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潜‌伏‌キ‌リ‌シ‌タ‌ン‌の‌い‌た‌島‌ ‌ —‌五‌島‌列‌島‌を‌旅‌し‌て‌-1



はじめに

新型コロナという名のウイルスがわれわれにこれまでにない経験を強いているこの年の中で、少し落ち着いたかと思われる11月の初めに五島列島に行った。それまでの閉塞感にいくらかのうっ憤を晴らすという気味もあった。 もともと五島列島は行きたい地域の筆頭だったのだがなかなか機会がなかった。新聞でふと見たこのプランに後押しされたといっていい。

一個人の立場で見るとわが日本は広い。同一の国といっても風俗習慣はもとより言語も食べ物も違う。五島列島が玄界灘に臨む隠れキリシタンが住んでいたきれいな島という概念は、行ってみるとそんな単純なものではないことを思い知らされる。以前、しまなみ海道を旅した時に、往時の弁財船による物資流通がわれわれの想像を遥かに超える隆盛を誇っていたことを思い知らされたように、やっぱり聞くと見るとは大違いなのだ。もちろん短い旅で大きなことは言えないと分かってはいるが、それでも見て、聞いたことは書物で知るのとは大違いだったと帰ってみてしみじみ感じる。

ともかくどこへ行ったかをまず下の地図で見てみよう。この列島は文字通り5つの大きな島からなっているのだが、図の紫色の部分を下五島、ブルーの部分を上五島というらしい。全体が長崎県だが、北端の宇久島は佐世保市に入っている。われわれは福江島を見学して一泊し、久賀島の教会を見て中通島で一泊した。翌日は見学の後に長崎港に入って長崎空港から深夜羽田空港に戻るという2泊3日の短い旅だった。

離島に船は付き物だ。だから水上タクシーという名の高速船や高速連絡船という交通手段はぼくにとって好奇の対象でもあった。またボンバルディアDHC-8-200というターボプロップ機にも乗れた。そのうえ鄙にも稀なといっていい思いもよらぬ食事にも出会えるという経験もした。

やっぱり旅はいい。



福江島のつばき空港
―羽田から五島列島へ―



2020年11月2日、わが家の近くのホテルからリムジンバスでかみさんと2人で羽田の空港に向かう。なにしろ旅は久しぶりだ。去年の9月にベトナムはハノイへ行って以来だからやっぱり心が躍る。いい年をして、とまあ思うのだが本当だから仕方ない。

羽田から長崎空港へ向かう飛行機はボーイング737-800だった。B-737にしては胴長だが長距離機に比べるとやっぱり細くて、搭乗ゲートから見るいかにも小さいという感じがする。この飛行機のエコノミークラスの座席は中央通路を挟んで左右3席ずつ、ぼくたちの座席番号は24A、Bだった。上の写真でいうと中央後部非常用出口の次の窓ということになる。翼の真上であんまり外は見えない。JAL-611便はこんな時期なのに満席で、少しトラブルがあったらしく離陸したのは14時25分だった。おまけに天気は曇りで時々雨模様でもあった。そのために飛び立って雲を抜けるまでに相当の時間がかかった。

ぼくはこの飛行機に大変興味がある。外から見たことはないのだが、離陸後に車輪を格納しても下面のカバーがない。つまり格納した車輪はむき出しの状態なのだ。温度を下げるのにいいのだというが、やっぱり抵抗はあるだろう。この機種以外のその方式を採っているものはないという。もう1つは逆噴射の方式だ。一般のジェットエンジンの逆噴射方式がどうなのかは知らないが、このB-737のエンジンは着陸してから両手でエンジンの後ろを塞ぐように機械的に2つの部品が回転してガチャンとエンジン後部を塞ぐ。そして一杯にエンジンを吹かすからこれが逆噴射になるのだ。以前に後部座席で実際に着陸の時にそれを見たことがある。いやー凄い、と手を叩いたからよく覚えている。

