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しまなみ・とびしま海道記―ザ・ロープ40周年国内旅行記―

2015年(平成27年)のザ・ロープ創立40周年記念行事の一つとして6月に行ったイギリス南部の旅行に続いて企画された国内旅行。瀬戸内海は古代より 大和に通ずる海上交通の要衝であるが、中でも芸予諸島はその中間に位置しており、寄港地としてまた船の修理地としても各時代を通して大いに栄えたところである。6組のご夫婦を含む22名が参加、11月10日から13日までの3泊4日の旅行となった。

 



はじめに


木造 帆船模型同好会というのが「ザ・ロープ」の本業?で2015年の今年創立40周年になるのだが、それが40年も続いているというのはそれなりの理由があ る。少数派とはいえ船キチがこの世に絶えないことと、そのほとんどが老人の集まりであろうとも意気軒高としているからである。好奇心の衰えることはなく、 いささかその範囲は狭いとはいえ何にでも鼻を突っ込みたがる。だから40周年記念の海外旅行でのイギリス行きには、その目的があまりにも専門的に過ぎて会員の夫人連から総スカンを食った。

その反省があったかどうかは知らないが、同じ記念の国内旅行には「しまなみ・とびしま海道」という、折しも和田竜さんの「村上海賊の娘」が有名になったこともあって、夫人連にいささかのアピールをもたらす効果もあり、また総スカンの同情もあったのかもしれないが、6組の夫妻が参加するという異例の快挙となった。安藤、田中、塩谷、川島、松原そしてぼくのところの夫妻6組である。

瀬戸内海という場所は沿道の列車から見ることは多いし、また客船クルーズで海から見ることも何回かあった。しかしその島々を実際に訪れる機会はまずない。実際に島の中に入り込んでいろいろ説明を聞くと、水軍という表立った面と一緒にこの海域の水運がいかに発達していたかまた朝鮮通信使の通路と饗応がいかに頻繁に行われたかを知ることになった。恥ずかしながらぼくにとってこれは新しい認識といっていい。

ザ・ロープは公式に国内旅行の報告書を何人かに依頼して公表する予定だ。従ってこの小文はぼく個人の「旅の思い出」として書いておく。せっかく珍しい体験をしたのだ、残しておくのも無駄ではなかろう。 一緒に旅したかみさんがそう後押しをしてくれたせいもあるのだが。

福田正彦 

1.福山城

現地集合、現地解散という旅は珍しいのだが、今回はそれを利用して早立ちで福山城を見ることにした。新横浜駅まで歩いて5分というわが家の地の利を生かして朝6時の始発という新幹線ひかり493号に乗り込む。ひかり号でありながら広島行きでおまけに福山に停まるという、願ってもない列車だ。

旅は楽しい。列車に乗って遠くへ行くということが心を躍らせる。かみさん手作りのサンドイッチを食べながら、何回も見ている景色でありながら飽きることはない。2冊も用意した文庫本をほとんど読むことなく9時34分には福山駅に着いた。その目の前に福山城がある

福山城
山城と平城の中間というだけあって坂を登らなければならない

解説によるとこの城は元和8年(1622年)に完成したという。「元和?」ぼくにはこの言葉が懐かしい。中学時代、さんざん叩き込まれた校歌には「…文華 の光見え初めし、元和偃武(げんなえんぶ)の古を…」と謳われている。長い戦乱の世を終えて徳川幕府が平和を築いたその年代だから、比較的新しい城ではある。

それでも平山城という、山城と平城の中間というだけあって、少しばかり坂と石段を登らなければならない。さほどの苦労もなく上がった 広場は折しも菊の花の展覧会の最中で華やかな彩を添えていたが、その彼方に天守閣がそびえている。空襲で焼失した後に復元された天守だそうで、往時の重み はないけれどもなかなかのものではある。

往時は三重に濠を巡らしたかなり大きな城郭だったらしいが、お濠は埋め立てられてそこに駅ができている。つい駅のすぐそばにお城があると思うのだが、もちろん駅や街の方が後なのだ。それでも福山というこじんまりした都市の中でこの城の周辺はかなりな面積を占めている。

南に面した天守閣を登ると街が一望でき、かなたには瀬戸内海が光っている。周りが平らなせいもあってこれだけの高さでもぐるりを見渡せるから十分に城の役割を果たしたのだろう。

その天守閣の北側から下を眺めていると、何やら由緒ありげな一角があって、テニスコートを過ぎた右手に数寄屋風の門をくぐる人が見える。ちょっと行ってみようよ、とかみさんと城の裏手に回る。入るな、と書いてはないので恐る恐るのぞいてみた。それが福寿会館だった。

福寿会館


典型的な数寄屋風の建物と庭の彼方にいかにも「洋館」という建物もある。後で調べてみたら海産物で財を成した安倍和助という人が昭和の初期に建てたものらしい。江戸時代に五千石蔵という城米の貯蔵施設のあったところだそうで、この建物もすでにかなり老朽化して修理を行うのだろう、作業服を着た人が何人か庇の状況を写真に撮っていた。それでもこの庭は立派なもので、母屋や茶室を含めて市民の会合などに使われていて折から呉服展の準備が進んでいるようだった。

長屋門
銀杏が黄葉していてスケッチをしている人もいる


まだ時間があるからと、城の前を半周して内藤家の長屋門を見に行く。その道を辿るともうすっかり銀杏が黄葉していてスケッチをしている人もいる。この辺りはむかし堀のあったところでその堀のすぐ外に内藤家の武家屋敷があった。今はその長屋門だけが残っているが、裃をつけた武士たちが行き来したその門を覗くと、小さな土手の上に野良猫が日向ぼっこで、じろりとこちらを睨んでいる。今は猫が主人公らしい。

緑に囲まれたこのあたり一帯はこの街の文化施設が集中していて、武道館、人権平和資料館、ふくやま文学館、ふくやま美術館それに県立歴史博物館がある。小高い城の西側から下を覗くとすぐ下がふくやま美術館でお城と庭続きという感じだ。朝のことでもあるから通る人もほとんどなく空気もすがすがしい。危なっかしい石を埋め込んだ階段をそろそろと下って美術館の裏庭に出る。鄙には稀なといっては大変失礼ながら、瀟洒なこの美術館をなんとか見たかったが、もう時間がない。ぼくたちは駅に急ぐ。そこで一行と合流し、バスに乗っていよいよ本格的な旅が始まった。

ふくやま美術館

2.因島水軍城

福山駅の前にバスが駐車していて、弁当を買ったわれわれはそれに乗り込む。ぎりぎりで塩谷さんたちが入ってきたが「お一人様が遅れて後で合流しますから出発します」という案内でわれわれのバスは11時58分、福山から新尾道大橋を渡って向島(むかいしま)に入る。

福山から新尾道大橋を渡って向島(むかいしま)に入る

現地のガイドさんは最初戸惑ったようだ。なにしろ午後の出発だからいつも「おはようございます!」と大声で始まる第一声が出てこないのだという。まあ「こんにちわ、でしょうか」と笑わせて「おぎのようこ」だと紹介があった。この人は「あちらに見えますのは・・・」式の案内はしない。友達同士の会話みたいで、これは奥方が多かったせいかもしれない。

この橋から見るとなるほど瀬戸内海に入ったんだなあと思わせる風景が広がる。やがて因島大橋を渡るとそこが因島(いんのしま)だ。前に客船にっぽん丸から この島を見て、ああ村上水軍の根城だと思ったことはあるが、当然のことながら小早船も見えなければ胴丸を着けた武士もいない。

因島水軍城の坂道
因島水軍城


弁当を食べ終わって(これが思ったよりおいしかった)因島水軍城という城に着いたのが12時45分。山の上に小さな城が聳えている。説明書によると昭和 58年に歴史家の奈良本辰さんの監修で建てたものだという。まあ昔通りかはわからないが、山の中のような城ながら当時の海岸線を示した地図で見るとこのす ぐ下まで海だったらしいから、それなりの考証はしているのだろう。

そこへ「後から合流」のお一人様が到着した。それが日吉さん。列車の時間を間違えたようで、バスに乗り込んで来るなり大声で「日吉です!遅れて申し 訳ありません!」と潔い挨拶だった。それにしてもタクシーを使って追いかけたんだろうか。それだと費用も大変だったろうなと人の疝気を頭痛に病む。

それはともかく、この城に入るには石畳の坂と何十段という石段をいくつも登らなければならない。大正生まれの坪井さんに大丈夫かなあと相談したが、この人は年に似合わず階段に強い。駅で2段ごとに上るという強者だ。こういう時は一気に登らなければだめなんだよねと励まされ、ついその気になってよせばいいのに青森の肴倉さんと3人で休むことなく坂道と石段を登り切った。

