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リギンを吹き抜ける風



はじめに


「この手の船は、本当言うと2週間欲しいんだよね」

乗船して最初の夕食を取った豪華なダイニングで東さんがぽつんとそう言う。まあ、これまでの客船クルーズの経験では1週間あれば結構堪能できるのでは、とそのときぼくは思っていたのだ。

肥田さんがいろいろ手をかけて製作したジオラマ造りの「スター・フライヤー」がきっかけで、我ら10人と代理店代表の王子さんが3,092トンの4檣バーケンチン、スター・クリッパーに乗り込んだのは昨年11月22日ももう午後5時を回ったころ。キャビンをひと片付けして甲板に出ると、プーケット島のパトン湾に停泊している本船から夕陽が背後の山に沈んでいくところがきれいに見えた。

田中(武)、宮島、肥田、堀岡、霞という酒には目のない面々は、東さんを交えて早速上甲板にあるトロピカルバーに取り付いている。このバーはそれから1週 間大いに潤ったのは間違いない。塩谷さんはいつもどおりビデオで狙っているし、塩谷夫人とうちのかみさんはなにやら可笑しそうに笑いあっている。

デッキのトロピカルバーで一杯

午後9時半、暗闇の中でシートを引く有志を募っている、らしい。何しろ英語だ。その放送に答えてどこからか大勢の乗客の男共がロープに取り付く、いや女性もいたか。初めのことで「何だかねぇ」と言っているうちにフォアマストの横帆が張られ、よいしょと引っ張るにつれてメインステイスルも上がってゆく。とそのとき 突然音楽が流れた。映画「1492・コンクェスト・オブ・パラダイス」のギリシャの音楽家ヴァンゲリスの曲だ。その男声合唱はちょっと物悲しくそれでいて 勇壮でもある。出航のつどこの曲が流れスター・クリッパーと分かち難い記憶となった。

船キチという病に侵された面々は、よく見えもしないのに帆装がどう、リギンがどうと早速調べ始めたが、やがて夜が明けてよく見るとこの船はすべてが自動化デッキのトロピカルバーで一杯されている。横帆はヤード内に巻き込ま れ、ボタン1つで展帆できる。縦帆は使うロープを動力ローラーに巻きつけて人力の代わりにするから、ステイスルを挙げるのも、フィッシャーマン(ステイス ルの上に逆三角形に張る帆をいう)展帆も1人で足りる。それでなければ170名の乗客定員に70名のクルーではやっていけない。

後部船室にいた宮島さんはエンジン音のためか同室の鼾のためかしらないが、最初はティッシュを噛んで耳に詰めたという。ひとたび風をはらむとエンジンは止 まり、かすかにヒールしながらぱしゃぱしゃという波の音とリギンを吹きぬける風の音だけの静寂が訪れる。最下層にあるぼくらの船室は丸い舷窓が海面すれすれで、時としてその窓に海水が遊びにくる。やはり帆船にエンジンは似合わない。

島への上陸


ゾディアック、テンダーで上陸し、浜辺でシュノーケルをつけて水泳

プーケット島を出た本船はマライ半島を南下しているがこの半島の西岸は無数の島が点在していて、そ の大部分が国立公園になっているらしい。その島々に上陸するのがこのツアーの特典の1つだし楽しみでもある。本船には船長をはじめ何人かの士官がいて、 もっとも顔を合わせる機会の多かったのがクルーズダイレクターのピーターと、名前は知らないが恐らく3等パーサーだろうか、スポーツ係士官の若い男女2人 だ。

長身金髪のピーターは英語とドイツ語を駆使して上陸の説明をしている。桟橋につけるわけではないので、テンダーから海岸に降りるときにはこれぐらい水 につかるから注意しろと、腰から胸の辺りを指した。ぼくの失敗は彼の腰がぼくの胸に当たることに思い至らなかった点にある。

スポーツ係り士官の2人は本船 が停泊するや否やゴムボートのゾディアックを使って陸に事務局のテントを設営し、マットやらタオルやらを運び込む。更に小さなヨットとシーカヤックそれぞ れ2隻を用意し、乗客を乗せた救命艇のテンダーが浜に近づくや上陸のサポートもする。その手助けがあっても最初にテンダーから海岸によいしょと降りるのは ちょっぴり勇気がいる。

バカみたいな話だが、濡れてもどうということもないシュノーケルやタオルを頭上に掲げ、カメラを胸にぶら下げたままドボンと降りた からたちまちカメラは海水にぬれて使い物にならなくなった。

それでも、このあたりの海岸の砂浜は日本と違って粉のような感覚で色も黄色に近い。何十年ぶりかのシュノーケリングできれいな海を泳ぐと大小さまざまな魚が南海の色彩で見える。日本人はわが10人ばかりで、あるかないかの水着を付けただけの外国の女性が太陽に照らされて寝そべっているなんぞはなんでもない光景だ。人生の経験者が多いから、騒ぐほどの対象がないこともある。