2時間ほどの飛行の後に高度を下げ始めたのだが一向に雲から出ない。とうに着陸態勢に入りましたとアナウンスがあったのだが、雲底が低くてやっと外が見えたときにはもうかなり地面に近いという感じ。この長崎空港は大村湾の東部に突き出した海上にあるから窓から近くの島々が見える。

16時26分に着陸して、旅行会社の添乗員さんと会う。乗り換えの小型機の出発まで時間がないから急いでほしいといわれてぞろぞろと空港建物の端から外にでる。そこで待っていたのがOCR-71便のボンバルディアDHC-8-200だった。のこのこと空港内を歩いて乗り込むのだが、階段は搭乗口の扉に内蔵されている。37人乗りという高翼単葉でターボプロップ式エンジン2基という嬉しくなるような飛行機だ。

窓から見るとエンジンのプロペラは可変ピッチ式で、おそらく着陸時にはピッチを変えて逆流を作るのだろう。車輪も簡素な方式で離陸するとあっという間に格納された。ターボプロップとはいうものの、プロペラ機の音はやっぱり純粋のジェット機と違う。なんとなく柔らかい。B-29だ、P-51だと小学生のころ爆音の録音を聞かされてその機種を当てるという戦時訓練があったから、今でもプロペラ機の音に旧懐を覚えるのかもしれない。


17時12分に離陸した飛行機は17時36分には福江島空港に着陸した。正式には「五島つばき空港」という。25分ほどの飛行だったが以外にこの機は速い。20名ほどの旅行仲間はバスに乗り込んでホテルに向かった。もうあたりはすっかり暮れて都市と違うのはほとんど灯火が見えないことだ。ホテルにチェックインをすると、添乗員さんが食事は別のところで摂りますので18時に集合して下さいという。いわれるままにバスに再び乗り込んで街に出たのだが、バスはまっすぐに山に向かって走る。あたりは真っ暗でこんな大勢の食事ができるところがどこにあるのか心配になる。

やがて暗い道にバスが止まってここからちょっと上ると椿茶屋という大きな店があった。ほほう、と感心して入るとセルフ串焼き方式のテーブルがたくさん並んでいる。まあその「お品書き」を見てほしい。

・季節の小鉢
・お造里二種盛り(カツオ、ヒラマサ)
・地魚海塩水焼き(アジ)
・五島牛海水塩焼き
・五島産野菜盛り
・緋扇貝
・五島鮮魚あおり烏賊
・五島うどん
・五島産米
・香の物
・五島名産かんころ餅
・自家製にがりアイス

いやはや、こんなに食べられないよと思ったのだが、それが美味い。何せ周囲が海だから魚の新鮮さは言うまでもなく、たっぷりの牛肉も柔らかくて見事という品だった。さすがにうどんは敬遠し、五島産米と書いてある大ぶりのおにぎりは1個をかみさんと半分わけということになったのだが、この夕食大満足だった。なお「緋扇貝」というのは「ひおうぎがい」と読み、ホタテ貝よりもちょっと大柄で味の濃い貝だ。五島産と書いていないから他県のものかもしれない。愛媛県あたりの生産が多いそうだ。ぼくはあまり酒を飲まないのだが、この時は1合の熱燗を頼んだ。こういった食事にはまことに合う。550円にしては美味しい酒だった。

メニューで注目したのは、五島の、五島産という文字が並んでいることだ。福江島は島という概念から漁業だけの産業と思いがちだが、そうではないことがこの後の島めぐりの説明で徐々に分かってくる。われわれが思うよりもずっと多彩な顔を持っているのだ。その意味でいうとこの夕食でいきなりこの島の産業の成果を見せられたといっていいだろう。


国境の島と潜伏キリシタン
―福江島の観光—


翌11月3日朝、窓を見ると折からの朝日に照らされた港が見える。連絡船も入ってくる。この小さな入り江には漁船がかなりの数、係留されていてこの島の一大産業であることを見せている。造船業は衰退といわれているが、漁船とか水上タクシー、高速連絡船など小型の船は全国に無数にあり、修理でも造船でもこの分野では賑わっているのではないかとふと思う。