ぼくは喘息持ちだ。随分と良くなって今は薬も使っていないが、この病気は治ることはない。非常なストレスがかかると必ず顔を出す。だからこの時もゼイゼイと胸が鳴って久しぶりで喘鳴のお出ましとなった。でも幸いに長続きはしなくて無事に旅を終えたのだが、あとで出てくるように風邪をひいて帰ったものだか ら、呼吸器科の先生のお世話になる羽目になった。

「はい、息を吸って! 吐いて!」
と、聴診器を当てながら先生が言う。ぼくの耳にだってぜーという大きな音が聞こえるぐらいだ。先生は「いやー、久しぶりで見事な喘鳴を聞いた。」と喜んでいる。近頃の喘息はあまり音がしないんだそうだ。

それにしても何で?と聞かれて実はこれこれと説明したらあなたの年でそんなことをするとは、笑っちゃ悪いけど笑っちゃう、とケラケラ笑う面白い先生だった。そのためにぼくは吸入薬を1個もらい、もう1個もらって非常時に備えている。

ぼくたちの目当ては城そのものではなくそこに展示されている和船の模型だ。左の写真が安宅(あたけ)船で、案内の人の話ではこの大船は村上水軍が持っていたかどうかわからないという。中が関船(せきぶね)で、安宅に比べるとかなり敏捷に動くことができ防御も攻撃もできたから、瀬戸内海で通行する船をせき止め、通行料を取るいわば関所の役割をしたのでこの名があるという。右の写真が小早船(こはやぶね)で、防御能力はないが敏捷に動くから実際の戦闘に使われ たという。

安宅(あたけ)船
関船(せきぶね)
小早船(こはやぶね)

みんなはこの模型にご執心でロクに説明を聞いていないが、坂と石段を登ってきた甲斐はあったといっていい。この中には旗指物や武具なども展示されている。二の丸には当時の武士たちの人形模型もあって何やら相談をしている様子だ。面白かったのは鎧や兜は大将が城でいわば儀式のときに着けるもので、戦闘時には皆が胴丸という胴体を保護する武具だけを着けたという。なにしろ海の上での戦闘だから軽装でなければ仕事にならなかったのはよく分かる。

 
 

村上水軍は三家あるらしく、ここ因島村上家、能島村上家それと来島(久留島ともいうらしい)村上家だ。その家紋が違っていて因島と能島はいずれも「丸に上の字」だが、同じ上でも因島は下の横棒の左端がくるりと細くなって縦棒の下に届いている。能島はそれがなく右上の短い横棒の右端が極端に上を向いて曲がっているのだ。そして来島の家紋は「折敷に縮み三文字」といって八角形の枠に波型の横棒が三つある。 同じ清和源氏の流れで真言宗徒でありながらそれぞれ独立していたのだろう。

「丸に上の字」だが、下の横棒の左端がくるりと細くなって縦棒の下に届いている

1時間ほどの見学を終え下りは楽でバスに帰る。すぐ隣には立派なお寺があって入口に「蓮禅寺」と達筆に書かれた大きな石碑が建っていたり、緑色の藻に覆われた池の石の上に亀が日向ぼっこしたりのどかなものだ。次の見学地へ出発したのは午後1時45分だった。

3.大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)

因島を出て生口橋を渡るとそこを生口島(いくちじま)という。この島を横切って多々羅大橋を渡ると大三島だ。こういう橋の名前と島の名前はぼくが調べたわけではない。この旅行の幹事は頭が松原さん、手下が市川さんと田中嘉明さんでこの3人が詳細な「しまなみ海道、とびしま海道の橋」という一覧表を配ってくれた。

ぼくはただその表とやはり松原さんが事前に配った地図を参考にしていかにも知っているような顔をして書いているのだ。感謝してもしきれない。松原さんはほとんど性癖といっていいほど計画の細部にこだわる。何とかみんなを喜ばせようという熱意にあふれているのだ。

 
 

途中バスからは瀬戸内海の景色が十分に目に入る。ぼくの父親は岡山の出身だから小さい時に何回か岡山に来たこともあり、「瀬戸内」という言葉にもその景色にも慣れている。だからバスからの眺めはなんとなく懐かしい

大三島はこの辺りではかなり大きな島で、その西岸に大山祇神社がある。バスは午後2時20分に到着した。案内は土地の特権らしく「おみやげナガノ」という小さなスーパーのような店がその拠点らしい。店の名前の入った赤い Tシャツを着た、いたずら小僧がそのままおねえさんになったような店員さんが案内人だ。

正面ではなく横から入りますから、ちゃんと付いてきてくれと先頭に立つ。帰りはこの「ナガノ」に間違いなく来てください、と念を押すところがちょっとおかしい。ここはかなり大きな社で案内板によると「おおやまづみじんじゃ」と読む。「御祭神、大山積大神」とあるから分かる。この大神は天照大神のお兄さんであり、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の奥さんのお父さんでもあり海上安全の守護神だというから神話時代の大物だ。


 
 

まず正殿で礼を尽くして10円のお賽銭を奉納する。まあ特にお願いがあるような歳でもないからいろいろ説明してくれる案内のおねえさんの話に耳を傾けるが、どうもいまひとつ納得がゆかない。ふと下を見ると見事な大木が見える。これが樹齢2600年と言われる楠で、まあ2600年かどうかは疑わしいが、その威容は見事なものだ。

昔の教科書に出ていたが、クスノキは大木になって大きな丸木舟になるということだった。これほど年を経ては船には無理だろうが、大木であることは間違いない。しみじみ見ると歳を経た樹木はそれだけで見飽きることのない趣がある。

 
 

宝物館に行きます、ということでここで は有名らしいが中に入るといや武具がぎっしり詰まっている。写真が撮れないので絵はないが昔の大鎧、源義経や頼朝の鎧だとか、特に刀剣が多い。資料によると国宝が8点、国の重要文化財が469点、県の重文が14点とある。日本中でここが一番刀剣類の収集が多いのだということだった。

太刀や 大刀はもう美術品といってもいいほど美しい。一方でぼくがほんの少し習った居合術で真剣を構えて鏡の前に立ったとき、その切っ先があまりにも鋭く竹刀を構えた時と全く違う怖さがあって、これが真剣勝負というものかと感じ入ったたことを覚えている。やはり何よりも刀は武器であるのだ。

そこを見てから、坪井さんと海事博物館へ行こうよとこちらを実は楽しみにしていたのだがこれが期待外れで、何となくガランとした感じで帆船どころか船の模型なん ぞは全くない。もっともここは昭和天皇ご研究の海洋生物を採るための収集船「葉山丸」を記念して建てられたというから、そもそも目的が違う。そんなことなら「海事博物館」というなよなという感じだ。

帰 りはバラバラで、ぼくはかみさんと関口さんの3人で歩いたのだが、どうやら「ナガノ」のおねえさんが言っていた横から入る道を間違えたらしい。塀に沿って 延々と歩く。境界の外をぐるりと回ったらしいのだが、それでもそれらしい道に出ない。関口さんにはお気の毒だったがやっとスーパーに帰りついたのは午後3 時も25分を過ぎていた。

ところがその店で売っていたミカンが甘くておいしい。うんと小型なケチなミカンがかなりの数、袋に入って100円だという。見た目は悪く、おそらくは正当な売り物にはならないものを詰めたのだろうが、 仲間たちが何人も買って堪能した。確か「広島蜜柑」と書いてあったが、この辺りは愛媛県と広島県が混在しているようで、かの有名な愛媛蜜柑と同類と見た。 これからは広島ミカンを買ってもいいだろうねぇ、というのが大方意見だった。 

 

4.村上水軍博物館

大山祇神社を出たバスは来た道を少し引き返し、大三島から大三島橋を渡って伯方島に入り、さらに伯方・大島大橋を渡るとそこが大島だ。四国の目の前で、まっすぐ行けば今治市に着くが今回は四国へは寄らない。水城である今治城を見たかったがまあそれは無理。

この大島の東寄りで北に開けた港の海辺に村上水軍博物館がある。もう午後4時を少し回っていたがバスが付くと博物館の入り口に小早船の実物が置いてあるのが目に留まる。もっともこれは現代船で櫓のへそが金属でできている。それでも五丁櫓の小早船は見るだけの価値はあるのでみんな寄ってたかって、ああだ、こうだといやうるさいこと。

案内によると日本一を競う水軍レースのために宮窪町が1990年に復元した第1号だそうな。東大の名誉教授小佐田哲男さんの監修で渡辺忠一さんという船大工が作ったという。実際に使われた船だから見ていて楽しい。

 

館内に入ると館長さんが自ら説明を引き受けてくれ、ビデオとともに安宅船、関船、小早船の説明をしてくれる。模型もちゃんとしたものでわれわれの関心をひくが、水軍城で見たものと大差はない。