28日のシミラン島のときだったか、カメラを抱えてウロウロしていた塩谷さんが木陰から飛び出してきてイグアナがいるぞという。なるほど野生の70㎝もあろうかというイグアナがのそのそと歩き回ってチロリと舌を出す。国立公園としての管理をしているからなんだろう。木陰の看板にも「何も持ち込むな、きみの足跡以外は何もおいてゆくな」と書いてあった。

高速艇でのツアー


時速90kmの高速艇で007島へ上陸

プーケット島の東側にヤオヤイ島というかなり大きな島があってその南端の沖にカイノック島という小さな島がある。マレーシアのペナン島から戻った本船がそこに停泊し、高速艇に乗換えてマングローブの林を見に行くオプションが組まれている。

10数人も乗れる高速艇5隻に分乗して早速出発。ヤマハの強力エンジンを2基備えていて、案内役で少し日本語を話すスップに聞いたら50ノットだという。50ノットなら時速90kmだぜとみんな驚くが、ゾディアックはヤマハのエンジン1基で1人乗りなら40ノット出るとスポーツ係の士官が言っていたから間違いないのだろう。10時35分に出発してパンガ湾を猛烈な勢いで北上、波に船底が当たってドンドンとすごい音がする。

11時18分には本土に近いジェームズ・ボンド島に到着した。この島島時速90kmの高速艇で007島へ上陸は本来、ラヤリン島と言うらしいが007 ジェームズ・ボンド映画第一作の「Dr.NO(日本公開タイトル007は殺しの番号)」の撮影が行われたのでこの名がついたという。

島の海岸でボンドガー ル第1号のウルスラ・アンドレスが濡れ髪にビキニ姿で水中めがねとホラ貝を持って海をバックに砂浜から現れる名シーンが撮影された。彼女のバランスのよい 姿態は大受けになり、後の007映画の全てにボンドガールが出演するはしりになった。

今はお土産屋が林立してすっかり観光地だが、流石に景色はすばらし い。このあたりは島の浸食が激しくて、頭でっかちの小さな島が湾の中に立っていたり、何十メートルもある岩の裂け目があったりで、007映画プロデュー サーのザルツマンとブロッコリはうまいロケーション地を見つけたものだ。

そこを出ると今度は速度を落とし、海岸に広がる一面緑のマングローブの林の中に分 け入る。数十メートルの幅しかない迷路のような水域を行くと高床式の民家があって実際に生活しているのが伺える。水路を先に行く高速艇の航跡が広がって両 岸に消えるのが見ていて楽しい。昼食はそこを抜けたパンニ島というイスラム教徒の住む村にあるレストランだった。

狭い街中はご多聞に漏れず土産屋が並んで いたが、その中にすごい美人の売り子さんがいたぜと堀岡さんが言うが誰も気がつかなかった。後から言うのが憎い。帰途は各艇が速度を競うように飛ばした。 停まると波でものすごく揺られるが、不思議なものでさんざんに乗ったせいか誰一人として酔った人はいない。大柄なヨーロッパ人の新婚カップルさんは何も目 に入らず酔うどころではなかったのだろうが、高速艇のツアーは新婚でなくても予想以上に楽しめた。


本船の撮影会


海上からの本船撮影会

海上からの本船撮影はこのクルーズの目玉の一つだ。艇はテンダーとゾディアックのどちらに乗ってもいいという。念のため持ってきたフィルムカメラで数少ない撮影をするにはゾディアックが最適だが、歳を考えてと言うかみさんの忠告に従ってテンダーを利用した。

なにしろゾディアックは丸い舷側に腰掛けてその縁にある綱につかまるしか体を固定する方法がないのだ。それでもテンダーから高速で自在に走り回るゾディアックを見たらちょっと残念だった。テンダーは周囲の美しい島々を回って侵食やら洞窟やら、島の洲からはるかに本船を望む景色やらを丁寧に見せてくれる。おまけに高い崖の途中にある洞窟の住まいまで見せてくれた。海ツバメの巣を取る人たちの仮の住まいだという。どうやってそこまで上がるんだろうと思わせるほどの高さだ。

やがて艇が停まると彼方から全装展帆した本船が静々と近づいてくる。海面から見るとバーケンチンは見事なほどきれいだ。クルーがバウスプリットに立って手を振っている。その中に帽子をかぶって両手を大きく広げているのは船長ではないか。小さな島々を背景に進む本船の姿はまさしく女性、なまなかな人間の女性にはない優美さと威厳を備えている。 この撮影会はクルーズの目玉というにふさわしい。

クルーとの交換パーティー


クルーとの交歓パーティー

船長の話だと本船の乗客は16カ国にも及ぶのだという。大体140名ぐらいだろうが一番多いのがドイツ人だ。船長もピーターも英語とドイツ語で説明する。 どっちにしてもぼくにはほとんど分からないからいいのだが、士官はドイツ人が多いようだ。この船の習慣で正規士官はダイニングで乗客と一緒に食事をするこ とができる。いくらか乗客と接触する機会はあるのだが、それを深めるためか27日には船長主催のディナーのあと、クルーと乗客との交歓パーティが開催され た。