何しろコロナ対策のために食堂で一斉に朝食というわけにはいかない。6時半と7時半の2回に分けて洋食、和食を選んでトレイでテーブルまで運んでもらうという方式だ。食堂に添乗員さんか来て8時半にはチェックアウトしてくださいという。これからの観光で買い物をするのにクーポン券を無駄なく使ってほしいとの要望で、期限が3日間だからだという。

この旅行はいわゆるGo To トラベルを利用している。政府がなにがしかの補助金を出し、地元では買い物用にクーポン券を出してくれるのだ。われわれは昨夜そのクーポン券を受け取っている。1人当たり1万2千円だから馬鹿にできない金額になる。いずれも結局は税金だからなあと複雑な気持ちにもなるのだが、経済振興のためにと勝手に理屈をつけてその恩恵にあずかることにする。

「ゴトウツバキホテル」を出たバスはすぐに国道384号線から地方道の27号線に入り中央の山間部を進む。今日の案内はご当地生まれの現地ガイドさんで、申し訳ない名前を忘れたのだが、60年代ぐらいの穏やかな女性だった。街中を外れる前、かなり広い場所に太陽電池が設置されているのが見えた。また風車も多くある。幸いぼくたちの席は一番前だったから、ガイドさんにこの島は自然エネルギーで賄われているのかと聞く。

「いや、そうではないのです。九州電力から海中ケーブルで主要な電気を得ています。昔は火力発電所があったのですが今はなく、あの原発の事故があってから自立するために再生エネルギーを多く使おうと頑張っているのです」という趣旨の話だった。どうやら30%ぐらいは自然エネルギーで賄っているらしい。

私が子供のころは大変生活が不便で道路も整備されていなかったからあちらこちらに小学校があったのだという。それが便利になったので学校はいくつかに統合されて数も減ったが、おそらく車での送り迎えができるようになったからだろう。昔の小学校の跡という建物もいくつか見える。民家は点在していて現在でもあちこちに墓が見えると車窓から説明がある。十字架だから明治中期以降の墓だろう。ガイドさんの話から推察すると道路や多くの施設が整備されたのはどうもここ数十年のことらしい。例えば仮に40年前とすると昭和55年だが、大平内閣の時代でこの年には大平首相が急逝している。

TOTOがウオシュレットを発売したのもこの年だし、山口百恵が結婚したのも話題なった。戦時中はおそらく戦災はなかったと思うが、昔ながらの不便さがこのころから少しずつ改良されていったのだろう。

やがて島の中央部に入るとあちらこちらにもう刈り取られた水田が広がる。新潟や庄内平野のような広大な水田ではないが、島のものとしてはかなり広くて島内の需要を賄うには十分だという。それにしてもこういった水田を養う水をどこから得ているのだろうと思ったら、一番高い山に滝があるのだという。「高さ何メートルの滝だかわかりますか?」10メートル、5メートルと答えが出たが「一番近いのが5メートルです。」との答え。本当は1メートルだそうだ。

1メートルにしたって滝があるということはかなりの水量があるということで、これが水田を養っているのだ。「私が子供のころ、よく滝に遊びに行きました。1メートルとはいってもこの島の誇りなんです。」そうだろう。この水源でできた五島米もやっぱり福江島民の自慢に違いない。ちょうど新米の季節でもあり、地産地消の五島米で作ったおにぎりが不味いわけはないのだ。

五島の名産「かんころ餅」もおそらく五島米のもち米が使われているのだろう。サツマイモを半茹でにして混ぜ込んだ餅だからこの名がある。「かんころ」とはサツマイモを薄く切って天日干ししたものをいうのだと案内書に書いてあるがまあ干し芋で、干芋党のぼくはこれを食べたかったのだが「かんころ」そのものを売っている店はなかった。