それよりも興味をひかれたのはここ能島村上家の紋章で、因島村上家と比べて明らかに違う。それぞれに競ったんだろうな、と当時をちょっと覗いたような気がす る。下の写真のように上の字の下横棒は左端が曲がっていなくて、右側の短い線がかなり上を向いている。上の三本線は飾だろうか。旗印を見てあれは因島、こ れは能島と判別したのだろう。

 
 
 

展示品の中でぼくの目を引いたのが「虎蹲砲(こそんほう)」という大筒だ。説明には文禄・慶長の役に村上武吉の次男影親が韓半島から持ち帰ったとある。朝鮮銃筒であった武器を和式砲術用に改造したものらしい。村上水軍の海戦では炮烙が有名だが、こういった大筒も使われたとすると当時の水軍の火力はわれわれの想像以上のものがあったようだ。

もっともこのタイプの砲では駐退装置がないから比較的火力は小さく、近距離用であるのは明らかだが、発射時に船はかなり揺れただろうと思うとちょっと面白い。小早には無理だろうから、関船に搭載されたのだろうか。

 

5.民宿・千年松


肴倉忠さん

結局いろいろ見て聞いて、博物館を後にしたのはもう午後5時に近いころで、あたりはかなり薄暗くなっていた。大島の東岸を斜めに縦断するように通り、最南端にある民宿千年松には5時半に到着。この宿は民宿と称してはいるがどうしてなかなか立派な宿だ。目の前は海岸で対岸には四国の今治市が見えるし、右手には三連吊り橋で長さ4,015メートルの来島海峡大橋も伺うことができる。

みなさーん、とガイドのおぎのさんが呼ばわって、今夜は男性4室、女性2室で泊まりますという。和室の大部屋しかないから必然的にそうなる。漁火、渦潮、瀬戸、きらめきという4室が男性の部屋、亀老、南天が女性部屋だ。どうやらIDナンバー順に決めたらしくぼくは「瀬戸」の部屋で肴倉、安藤、田中さんたち3人と一緒になった。つい不精になって、大きな浴衣を「おはしょり」するからといったのだが、田中さんがフロントに電話して一番小さなものを注文して交換してくれた。どうもそういう点が敏感に動けない。

館外にある風呂にゆっくり浸かって6時半には夕食。これが豪華だった。この土地の魚を使っていろいろ出てくるので、普通なら記録に残しておくのだが、なんだか宴会が盛り上がってとてもそんな余裕はない。ただ最後に出てきたタイ飯のおにぎりだけは旨そうだなあと思いながら、とても胃袋の許容範囲を超えていたものだからひどく残念だったことだけは覚えている。
 

 
 
 
 


 
 

各人がそれぞれに演説をぶった、さしもの宴会もお開きとなってそれぞれに部屋に引き上げたのだが、わが「瀬戸」にはいろいろな人たちが集まって、食べられもしないタイ飯のおにぎりまで持ってきてくれるは、最長老の坪井さんまで加わって大いに話の花が咲いた。隣の部屋にいた田中夫人がもう遅いからと心配して声をかけるぐらいの時間まで粘ったのだ。

翌朝、安藤さんは早起きの習慣があるらしい。朝の6時に目覚ましが鳴った。うちにいればまだ夢の中の時間だが仕方ないから起きだして朝風呂に付き合う。いい湯だと出てから浴衣に羽織姿で海岸に出るとちょうど日の出の時刻。これこれ、とカメラを持ち出して撮影。おまけによせばいいのに海岸をウロウロしてあちこちと写真を撮ってから部屋に帰った。

どうもこれが原因らしい。その時は何とも思わなかったのだが、やがてグスグスと鼻がおかしくなった。まさか鼻に栓をするわけにもゆかず、あたりの鼻紙を総動員する始末。おまけに帰るころには熱も出たらしくいくらかもうろうとしてきた。

まあそれでもそれは過ぎたことだ。これだけの犠牲を払って撮った写真だからここに掲げないわけにはゆかない。

 

6.瀬戸内のフェリー

民宿千年松の女将は夕べから従業員と同じ黒い作務衣を着て同じように働いていたから、最初はだれが女将かわからなかった。しかし、人品卑しからぬ佇まいでやっぱりそれと分かるから不思議なものだ。


 

田中さんはその女将といろいろ話をして、
「あの人は細腕繁盛記だぜ、いろいろ苦労をしたらしい。」
という。まあ女手一つでここまでするのは並大抵のことでないことは素人でもわかる。

出発の朝、3袋1000円という乾燥エビを買ってバスに乗り込む前に、その女将がここで写真を撮れ、あっちも捨てがたいからもう一枚といろいろ世話を焼いてくれる。深々と頭を下げて見送ってくれた時はもう8時40分を回っていた。バスの中で幹事さんが昨夜の酒代だと一人2,500円を徴収する。もちろんこれは男の子だけだ。

 
 

バスは昨日来た道を逆戻りして伯方島から大三島に入り、大山祇神社の前を通り越して宗方港に向かう。しまなみ海道というのは正式には「瀬戸内しま なみ海道」というらしい。これは福山から四国の今治へ抜ける海道で、今日われわれはこの海道と別れて「安芸灘とびしま海道」を行く。これは大三島の西にあ る岡村島から西へ向かい、下鎌苅島を通って本土に入り呉に向かう海道だ。その両海道を結ぶのが瀬戸内のフェリーというわけで、大三島の宗方港から岡村島の 岡村港の間を結ぶ短い船旅になる。

この間は直線距離にして4㎞ にも満たないぐらいで時間にすれば1時間もないが、船旅というだけでみんなニコニコするから船キチは争えない。天気はいいし景色もいい。やがて来たフェ リーにバスごと乗り込んで早速船室に入る。もっとも部屋の中でじっとしている連中ではないから、夫人連を含めてみんなプロムナードをウロウロする。ぼくは 坪井さんと海を見ながら海軍兵学校を受験してさあ、いや俺もだよ、受からなくてよかったかもよ、などとつい昔話に熱中する。やがてその兵学校跡を見学する のだ。

 
 
 
 
 
 
 

7.御手洗(みたらい)


 

大崎下島の東端に御手洗という街がある。ここはもう広島県の呉市に属している。大三島や岡村島は愛媛県の今治市だから、瀬戸内の島々の地域的な所属は複雑でよくわからない。やがてバスが停まるとそこが御手洗だった。「おてあらい」でなくこれは「みたらい」と読む。

後でいろいろ聞いて驚いたのだが、ここ瀬戸内の水運はわれわれの想像をはるかに超えていた。まあいわゆる帆かけ船や櫓のことだから速度といったらせいぜい数ノット、つまり時速10km程度だから陸上を馬で走った方が早い。しかし船はなんといっても荷物を運ばせたら馬車なんぞは比較にならないし、海に坂道はないのだ。しかも瀬戸内海は干満潮差が激しく、船は風に乗るより潮に乗れといわれていたという。実際にわれわれはこの目で潮の速さを見ている。だから海域を知る熟練の水夫に任せればかなりの速度で移動できただろう。

しかし、潮の流れが速いことは同時に泊地としては不適当で、そういった意味で南北ではなく東西に開けた御手洗港が優位に立ったという。上の地図を見ると御手洗は半島がちょこっと東西に延びている。そのためにいい潮溜まりができて行き来する船の停泊地として栄えたそうな。櫓漕ぎの時代は岸沿いの航海で「地乗り」といわれ、あちこちの島に港ができた。帆走時代の北前船などは「沖乗り」といわれたそうだが、それでも停泊地は必要だった。そういった意味で御手洗はかなり発展したという。

 

舟運による交易が盛んだったと、名前を忘れたが案内をしてくれた人は強調する。御手洗の名の由来に至っては神功皇后の三韓征伐や、菅原道真の太宰府左遷、果ては平清盛までその説明に出てくる。真偽のほどは疑わしいが、伊能忠敬の測量や、シーボルト、吉田松陰、更には幕末の七卿落ちの立ち寄り地だったということになるともう歴史が証明している。

実際に幕末には薩摩藩の船宿がここに設けられ、いろいろ政治的に利用されたというから、騒乱の時代の人々の交流には舟運が大いにものをいったに違いない。そして人が集まるということは、当然ながら港が繁盛し、宿ができ、商売屋が集まり、そして世界最古の商売である色町が形成されたのだ。

ただ地理的には辺境であるここは文明開化とともに取り残され、それが急激な変化だったばっかりに街の再整備が行われずに昔の様子がほとんどそのまま残っているのだと、説明のおじさんは腰にスピーカーを巻き、マイクは帽子につけて両手を空け身振りもよろしく延々と話をするが、大変な知識の持ち主でもある。

