左側に同じトイレが見えます。なにしろこんな文章を書く羽目になろうとは思ってもいなかったので、ちゃんと露天トイレを撮っていないのですが、私の記憶ではこの対になったトイレが3個ばかり、両舷で6個はあったと思います。

辞書を引くとheadには「(船の)トイレ」という項目があります。それはご覧のように水兵用のトイレが艦首部にあったからで、今でも軍艦のトイレは「ヘッズ」と複数で呼ばれているようで、この時代の名残でしょう。しかし、よく見るとこの露天トイレはまん丸のかなり小さな穴が2つあるだけです。大の大人が2人並んで座れる余地はありません。多分背中合わせに座ったのだろうと思われます。『輪切り図鑑』で見ると、下図のように座っていて、やや左奥の部分は絵では壁を外していますが、壁で囲われた准士官などが使うトイレです。位置はやはりヘッドにあってそのまま下に落とせる構造です。

画像6

こうして見るとどうもこれらのトイレは大便用のものだったとしか思えません。そこで思い出したのですが、昔むかし、なにかの本でドイツに留学した日本人が、欧州人は大は大、小は小と分けて出すのだと聞いたというのです。彼はびっくりしてわれわれは大小一緒に出すのだというと、今度は友達の方がびっくりしてほんとかといって、何しろ学生のことですから、みんなが寄ってたかって大小一緒に出す実験を見たというのです。真偽のほどは分かりません。しかし、当時の露天トイレはみんなこの形式で、大小を一緒に出すには不便でこの説が本当のような気もします。

このようなことは、あまり深入りしたくないのですが、上のような事情を推測すると、当時の水兵たちはほとんどの場合、小便は舷側からしたのだろうと思われます。ヘッドの風下舷が常用のトイレだったのでしょう。ヘッドは他の部分からは壁で隔絶されていて、まあ見ることはあまりできないので、遠慮せずに用を足せたでしょう。また、この風下舷というのが重要で、もし風上舷ですれば本人はもちろん周囲にもホースの水をまき散らすことになるからです。船酔いの場合も同様で、「この野郎、風下舷で吐け!」とおか者がよく怒鳴られたといいます。

航海中の軍艦は常に艦首に波がかかります。ちょっと荒れれば少々の汚れは海が洗ってくれるでしょう。数百人の水兵がヘッドに集中しても何とかやっていけたのはこれが幸いしたのではないかと思います。しかし、波の穏やかな時や、碇泊中は別で、汚い艦首をそのままにしておくわけにはいきません。

特に停泊中は連絡や高級士官の出入りがあって、艦首や艦尾の下を通るボートなどが多いのです。並みいる軍艦の中で、その威厳を保つためにも常に船体を綺麗にしておくのが当然で、おそらくそのために動員されたのが少年水兵だったでしょう。何も記録はないのですが、碇泊中といえども生理的な要求が絶えることはないのですから、汚れ仕事はいつもこの少年水兵に任され、少しでも怠ればたちまち怒られたのは目に見えています。軍艦の威厳はいつも目に見えない者で支えられていたのです。

余計なことながら、現代の大型客船は客室の大部分が喫水線上にあるのと、逆浸透圧法による海水の淡水化が発達して十分な量の水が使えるうえ、海水と直結していないので、シャワーはもとより、水洗トイレが配管によって地上と同様に維持されています。しかし少し昔の小型船で客室が喫水線に近いかそれ以下の場合、トイレは圧力をかけて排出しなければなりません。

画像7

1つの例ですが、31年も前の1990年6月3日、横浜帆船模型同好会とザ・ロープの古い会員であった故鈴木雄介さんが、還暦祝いと称して多くの仲間をシーボニアにあった、帆船シナーラに招待してくれたことがあります。その様子を宮島俊夫さんが絵にしているのですが、上のようにこの船のトイレは「…使用後蓋を閉めてレバーを7,8回上下し、少しおいて再び7,8回上下する。」と説明書にあります。宮島さんは絵の中で「後始末も楽じゃない」と嘆いているのです。


 (2021年5月15日)
 


いいなと思ったら応援しよう!