バスはこのあと地方道の164号線に入り、やがて島の西部で国道384号線に出会う。中須というところだが国道を少し南に下がるとすぐ海岸になり、湖のような静かな水面が広がる。本島とその西側の対面にある鳥山島の間は狭い海峡になっていて、その奥から更に北東に伸びた水溜まりになっているのがここだ。「ここは国際避難港に指定されています。」とガイドさんがいう。確かに地形からいうとどんなに海が荒れてもここなら静かだろう。

嵐の時、韓国だろうと中国だろうと漁船などが何の手続きもなしにこの海面に避難することができるのだそうだ。そういわれてぼくはハタと思いだした。そうだ、ここ五島列島は海面を隔てているとはいえ、国境に面しているのだ。「ただし、船の滞在は許されていますが乗組員の上陸はできません。手続きなしに上陸すれば不法入国になるからです。外国船がここに入ると係官が来て、監視をします」というが係官もご苦労様なことだ。

「1回だけその不法入国があったんです」と笑いながらガイドさんがいう。「無断上陸してのこのこ帰ってきたんですが、彼のいうにはタバコが切れたから買いに行ったということだそうです」その不法入国者にどんな措置を取られたかまではわからないが、国境監視には違いない。この平和な島もそういう話を聞くとしみじみ国境にあるんだと思わされる。

やがてバスがこの島の西南端に入るとそこに井持浦教会がある。昔は道路がなくて船でこの教会に来たというのだが、こういう不便なところにしか教会がないのはやっぱり往時の歴史があるからだろうと推察できるが今は立派なレンガ造りの教会になっている。もちろんここは祈りの場だからわれわれ観客は内部には入れない。しかし裏に回るとルルドの泉がある。もちろん本物のルルドの泉は南フランスのピレネー山脈の麓にあるのだが、何だか認定制度があるらしく、神父さんの斡旋でここが認定されているという。堂々とルルドといえるわけだ。飲用水はぼくの専門分野ではあるのだが、科学的論理と信仰とは住む場所が違うから何もいうことはない。

この教会からすぐ急坂を登ると大瀬崎断崖に出る。「どうせなら、上に登ってみましょうよ」とガイドさんにいわれて、小道を少し上がると(ちと息が切れたが)断崖のてっぺんに出る。そこからはるか眼下に大瀬崎灯台があるのだ。今はGPSがあるので本来の役目は終わっているようだが、本土を離れる最後の灯台として船乗りたちに親しまれたらしい。この頂上からはるかに海上を見渡すと逆光に海面が光り、雲間から陽が差してとてもきれいだ。この辺りは西海国立公園になっていて、ここは「大瀬崎園地」というらしく、立派な標識が立っている。

10時15分にこの公園に別れを告げてバスは国道を北上し高浜海水浴場に向かうのだが、途中で海中に大きな丸いものが見える。これがいわゆる近大マグロの養殖網だという。段々と漁業も捕獲操業から養殖に移ってきていることは知っていたがこの五島で大規模な養殖事業をしているとは驚きだった。大型魚の養殖は餌が難しいと聞いているのだが、このマグロは美味しいんですというガイドさんの話を聞くとそのあたりのコントロールが随分と進歩しているんだろうなと思う。

やがて着いた高浜海水浴場は単なる白浜の広がる場所、といってしまえばそれまでだがここは国立公園の特別地区に指定されていて、周囲にほとんど人の手が入っていないという。砂浜は広くてきれいだが外海の波はかなり荒くて海岸には白波が押し寄せている。普段の夏場には人でかなり賑わうというのだが、11月のコロナ禍ではまことに閑散として人の姿は見えない。

11時半には島の南西部に達した。三井楽という土地だ。五島列島酒造と書かれた建物は焼酎の製造工場でわれわれはその付属の土産物店でこの土地でしか手に入らないというお土産を買う。ここでクーポン券が威力を発揮したのはいうまでもない。焼酎工場の前庭には多くの籠が置かれて何人かが何やら作業をしている。近づいて見ると芋焼酎の原料となるサツマイモの前処理をしているのだ。包丁で芋の悪いところを削っている。聞くと「これを取らないと渋いからな」という返事だった。5,6人の中でマスクをしているのはたった1人で、ここはコロナも敬遠しているのかもしれない。