渡された「御手洗マップ」によるとこの街は三角形に海に突き出た形で、何本かの道路ぞいにびっしりと家屋が並んでいる。いずれもほとんどが木造の二階家で町家形式の変形で、幕末から明治初期の建築というのもうなずける。使われている瓦もいろいろな家紋があって、それを眺めるだけでも面白い。

 
 
 

天満宮はちょっと奥にあるお宮で、例の菅原道真が手を洗った井戸があるといういわくつきのものだ。面白いのは建物の下をくぐる小さなトンネルがあってこれを「可能門」という。くぐりながら願い事をすれば叶うのだというが、それほど願うこともなくみんな何となく通り抜ける。

道筋を歩いているとガイドのおじさんが立ち止まって、この先に明治時代からの時計屋さんがあるがテレビにも出たからご存じだろうという。NHKの「プロフェッショナル」という番組に出ていたからぼくも承知しているし、できれば直してもらいたい時計もあるのだ。が、とてもそんな望みは叶えそうもないぐらい繁盛しているという。テレビ以来人々に悩まされたのだろう、ガイドのおじさんはくれぐれも覗き込まないでほしいと念を押す。明治から続いているというその 「松浦時計店」の前をそっと外から見て歩くとすぐに「乙女座」の前に出た。

 
 

ここは1937年の建造というから昭和初期の建物で、この街としては新しい。一度ミカンの選果場になったが2002年に再建された現役の劇場で、木造モル タルの二階席まである古いけれども立派な建物だ。畳敷きがなんとも好ましくて「えー、おせんにキャラメル…」という台詞以前の構造である。そこを過ぎると 右手に「脇屋」というしゃれた看板のかかった建物が薩摩藩の船宿だったという。討幕の志士といっても若い侍のことだ、きっと色町とも大いに関係があったの だろうと、ちと羨ましいような気がしないでもない。

 
 


このすぐ先、もう半島の突端といっていい場所に七卿落ち遺跡という家がある。文字どおり都落ちの身だから仕方ないが、公卿としてこの屋敷に泊まった時にはさぞ落剥の身を嘆いたことだろうと想像できるほど簡素な造りで、脇屋の隣の写真がそれの内部だ。

やがて海辺の道に出て立派な瓦屋根の屋敷の前通ると北前船を作っている店があるという。どれどれと寄ってみるとなるほどおじさんがいて和船を作っている。いろいろ話をしてくれるが、正直に言ってその作品はあまり評価できるものではない。かなり大きいのだが、悪く言えば直線の集積という感があるからだ。ちょっとがっかり。その先の船宿「脇坂屋」で昼食をとって御手洗に別れを告げたのは、午後1時10分のことだった。

 
 

8.松濤園周辺

御手洗を後にバスは大崎下島の北岸を通り、豊浜大橋を渡って豊島を過ぎ、豊島大橋を渡ると上蒲刈島に入る。ここは「安芸灘とびしま海道」の中ほどになる。 これはちょっと大きな島でその南岸を走り、蒲刈大橋を通れば下蒲刈島の東端に着く。そこが松濤園のあるところで午後1時35分、われわれは今そこにいる。

松濤園というのは、下のように陶磁器館、御馳走一番館、あかりの館、蒲刈島御番所の施設全体の名称で、外部から移設しあるいは復元したものだという。まあ風 光明媚の地にあるが、ここの売りはなんといっても朝鮮通信使接待の展示だろう。朝鮮通信使が何回も日本に来ていたことは知っていたが、海路を通って江戸へ 向かったとは知らなかった。考えてみればその方がずっと楽で、警備上も都合がよかったのだろう。しかしこの瀬戸内海でこんな歓待が行われたとは知らなかっ た。それが御馳走一番館という館で展示されているのだ。


 
 
 
 

一行を運んだ船はどちらの国で作ったかわからないが模型を見るとなかなか豪華なもので、これで瀬戸内を通ったらかなり目立っただろうと思わせる。説明によると朝鮮通信使が来るとなると徳川幕府は御馳走所という、接待する場所を選定し、同時に担当大名を指名する。指名される大名は迷惑だったかもしれないが、幕府指定の「七五三の膳」という供応をしなければならなかったらしい。下の写真がそれかどうか不明だが、なんでも材料を変更することができなくてえらい苦労をしたと説明されている。もっともこれはいわゆる「見せ膳」で通信使が食べたのではなく、実際の食事は別だったらしい。

それにしても、これほどあちこちと寄りながら歓待されるのだからいい時代だった。お茶を飲んでもその茶器は「献上」したというのだから、幕府側、というより大名側の出費もばかにならなかっただろう。こういう饗応を見るといつも思うのだが、見せ膳なんぞ後でだれが食べるんだろう。

 
 

江戸時代にこの島の三之瀬というところに公式の「海駅」が設けられていたと説明板に書いてある。松濤園内の蒲刈島御番所がその位置だったかどうかははっきりしないが、御番所には蒲刈島繋船奉行が常駐しそれなりの規模の取締機関があった。幕府は瀬戸内の水運をしっかり押さえていたのだ。また「高札場」も併設されていたという。

高札場というと町の人たちが集まって字の読めるのがみんなに解説するというテレビ場面を想像するが、この説明によるとそんなものではなく
「高札場には幕府の庶民統治上の根本法が盛られ…その管理は厳重を極め…通行する際には敬礼させるなど…法の尊厳さを教え、幕府の尊厳を誇示…」
とあって庶民統治の重要な方法であったらしい。こういうこともわれわれには新しい感覚だ。

松濤園の周辺はまことにいい景色だが、海はかなり潮が早く実際に近くによってみてみると川の流れのような感じがする。ゆるく渦を巻いてもいるから瀬戸内の海は風よりも潮に乗らなければならないのかと改めて感じる。

やがてガイドのおじさんは松濤園の裏口から道路を渡って向かいにある蘭島閣美術館にわれわれを導く。もうこのころになるとじいさん連はいい加減くたびれてきて、あんまり身を入れて見学をしない。この美術館で印象に残ったのは階段の柱に使われている大きな木で、二階まで一本がすっきりと通っていた。

 
 

それでは、というわけでもあるまいが、美術館の横にある狭い坂を上って白雲楼でお茶を頂くことになった。休めてお茶が飲めるなら有難いとみんなぞろぞろと坂を上る。ここは高台だけあってまことに景色がよく松濤園越しに瀬戸内海が見渡せる。

座敷に通され、やれやれと緋毛氈にかしこまって出されたお茶を堪能したのは女性陣で、男性陣はやれやれの方が先行してか何となくだらしない。まあ歳だから勘弁しようか、という感じだ。

こうやって、午後3時40分に松濤園をバスが出発、本土に入って呉を目指す。

9.音戸の瀬戸

 

音戸の瀬戸というのは上の地図のように、呉市の南にある半島と倉島島との間にあるごく狭い海峡である。東から来る船が呉の港に入ろうとしてこの瀬戸を使わなければ、倉島島や江田島を大きく回らなければならない。音戸の瀬戸を通過すれば呉港はすぐ目の前だ。だからこの瀬戸はいろいろな意味で重要なところといっていい。

これは昔から認識されていたようで、平清盛が開削したというのだが、地質学的には昔から分離されていたという。清盛はそれを広げたのだろう。工事を終えるために夕日を呼び戻したという伝説で、音戸の瀬戸に面して「清盛塚」もある。おそらく曇っていた空が、清盛の「戻せ、戻せ」と呼ばわった時にたまたま晴れてきれいな夕日が出たのではあるまいかとひそかにぼくは思っている。権力者はパフォーマンスが好きだから、そんなこともやりかねない。

それはともかく、われわれのバスがここに着いたのは午後4時20分だった。ちょっと長い時間だったのでぼくはトイレに行きたくて仕方ない。大きな建物に入るとすぐそれを探して用を足した。ところが出てくると誰もいないのだ。あらまあと外へ出て探し回ったが、どうもそれらしいところはない。もう一度建物に戻ってじいさん連の団体を見なかったかと尋ねるとたぶん2階にいるだろうという。エレベーターで上がるとなるほど皆そろってガイドさんの説明を聞いている。何事もなかったように、そっとそれに加わって安心した。

2階の前が展望台になっていて音戸の瀬戸が一望に見渡せる。この瀬戸は幅が90メートル、可航幅は60メートルだという。潮流は最大4ノットというから時速7.2㎞もある。1日に700隻余りの大小の船が通るというからいかに利用されているか分かろうというものだ。


 

平清盛の時代といえば1167年ごろ、日宋貿易のために開削したと伝えられているから12、13世紀にはもうその重要性が認められていたことになる。館内の説明板の空中写真を借りてこの瀬戸を上から見ると中段の写真の通りものすごく狭い。下の写真のように実際にこれを見ると対岸がすぐ目の前、ということになる。