実はその前に、ピアノバーで演奏する奏者から日本人の女性に歌ってもらえないだろうかと打診があった。彼が知っているのは「故郷」と「上を向いて歩こう」の2曲だけだという。面白い、やろうじゃないのということになって男どもも一緒に歌う手はずが整った。

キーを予め合わせるからねと言われていたが、ピーターの司会で日本人の合唱、と言ったかどうか、とにかくゾロゾロとみんな前に出て大合唱が始まったらキーどころの話ではない。女性2人がマイクを持っていたが、そのうちに塩谷夫人が踊り始めた。塩谷夫人は以前オランダで帆船パレードを見たときにも運河の船の演奏に合わせて堤の上で踊りだした実績があり、音楽を聴くと身体が動くという特性を持っている。

それを見て周りの人たちは大拍手。おまけにジャマイカ出身のクルーが故郷の衣装で踊りだしたときにも、どうやら予め頼まれていたらしいが、塩谷さんが飛び出して一緒にダンスクルーとの交歓パーティーを始めた。

何せ雲をつくような大男と日本人としても大きくはない塩谷夫人がたくみに踊るのだから、周囲は拍手喝采、大笑いにはなるしピーピーと口笛は鳴るし、大いに盛り上がった。翌日、わがメンバーは面目を施して見知らぬ乗客から君たちはいいシンガーを持っているね、なんて言われる。こんなに盛り上がった日本人のグループはいないと評価もされた。ちょっとよそよそしかったピーターがそれ以来親しげになったというのが女性たちの感想だ。

クルーや乗客との交換


フォアマストのトップまで登る


肥田さんとスター・クリッパーズとの関係もあって、東さんは船長にザ・ロープの帆船模型の写真集を贈呈することを計画していた。25日の夕食のとき に船長を囲んでそれを説明した上で翌日にみんなの署名を添えて贈呈することにしたのだ。東さんの説明によると船長は元ドイツの海軍士官でレーダー操作など の訓練で英語を習ったという。翌日の贈呈の後ブリッジで一同と写真を撮ったり中々の気配りも見せる。

最初の上陸の後、何かに当たったのかぼくは下痢と吐き 気に悩まされた。医者はいなかったが、エイミーというフィリピン人の女性が故郷で看護師の資格を持っているからと、皮下注射と投薬をしてくれた。それから 彼女とすっかり親しくなって2、3日は会うと「スタートスローリー!」ゆっくり始めるのよ、と食事の指導をしてくれた。ぽっちゃりして目のクリクリしたエ イミーは、食事では給仕はするしほかの作業もこなすしで大活躍だった。

25日の午前、フォアマストのトップに登ることができるという。それっと駆けつけたが側にいた外国人の若い男の子に一緒に登ろうぜ、といったがなんだかぐずぐずしている。傍らのお母さんにだろうか、登んなさいとせかされて一緒についてきた。トップに上がってから歳を聞くと15歳でオーストラリアから来たのだという。

彼は両親と弟の4人できているが、その父親が張り切りボーイという感じで母親もしっかり者の美人だ。交歓パーティーでも手を握って喜んでくれた。下船する際にニコラスという彼のメールアドレスを聞いて帰国後にメールを入れたら、写真つきで返事が来た。休暇中に会った最も良いグループだと中々お世辞も上手い。

今回のクルーズで、最初に乗客であるわれわれは自らの責任において行動するという誓約書に署名した。自フォアマストのトップまで登る分の責任で行動する限り何でもやらせてくれた。マスト登りしかり、シュノーケリングしかり、シーカヤックであろうとヨットであろうとしかり、80歳間近でもゾ ディアックに乗ってはいけないとは言わない。その代わりサンダルでマストには登れないし、シーカヤックに乗るには救命胴衣を付けなければならない。そのあたりの呼吸がなんとも大人扱いで嬉しいし気持ちが良い。

船には世間と違う時間が流れる。われわれはまず帆船クルーズの生活に慣れる必要があった。しかも、もう少し他の乗客やクルーと接触するにはその時間の流れの中で余裕を持たなければならない。1週間はその慣れのための時間だったような気がする。もう1週間で、その気になれば悠々とピアノバーの後ろで本を読 み、後甲板のデッキチェアで居眠りもできただろう。

ほんとは2週間要るんだよねという東さんの言葉は、経験してみてはじめて分かる。今だからこそ分かると思う。帆船クルーズは良い。欠点は普通の客船クルーズが物足らなくなることだ。28日に下船して30日には成田着の予定が、バンコク空港占拠というアクシ デントに見舞われ、4日間も足止めになった。見ようによっては願っても叶わない経験をしたが、それはそれでまた別の話である。

(文:福田正彦、イラスト:宮島俊夫)


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