道路の向かい側には「遣唐使ふるさと館」があって、ここで昼食。そういえば、バスで添乗員さんが言っていたっけ。案内書にはここで各自が昼食をとることになっているのだが「でも、近所に食堂もなくて結局ここで食べることになるのだから、豚しゃぶしゃぶの昼食をプランんに付けましょうよ」と本社に交渉してくれたらしい。われわれの盛大な拍手と一緒に無事豚しゃぶにありつけることになった。


昼食を終えバスに乗り込んで福江港までの30分間、ガイドさんはいろいろな話をしてくれた。印象に残ったのは「隠れキリシタンと潜伏キリシタンとは違います。」と明確に話をしてくれたことだ。ごく簡単にいえば、弾圧の激しかった時代、表面に立たずにカソリックの教えを密かに守り通したのが隠れキリシタンで、明治期に入ってキリスト教が解禁されるとそのままクリスチャンとして表面に出られたという。おそらく少人数の部落で島のあちこちに散らばっていたのだろう。

一方、長い歴史の中でキリスト教徒でありながら、仏教との折り合いを付けながら生活をした人々がいた。例えば葬式の時に、お坊さんを呼んで経をあげてもらう。その後の精進の会食もする。しかし隣室では読経を聞きながらそれを無効にするキリスト教の祈りを捧げたというのだ。そして仏式のすべての行事が終わってから、改めてキリスト教のお別れの式典が行われたらしい。徳川三百年という歴史の中でこういった、いわば仏教とキリスト教とのある種の融和が行われたために、明治期にキリスト教の解禁が行われても、そのまま純粋なクリスチャンとして表面に出ることができなかった。これが潜伏キリシタンで、「現在では潜伏キリシタンはいません」とガイドさんははっきり言う。

ぼくは宗教史に関しては全くの素人だが、世の中の仕組みとして考えることはできる。例えば織田信長は教義としてのキリスト教に反対したのではないだろう。宣教師を優遇し、洋風の服装を好んだ時期があったというのがそれを証明している。しかし、為政者として考えると自分の治世に反対する勢力が台頭するのは許せない。キリスト教であろうと一向一揆であろうと集団としてわが政治に反対すれば弾圧をするのだ。まして当時の宣教師が単に新しい知識の提供者ばかりでなく、ヨーロッパの、バチカンを筆頭とするまあ政治団体の情報収集者であったと知れば、危険の芽を摘むのは当然と考えただろう。

豊臣秀吉時代のいくらか緩かった禁制は、続く徳川時代でかなりきついキリスト教の禁制が幕府(中央政府)の方針になったから、地方政府つまり福江(五島)藩としても当然それに従わなければならない。明らかにキリスト教の信者と分かった者たちを処刑しなければ福江藩が幕府に潰される恐れがある。一方でこれらの人々は領民であり、また生産者でもあるのだ。キリスト教の信者であろうと、いやいや踏み絵を踏もうと、表面上仏教徒として目立たなければわざわざそれを掘り起こすこともない。

潜伏キリシタンの生活で仏教とある種の融合が行われたというが、三百年の付き合いで潜伏キリシタンが近所にそれと知られないはずはないのだ。また僧侶は読経をあげながらでも、隣室で反対の祈りをしていることも当然察していただろう。あそことあそこの家がそうだと部落のみんなが知っていたに違いない。福江藩が苛斂誅求な処置をしながらも一方でこういった状態が曲りなりにも成立したのは言わば生活の知恵だろうし、日本人が多神教的な寛容さを持っていたからではあるまいか。