道路のわきに見えるのが清盛塚で、交通が頻繁だから今はそこに入ることはできない。ぼくが中学生の頃、海軍経理学校の農場へ学徒動員ということで学校から配属されたことがある。その予備訓練で、当時品川にあった海軍経理学校でカッターなどを漕がされたが、教官の話ではこの音戸の瀬戸を「一本足の駆逐艦を駆って全速で走った」と自慢した艦長が昔はいたというのだ。

一本足というのは一軸のスクリューをいうのだが、うまく舵を取らないと危ない。昔のことだからそういう武勇伝も成り立つのだろう。それほどこの瀬戸は危険で、しかも重要だったのだ。

 
 

音戸の瀬戸でのもう一つの収穫は、打瀬船(うたせぶね)だ。網を打ってから大きな帆で船を横に進めて海底のエビ類や底物の魚介類を獲ったという。面白いのは夏場の風のない時期、海に大きな海帆を入れ、潮の流れを利用して操業したのだそうな。

打瀬船は北海道にも、霞ケ浦にもあって昔はそう珍しいものではないが、海帆を入れて操業するというのは他ではないだろう。潮流の激しい瀬戸内ならではの漁法 ではなかろうか。その他、この辺りは魚が豊富で、大きな漁船で時には朝鮮半島まで出漁したらしい。いずれにしても瀬戸内海は魚類が豊富で、戦前は大いに漁業が発達した。ここの漁船は山口県から鞆の浦まで出漁したと案内板はいっている。


 

展望台でガイドのボランティアをしてくれた人は、最後に土地の唄を歌ってくれた。何の唄だったかぼくにはよく聞き取れなかったのだが、その歌声は素晴らしいものがあった。バスガイドのようないわば職業として唄ったのではない。この土地で、おそらく生まれ育ったのだろう、日ごろ慣れ親しんで唄っている仲間もいるに違いない。朗々と、それでいてとても楽しんでいる様が聞いていてよくわかる。いや見事な歌声だった。

午後5時4分、われわれは音戸の瀬戸を後にして呉市に入る。途中呉港で造船所が見えたり潜水艦があったりでじいさん連中はバスの中で色めき立ったが、まあ、今日は陽も暮れたことだし、それは明日のお楽しみ。間もなく呉の阪急ホテルに到着した。夕食は駅中の寿司屋でとったのだが、カキがあるぞという看板に偽りがあって、ちょっと貧弱な食事となった。まあ、明日があるさ。

10.長門の造船歴史館

呉阪急ホテルは駅前にあってなかなか快適だ。朝飯を済ませてちょっと近所を見てこようとかみさんと2人でぶらりと出かけた。まあどこにもある都会の街並みだが、すぐに川があってその岸辺がよく整備されている。昔は帝国海軍の呉鎮守府だから何となく海軍の面影があって、「海軍さんの麦酒」だとか「呉海自カレー」なんぞの大きな看板が見える。そのあたりは横須賀よりもずっとあっけらかんとしている感じで、どうやらこの地の方がどこに遠慮もなく海軍を身近にしているんだとちょっとおかしい。

ぼくは大いに勘違いをしていたのだ。今日は長門の造船歴史館へ行くことになっているから、てっきり戦艦長門の造船にゆかりのあるところだろうと思っていた。

 

8時58分に出発したバスは昨日の音戸の瀬戸にかかる大きな方の橋を渡り倉橋島に入る。それから延々と走って着いた時には9時43分になっていた。どう 見ても軍艦の造船所とは関係なさそうな、風光明媚な海岸だ。建物の前にある看板を見ると「古代倉橋島は長門島と呼ばれていました」と書いてある。なーん だ、と思ったがここは遣唐使の船の実物大模型があるので有名なのだという。地図で確かめるとここは倉橋島の南端にある広い湾に面したところで近所には温泉 もある。

バスの中でガイドのおぎのさんはみんなに念を押していた。
「ここは館内で写真を撮ってはいけないのです。ですから・・・」
と一息入れて、
「決してガイドさんに写真を撮っていいかと聞かないでください。内々に見逃してくれるので写真を撮ることもできます」
事前に電話で交渉してくれたらしい。

まあご親切なことだが、館内に入るなり案内を買って出てくれた館長さんは、
「ここは写真撮影禁止ですが、皆さんは帆船模型の専門家だから特別に写真はかまいません。どうぞ撮ってください」と誠に話が分かる。われわれは大っぴらにカメラを振り回したのだ。

なんといっても、実物大の遣唐使船というのは他では見られない。ぞろぞろとわれわれはまずその模型を見せてもらった。


 
 
 

この倉橋島は遣唐使船の模型があるぐらいだから、昔から造船の島だったらしい。江戸時代に編集された「芸藩通志」に「…古くより船匠多くあり…昔の船つくりも、此の地なるべし」とあったという。遣唐使船も秀吉の軍船もここで作られたと説明板にある。ぼくは思ってもみなかったのだが、なるほどそういわれてみれ ばここ倉橋島は瀬戸内海に突き出た島で交通の要衝に違いない。豊臣秀吉が朝鮮に侵攻した時に何百隻という船を使ったのは確かだろうから、ここが軍船を作る 基地の1つだったのかとはなはだ納得がゆくのだ。

説明板には、と言っては申し訳ないかもしれない。おそらく館長さんはそういった意味のことを延々とぼくたちに説明してくれたに違いない。ただこっちは模型を見たり写真を撮ったりで忙しく、それをきちんと受け止めてはいなかった。人の話は ちゃんと聞くべきだと大いに反省するが、いま改めて整理してみてこの島が想像以上に活発であったことを認識する。


「江戸時代には中四国、 九州一円、近畿、東海、北陸の広い範囲から商用の大小船舶及び各藩のお召船、関船などの注文が相次ぎ…本浦の浜辺いっぱいが造船場となりイロハ47文字の 納屋が立ち並んで…」栄えたというのだ。現にお召船となった関船の模型があるし、昭和初期の石船の造船ジオラマまであって当時の様子を見ることができる。


 
 
 
 


世の習いで、ここの造船業も栄枯盛衰を繰り返したという。明治維新後は西洋船の建造が進んでここでの和船建造に500石以上の和船禁止令が出された。一方大正末期から昭和初期には軍事物資の流通が盛んになったために機帆船の需要が増して再び興隆したという。そのあとは鋼船、FRP船の時代になったものだから、現在の多くの木造船の造船所は検査修理が主となっている。瀬戸内海の一つの島にそんな歴史が隠されていたなんて想像もできなかった。日本にはほんとにいろいろなところがある。 

工道具もさることながら、ここに和船の珍しい図面があった。和船はあんまり正確な図面は無いといわれているが、この説明によると「これは船の建造見積を兼ねた図で、材質や寸法を記入した珍しい図です」とある。詳しくは見ていない

 
 

がその道では貴重なものかもしれない。

 

11.海上保安資料館

10時50分にバスが出発してまた呉市に戻り、11時32分に海上保安大学校に到着した。このころになるとぼくは完全に風邪の初期症状を呈していて何回鼻をかんでも際限もなく出てくる。体中の水分が出てしまうんじゃないかとそっちの方が気にかかるが、そんなことを言ってはいられない。ほんとなら鼻紙を丸めて鼻の穴に突っ込んでおけばしばらくは持つのだが、八十代のじいさんのすることではないし、第一うちのかみさんがうんと言うはずがない。というわけでそこら中のティシュを集めて回ることになった。

それでもここへ来るまでにバスは呉港の沿岸を通って走るから海上自衛艦を含めていろいろな景色を見ることができる。広島名物のカキの筏あり、大型タンカーが泊まっていたり、溶鉱炉あり、建造中のタンカーありで、船キチじいさん連はバスの中で燥いでは写真を撮っている。地は争えない。ぼくもまあその一人だ。

  
 
 
 

われわれの目的はここ海上保安大学校の構内にある正式には「海上保安資料館」の見学だ。この資料館は1980年に海上保安庁創立30周年の記念館として建 てられたという。初期の巡視船やヘリコプターなどの資料が展示されている。中に入ると意外なことに夫人連が興味を持って見学している。海上自衛隊よりも海 上保安庁の方が身近に感じるのかもしれない。

ちょっと興味を覚えたのは昭和天皇が皇太子の時代に、葉山の御用邸で漕いだといわれるスライディング・フォアだ。いわゆる競技用のボートで座席がスライド する4人乗りの小さな船だ。ぼくは中学生のころに学校にあったフィックス・エイトを漕いだことがある。8人乗りのかなり大型艇だが、オールが重くて漕ぐの が大変だった。それでもクラス対抗の競技会で漕いだのだから今でもボートを漕ぐのは自信がある。

このボートは長さ9.85m、幅95㎝、深さ48㎝と記載されているが、コクスンの席に菊の御紋章があるのがいかにも皇室用だ。今うちのかみさんは赤十字 の特殊奉仕団で「昭和天皇実録」の音声訳記録をしていて古いことを聞かれることがあるが、その内容を見ると天皇はわれわれが想像できない程ご多忙で、しか もあらゆることを習わなければならなかったことがわかる。だからボート競技も必ずしもお楽しみで漕がれたのではないのかもな、と邪推をしてみたくもなる。

 


「軍機海図」というのがあった。戦時中水路部は軍の所属で、一般船舶用の海図と軍艦用の海図の両方を作っていたという。ここにあるのは呉軍港の軍機海図で、言ってみれば軍事機密が展示されているのだ。戦時中にこれを持っていたら間違いなく憲兵に引っ張られただろうな、これを見れば「戦艦大和」がどこで作られたか一目瞭然だからだ。

 


もう一つ、目を惹くものがあった。「軽合金製の巡視艇構造フレーム」が展示されているのだ。軽合金の詳しいことを書いていないが、おそらく「超ジュラルミン」か「超々ジュラルミン」ではあるまいか。昭和23年3月に竣工した巡視艇「あらかぜ」に初めて使われている。20年間海上保安庁の巡視艇として就役し、更に7年間海上災害防止センターの訓練艇をしていた。昭和56年1月に解役となったが、腐食も歪も一切なかったという。これがもとになって現在では高速艇にこの軽合金が使われて軽量化に一役買っているし、更には500トン、30ノットクラスの客船にも使われているという。わずか40分ほどの見学だったが、鼻水を垂らしながらぼくは興味津々だった。

 
 

12.大和ミュージアムと鉄のくじら館

呉のハイライトはなんといっても大和ミュージアムだ。バスで市内のレストランへ行き昼食を摂ったのだが、もうかなりしんどくて、いつもなら何を食べたか、いつどこに行ったかをかなり詳細に記録するのだが、いまメモを見ても一切詳しいことは書いてない。だから何を食べたか書くことができない。

それでも、大和ミュージアムに入ると身体がしゃんとする。ここは正式には「呉市海事歴史科学館・大和ミュージアム」という。午後1時過ぎから3時過ぎまで、くじら館を含めわずか2時間の見学だったが、これが面白かった。ガイドを買って出たおじさんは大和の知識が洋服を着ているような人で、時間がないのでと言いながら質問にはなんでも答えてくれる、大和大好き人間だ。

例えば、大和の1/10模型(これが大きい。長さ26.3mもある)のカタパルトに乗っているフロート付き複葉機を見て彼はこういう。
「これは偵察機ではありません。観測機です。何の観測だと思いますか?」

これはかなり専門的な質問だ。大和の主砲は口径46サンチ(センチのフランス読み、かっこいいねとおじさんは言う)でその最大射程は42kmという。つまり42,000メートルということだ。これを海上で見るとどんな感じになるだろう。ぼくはたまたま機会があってケープケネディで宇宙船の打ち上げを見たことがある。手前の見学海岸からロケットの打ち上げ場のある砂州までの距離は10マイルと言っていたから16,000メートルだ。もちろん肉眼では見えないし、隣のおじさんが貸してくれたかなり大型の双眼鏡でも豆粒ぐらいにしか見えない。まあ最大射程で撃つことはないにしても、ぼくの見た倍ぐらいの距離では弾がどこに落ちたか光学望遠鏡では確かなことはわからないだろう。したがって空中から観測するしか当時は方法がなかったはずだ。

「弾着観測でしょう」とぼくが言うと
「そうなんです!」
と彼は満面に笑みを浮かべて我が意を得たりとにっこりする。

 
 


そんな具合でみんなが質問攻めにしたのだが彼は親切に答えてくれた。おそらくかなりのマニアからの質問がうれしかったに違いない。時間がない、時間がないとぼやきながらあちこちと案内してくれたが、それをいちいち書いても煩わしかろう。写真でそのいくつかを載せておく。


ただ、ぼくが最も興味を持ったのは彼の言葉だ。
「大和は戦闘でほとんど何の役にも立ちませんでした」
そういう。

世界最強の戦艦だから、その主砲を有効に使えば敵艦のアウトレンジから損傷を受けることなく敵の戦闘艦に大損害を与えることができたはずなのだ。用兵上の問題ももちろんあろうけれども、残念ながら大和が活躍するころはもうすでに航空機の時代だった。アウトレンジを航空機に奪われたといっていい。大艦巨砲主義の象徴だった大和が艦隊決戦で「何の役にも立たなかった」のは当然ともいえる。もちろん今の時代での見方だが彼の言うのは正しい。

「しかし・・・」と彼は続けて「その技術が戦後復興に大きな役割を果たしたのです」
といった。

ぼくは造船・造兵技術者でないから詳しいことはわからない。しかし、厚い鋼板の溶接技術、凌波性を持つ大船の船体構造、数十メートルもある大砲の焼嵌め技術、砲身に対するピアノ線の締め付け構造など、素人が考えても大和が膨大な技術の集積であることは間違いない。大和そのものに使われた技術ばかりでなく、その技術屋魂が受け継がれてその後の日本の技術水準につながったことは想像に難くないのだ。違いないなあと、今これを整理して書きながらぼくはつくづくそう思う。戦争は膨大な物資の浪費を招くけれども、それによって技術水準が急速に進歩するのは万人が認めるところだ。どっちがいいか、ぼくは今頃になって、ゆっくり進歩するのも悪くないと思うのだが、どうだろう。

 
 
 
 

館の外に出ると日差しがどっと押し寄せてきた。急いで、ということですぐ左側にある「鉄のくじら館」に向かう。いるいる、何年か前にここを訪れた時にはな かったが目の前にドーンと潜水艦が丸裸で居座っている。船はたいてい水に浮かんでいる状態で見る。上部構造は別として、半分ほどは水面下にあって見えな い。だからヨットが港に引き上げられたのを見るとえらく大きく見えるのだ。まして潜水艦はその大部分が水の中にあって水上に出ている部分はひどく少ない。 それがなんと全体が見えるのだから何とも言えないぐらい大きい。

展示艦SS579「おきしお」は完全二重船殻、シュノーケル装備で涙滴型 の「ゆうしお」級潜水艦で1986年に就役しているから、かなり古いタイプだ。基準排水量2,250トン、水中速力20ノット、乗組員75名で、2006 年にここに展示された。こんなでかいものをどうやってここまで持ってきたのか不思議だったが、日本の最大のフローティング・クレーンを使って鎮座させたと いう。いや大変だっただろうなと他人事ながら感心する。

何度も書いているが、ぼくは潜水艦が好きだ。何としても中をゆっくり見てみたい。しかしくじら館は「海上自衛隊資料館」が正式名称でそっちが本館、潜水艦は3階にある展示品の一つという扱いだ。で、申し訳なかったのだが1階の海自の歴史、2階の掃海艇、3階の潜水艦の展示をすべてすっ飛ばして3階から「おきしお」に入る。残念ながら見られるのは発令所付近と士官居住区の艦体中央部だけで、その他を見ることはできない。まあ、マニア向けではないし秘匿をしなければならない部分もあるのだろう。現に技術の粋と言われるスクリュウは取り外してあるから、まあこれぐらいで我慢するか。

という次第で、どうも心残りなのだが体調もよくはない。集合して午後3時7分にはバスが出 発した。われわれはバスを使ったので分からなかったが、この辺りはかなりJR呉駅に近いのだ。歩ける範囲だとは夕方の食事に出かけた時に気が付いた。東京を知っているとつい錯覚を起こすのだが、地方都市はわれわれが想像するよりも面積は少ない。そこがまた地方都市のいいところでもあるのだ。

忙しい一日で、これから更に旧鎮守府長官官舎に向かう。


 
 
 
 

13.入船山記念館とアレイからすこじま公園

地図で見ると呉駅からそんなに遠くないのだが、ちょっと高台になっている閑静な土地にバスが止まる。呉市入船山記念館という一角だが、ここに旧海軍の呉鎮守府長官官舎がある。昔は鎮守の森として八幡宮があったというが、戦時中は海軍に接収されたので長官邸があったのだろう。現在この辺りは史跡として東郷元帥の住宅の離れ、旧海軍工廠塔時計、旧高鳥砲台火薬庫、郷土館、歴史民俗資料館が長官邸と一緒に移設されている。

時計の前にある緩い坂を上がると昔の火薬庫があるが全体が石造りで思ったよりも小さい。たぶん黒色火薬の時代だろう。からわらに大砲もあっていろいろここに集めたらしい。

目玉はなんといっても長官官舎で、これは国の重要文化財になっているのだ。しかしこの建物は明治38年(1905年)の芸予地震で崩壊したものを再建しているのだが、ここにある「金唐紙」を再現してことがどうやら重文指定のカギとなったらしい。

長官邸は面白い構造で、前面は洋館造り、背面は日本家屋と2種類の建築様式が合体されている。明治の海軍軍人は、公的生活は洋風に馴染んでいたのだろう が、家に帰ってくつろぐときはやっぱり和服で畳に座る生活を止められなかったのだろうと、ちょっとおかしい。ぼくの父親も19世紀の生まれだから、会社か ら家に帰ると必ず和服に着替えていたし、岡山の出身なので食事の最後には必ず茶漬けを一杯食べていたのを覚えている。江戸時代から続いた習慣というのは数 十年で変わることはなさそうだ。もっとも官邸の家人は洋式の部分には入れなかったというから、洋館部はいわば役所とされていたのだろう。

洋館部の内部はかなり豪華なものでここの壁紙に金唐紙が使われているのだ。ここは戦 後一時進駐軍に接収され壁は一面に白ペンキで塗られたという。接収解除後の修復の時に電灯のスイッチボックスの下に残されていた金唐紙が発見され、改めて その技術を見直して再現したのがこの建物の大きな特徴だ。

金唐紙というのは、簡単に言うと和紙を型押しして金泥を塗ったもの。一時は輸出までされたようだが、現在その技術は残されていない。ただ和紙を型押しする木型の円筒が展示されていてその精密な彫刻を見ることができる。

 
 


その他、屋根は天然石のスレート板で葺いてあったりして明治時代の鎮守府長官はかなりの権威を持っていたのだろうと推定できる。今でいえば防衛大臣の下の海上幕僚長のまた下にいる例えば呉地方総監の官舎をこんな仕様で建てたとしたら周囲が黙っていないだろう。もっともこの官舎にはエアコンもなければテレビもない。IT関連設備もない。だから今日の価値観で見るのは当然誤りなのだが、当時の日本の工芸品は、美術品というよりも日常使われている技術の中のかなり高級品、という位置づけになろうかと思う。

見学が終わったのは午後4時半ごろで、なんとなく夕方という感じだ。バスはそれから山を下り港の方へ行く。潜水艦が見えたとわれわれが騒いでいたちょうどその前でわれわれを下してくれた。ここが「アレイからすこじま公園」というよく意味の分からない公園で港に沿った細長い遊歩道がその公園になっている。

 
 
 
 
 

道路を隔てた反対側の建物が海上自衛隊の潜水艦教育訓練隊で、目の前に潜水艦桟橋が見え、こちら側には2隻の潜水艦が黒々と停泊しているのが見える。少し向こうには護衛艦が何隻もあった。こういった軍事基地がすぐ目の前にあるのは珍しい。横須賀でもわれわれの見ることのできる艦艇は湾を挟んだ反対側だ。誰かの話だが、ここへ見学に来た中国人の観光客が「ここで写真を撮っても大丈夫なのか?」と何回も念を押していたという。そうだろう、われわれだってかなり開けっぴろげだと感じるのだ。中国でこんな写真を撮ったら日本に帰れないかもしれない。

この辺一帯はもちろん旧帝国海軍の軍港で、今は海上自衛隊の基地でもある。しかしかなり当時とは違って、旧呉海軍工廠はほとんどが民間の工場になっている。公園の案内図によると旧呉海軍工廠砲熕部はバブコック日立(株)と(株)淀川製作所の工場だ。砲熕(ほうこう)というのは難しい漢字だが火砲あるいは大砲のことを言う。まあ大砲工場だが大和の46サンチ主砲もここで作られたのだろうか、今でも技術が伝承されているといいなと思う。

一方、旧海軍工廠製鋼部が今は日新製鋼(株)呉製鉄所になっている。前に見た溶鉱炉もここの所属らしく、戦前は艦艇用の特殊鋼板やアーマーがここから供給されていたらしい。こうやって眺めると何だかひどく厳めしい感じだが戦前だったらこんな?気に眺めるような雰囲気ではなかったろう。そういう意味で平和ではある。

午後5時過ぎごろ、船キチじいさん連も満足したと思ったのだろう。おぎのさんはみんなを集めてバスに詰め込み呉阪急ホテルに連れてゆく。今夜は最後の夜でさよならパーティがある。ホテルからオーバーパスを通って宴会場へ行ったのだが、どうも体調が今一ついくらか熱も出ていたらしく普段の気力がない。うすぼんやりと今でも思い出すだけで、メモ帳には何一つ記載されていない。それでも明日は旧海軍兵学校の見学だ。

 
 

14.海上自衛隊幹部候補生学校―旧海軍兵学校

旅行最後の日になってあいにくの雨になった。土砂降りではないがそれでも結構降っている。まあこれまで晴天に恵まれたから、1日ぐらいはやむを得ない。それでも兵学校の見学の時なのにな、とちょっと悲しい。海軍、海軍というと誤解を生じるが、ぼくは何も軍隊賛美をしているわけではない。戦争にこりごりしているのは、敗戦後の飢餓状態を思い起こすだけでも十分だ。

よく息子たちに言ったのだが腹が減ったと飢餓とは違う。いくらひもじくても明日に食べられるのならそれは飢餓ではない。腹が減ってたまらいのに次にいつ食べられるか見当もつかない状態を飢餓というのだ。これは精神的にひどく堪える。まして食べ盛りの若い時だ。

まあそれはともかく、軍国教育を小さい時から受けて、それ以外のことを考えられなかったときに、ぼくは海軍士官にあこがれた。誰もかれも予科練という名の少年航空兵に志願したころ、中学校にやってきた海軍兵学校の1号生徒だった先輩はこういった。

「戦争に兵士は重要である。しかし、それを指揮する士官がいなければ戦争は成り立たない。諸君はしっかり勉強して、兵学校に来い。」

きりっとした短いジャケットに短剣を吊るしたその先輩はぼくの所属した剣道部の出身でもあったから、ぼくはいっぺんに参ってしまった。友達が誘ってくれた 陸軍幼年学校をけって何が何でも海軍兵学校を受けると決心したのだ。当時の朝日新聞だったかに連載された獅子文六が本名の岩田豊雄の名で書いた小説「海 軍」を熱心に読みもした。兵学校には学力が足らなかったと思い知らされるのはその後のことだが、そんな次第で海軍兵学校には郷愁に似た特別な思い入れがあるのだが・・・。

 
 
 


「近いですが、雨なのでタクシーで行きましょう。」
ということでそれぞれタクシーに分乗して呉港のフェリー乗り場に向かう。瀬戸内海はフェリーが発達していて切符売り場には各地に行く便がいろいろ表示され ている。われわれは江田島の小用行に乗るのだ。9時25分にフェリーは呉を出発して江田島に向かう。船に乗るとみんななんとなくニコニコするのは変わりな いが、そこに1人海上自衛隊の水兵さんが乗っていた。それを見逃す手はない。

水兵さんと言っては悪いが、記章を見ると海上自衛官一等海士だ。可哀そうにまだ初々しい青年が坪井さん、藤本さん、市川さんらに囲まれて何やら一生懸命に 答えている。なんでも所用で呉に出かけた帰りらしい。船キチじいさん連に囲まれていい迷惑だったかもしれないが久しぶりに水兵服姿を間近に見ることができ た。夫人連も雨のために甲板に出られずキャビンでにぎやかに話をしている。やがて小用港に着きバスで途中まで行って後は歩いて学校へ行く。随分とバスが混 んだがこんな時間に何の用があるのだろう。


 
 
 
 


 

大講堂を出ると右に幹部候補生学校庁舎が見える。赤レンガで英国製のレンガを輸入して建てられたといわれているのだが、実際には国産品もかなりあるらしい。この建物の横に回ると長い廊下が見えて、テレビで放映された「坂の上の雲」の中で長い廊下を生徒が駆け抜けるシーンを撮影したのがここだそうだ。中には入れないが外からその廊下を覗く。かなり長い。大和の長さとどうだとか説明を受けたが、それは忘れてしまった。

そこを過ぎると「教育参考館」がある。白亜のこの建物は東郷元帥の遺髪があるので有名だが、旧海軍からの伝統的な資料を備えている。戦後は進駐軍に接収されないためにかなり移設したらしいが、接収解除後に多くを復元したらしい。

この館内は撮影禁止で写真はないが、じっくり見て回るだけの価値はある。松永さんはご親類に兵学校卒業の方はいらっしゃいませんか、という。もしいらしたらあそこに、と壁面をさして全員の名前が書いてありますという。勉強しなかったばっかりにぼくの名はないが、良かったか悪かったか。それにしても海上自衛隊は海軍の伝統が脈々と残っているんだなあと感心する。こういうことは現地で見たり聞いたりしないと実際にわからない。教育参考館の内部については、いろいろ書きたいこともあるが、実を言うとあんまりはっきり思い出せない。いくらかもうろうとしていたせいもあり、またメモが全くないせいもあ。

1時間半の見学が終わってまた江田島クラブに戻る。終わりに松永三曹はここでおそらくみなさんカレーライスを召し上がるのでしょうがと言って、海軍とカレーの縁をちょっと話してくれた。しかしわれわれの昼食は普通の弁当形式で残念ながらカレーではなかった。

 

帰るまでの時間、このクラブの売店でみんなそれぞれ買い物をしたが、ぼくが買った「兵学校カレー」が家に帰ってから食べたら意外においしかった。レトルトに紙を張っただけのそっけない包装だがもっと買えばよかったね、と今でも思っている。

幹部候補生学校から小用の港まではちょっと距離がある。まだ降り止まない雨にタクシーに分乗して帰ることになった。もう用は終わったはずなのに門の前でタクシーに乗るまで松永三曹は世話をしてくれた。扉を閉めて出発する際に会釈したら彼女はほれぼれするような海軍式の敬礼で見送ってくれたのだ。

海軍は艦内が狭いから陸軍のような肘を張った敬礼ができない。まず直立の姿勢をとり、右腕をまっすぐ前に直角まで上げる。手のひらは当然左を向いている。そこから水平に45度の角度まで右に腕を回す。さらにここから下向きに45度の角度になるまで下す。そして肘を曲げると丁度指先が右目のわきに届く。これが肘を張らない海軍式の敬礼で、きちんと行うと誠に格好がいい。松永三曹の敬礼はいかにも海上自衛官の見送りだった。

15.フェリーと市電

タクシーで小用の港へ着くと広島へはたくさんの便がある。われわれは13:33の船で行くのだ。広島行きはすべて高速船でフェリーはない。呉行きにはかなりフェリーがあるから、車で行く用が多いのかもしれない。雨はまだ降り止まない。今日は一日だめだなとみんな言いながら高速艇に乗り込み、22分の船旅を楽しむ。

途中で小用に向かう高速艇に出会うが、こっちもあんな姿なんだろうとあちこちで写真を撮っている。船内は意外に広く、他にあんまり乗客がいないせいもあってみんなでゆっくりおしゃべりができる。もっともぼくはとてもそんな?気な感じではなくて、どうもいかんなあという気の方が先に立つ。

やがて広島に着くが、広島といってもここは宇品港だ。広島市の外港といってもいいが、明治27~28年の日露戦争のころ、広島に大本営が置かれ兵士たちはここ宇品港から輸送船で朝鮮や中国に出て行ったのだ。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」にもこの宇品港が出てきたりしてぼくの印象に強い港だから、それなりに興味を持って見るのだが、埠頭に降り立って見ると当然ながらさして普通の港と変わりはない。ぼーっとした頭の中で、明治時代の骸骨様式の軍服を着た兵士たちがざわざわと動き回るという幻想が左右するだけだ。


 
 

宇品からは市電に乗って広島駅に行く。おぎのさんだったか、市電は2系統あって間違えるとぐるりと回らなければならないから注意してくださいという。見ると何両かが連結しているスマートな電車はそのぐるり系統らしい。まっすぐ駅へ行くのはちょっと古いタイプの市電だ。

14時7分われわれを乗せた電車が宇品駅を出発。この電車も貸し切り状態でいろいろ話が飛び交う。予定をすべて無事にこなしたからなんとな
くみんな満足しているのだろうと思う。

やがて市内を通って電車は広島駅に着く。この旅は現地集合、現地解散だから駅でみんなとはお別れだ。それぞれに挨拶を交わし、いい旅だったねと思いを残して帰路に就く。

ぼくはもう限界だった。本来ならせっかく広島まで来たのだ。ちょっと時間的な余裕もあるから広電で宮島口まで足を延ばし、明治34年創業の「うえの」のア ナゴ弁当を買って新幹線でかみさんと一緒ににんまりしながら食べるつもりだった。それが広電どころか待合所の椅子にへたり込んで、それでもアナゴ弁当だけ は執念もあって駅の売店で買ってもらったのだが、帰ってからふたを開けたら何とも貧弱な「うえの」の弁当とは似ても似つかぬもので大いにがっかりした。今 回の旅行でぼくが唯一残念に思うのがこれだ。自分で招いた風邪とはいえ残念無念、あのアナゴ弁当は今でも食べてみたい。

 
 
 
 

おわりに

われわれは、いやぼくは日本のことを本当に知らないな、と思う。

瀬戸内海はぼくの父親が生まれ育った土地で、出身地の岡山には子供のころ何回も行っているし、長じてからもいろいろ仕事上の関係もあって普通の土地よりもなじみが深い。岡山県は教育にも熱心だし、食べ物も豊富でうまい。果物だってそうだ。友人もいる。というわけで四国を含めて「瀬戸内」はぼくにとって決して異郷ではない。

それだけに、今回の旅で瀬戸内海の「水運」という一面を見せつけられて愕然としたのだ。例えば、北前船は富山へ行ったときにその外港で詳しい展示を見に行っている。東京では江戸時代から昭和初期にかけていろいろな船が物資を運んできたことも常識といっていい。またぼくがボランティアをしている横浜のみなと博物館では和船の模型も解説もある。また書物からもいろいろ教えらえているのだ。それぞれにフン、フンと言って理解しているつもりでいた。 

そういった断片的な知識が、今回の旅行で全部つながったといってもいい。何をいまさら、と言われそうで躊躇する部分もあるのだが、北海道から北陸を通り、瀬戸内海を過ぎて大阪に至り、更に太平洋沿岸に沿って銚子から江戸へ、あるいは江戸湾に直接多くの荷物が流通していた全国的な和船によるそういった流通が、いかに大きなものであったかを今回改めて認識したのだ。大小を数えれば数千隻を超えようという和船が日本の周囲の海域を回って物資流通の血液のようになっていたという発想はこれまでしたことがなかった。北前船といっても数隻が北海道から北陸へ昆布を運ぶ、という程度にしか頭が回っていなかったといっていい。でも物資の流通量を考えると陸路の整備状況と貧弱な車両で賄えるはずはない。当時の江戸は百万都市といわれている。それだけの物流は海路に頼らざるを得なかったのは考えてみると当然といっていいのだ。

さらに言うと、古くは遣唐使の船、少し下って朝鮮への侵攻、更には朝鮮通信使の接待等々といった多くの歴史的事実に瀬戸内の造船技術と航行経験が大変な貢献していたとは今まで全く気が付いていなかった。村上水軍といい、源平合戦といい、朝鮮侵攻といってもそれらはいわば派手な結果を見ているに過ぎない。大阪市で造った「浪花丸」の建造記録をビデオで見ると、大型の菱垣廻船1艘を造るのに大変な苦労をしている。まあ復元だからという苦労もあるが、機械装置のなかった時代に安宅船や関船を作る技術を瀬戸内海が持っていた。それも大量生産技術である。それでなければ軍船を連ねて朝鮮に向かうことなどできはしないのだ。

86歳にもなってやっとそんなことに気が付くなんて他人様の前では言えないなと思いながら書いているのだから、これもどうかと思うが本当のことだから仕方ない。物事は表面だけを見てはいけない。当たり前のことを教えられたのが今回の旅行の最大の収穫だった。

そこで、改めて思うのだが、こういった教育的?といっていい国内旅行を企画し、準備しそして世話を焼いた幹事さんは大変だっただろうなと思うし、心から感謝したい。

単に瀬戸内海を見ようよ、というだけではなくて、フル回転の旅程は年寄りの集団(じいさん、じいさんというな、おれはまだ若いという声が聞こえそうだが) にとってかなり疲れはしたが、よくもまあこんな盛り沢山な計画を立てたとびっくりする。それぞれの見学場所のいくつかはそれだけで1日かけてもおかしくないほどの内容があった。皮肉に聞こえては困るのだが、幹事さんと役員の皆さんは計画にあたってそこまで考慮して場所を選んだんだろうと、その企画に脱帽せざるを得ない。

それと案内ボランティアの皆さんの熱心だったこと、よほど勉強しているんだろうが、われわれの質問にも躊躇なく答えてくれたし、なによりわが町を、この博物館を、誇りに思っているという気持ちが伝わってきたのだ。機会があるならばもう一度現地を訪ねて今度はじっくり話を聞き、いろいろ質問もしたいな、と思っている。

そして最後に、文中でも触れたが、資料を整理し、島と橋の集大成を提供し、われわれがどこにいるかの地図まで用意してくださった松原さん、それと市川さん、田中嘉明さんに改めて感謝の意をささげる。

                  2016年2月21日 福田正彦

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