それだけに、潜伏キリシタンが禁制を解かれたときどんなに戸惑ったことか。極端に言えば、表面は仏教徒、本当はキリシタンという生活が何十年、何百年と身についているのだ。キリシタン禁制という重しがそれを強いていたからこそ、その生活が成り立ったといえる。それが突然そんな必要なないよといわれたのだ。明日から、はいはい、私はキリシタンですといえるだろうか。おそらく戸惑いながら一世代あるいは二世代を経て自らの生き方をはっきりさせたに違いない。だから現在潜伏キリシタンが存在しないのは当然なのだ。一個人に光を当ててそういった葛藤をテーマにしたら、立派な小説が成り立つだろうと密かに思ったのだが、残念ながらぼくにその才能はない。

ガイドさんは、わたしは仏教徒だといい、この集落のうち仏教徒が何軒、キリスト教徒が何軒と今でもはっきり言う。都会に住むわれわれは、葬式はお寺で行い、神社にもお参りし、キリスト教の教会で結婚式も挙げるという誠に融通無碍、悪く言えば宗教音痴な生活を送っている。宗教紛争が起った場合、五島列島がこういった生活の知恵で乗り切ったという歴史はやはり現地に来て、この島で生まれ、この島を離れたことはないという人に会わなければ知ることはできない。

この現地ガイドさんは大変謙虚な方で、勉強はしているが素人の私のこんな説明でいいのだろうかとしきりに言う。そうではないのだ。長年この島で暮らし本当のことが分かっていて、ときどき島言葉の交じる説明がどんなに貴重なものか、ぼくはいや他の人にもよく分かっていると思う。もちろんこんな短い話で全貌を知ることのできないのは当然で、隠れキリシタンと潜伏キリシタンとの間のグレーゾーンがなかったのか、隠れキリシタンはどうやって生活を保っていたのか、周辺の援助がどうやって届いたのか(それでなければ断絶していただろうから)などなど聞きたいことは一杯ある。機会があれば敬意をもってもう一回質問してみたい。もしできればだが、その次回があるかどうか。

と書いていたら、2020年11月28日付の朝日新聞の夕刊に「潜伏キリシタン(長崎県)」という記事が載った。佐世保市の生月島の話だ。凄惨な処刑が行われた場所だというのだが、この記事の中で潜伏キリシタンとして長く生活してきた人々が「…解禁後も檀家のままキリシタン信仰を続けた人のほとんどが、時代と共に真の『仏教徒』に移行したという…」とあった。この場合おそらく禁制時に寺そのものが宗教を超えて「檀家」の形で異教徒と知りながら慈悲の心で潜伏キリシタンを守っていたに違いないのだ。こういった様々な事実を見ると、まことに人の生きざまは端からは計り知れない。


水上タクシー
—福江島から中通島へ―


昼食を終えてバスは一路福江港を目指すのだが、途中に水之浦教会の白亜の威容が見える。高い塔があっていかにも協会という感じがするが、これはバスの中から見ただけだ。実はこの島の滝の話はこの道程に話されたのだが、みんなを飽きさせないようにガイドさんは気を使ってくれる。

更に街中に入ると福江藩の石田城が見える。天守閣はもともとなかったようだが、この城はいわゆる海城(うみじろ)で、昔は内堀も外堀も海水を引いていたという。四国の高松城が海城として有名だが、ここ石田城もそうだとは知らなかった。城内には今学校が建っているのだが、福江藩も立派な城を持っていたのだ。

午後1時半に福江港に到着し、ここで現地ガイドさんと分かれる。とても参考になりました、有難うございましたと感謝して水上タクシーに移った。この水上タクシーは50人ほどを乗せる小さな高速船で、船首に異様なほどたくさんの防舷物を付けてつけていて、その理由が分からない。今日は天気がいいので陽射しは燦燦としているが風は強い。

午後2時、水上タクシーは福江港を出発した。船尾にちょっとしたオープンデッキがあってぼくはカメラを持ってそこに移動する。港の突堤を過ぎるとすぐ船はスピードを出してたちまち白波が立ち上がる。船尾とはいってもそれほどのスピードも出ないうちから砕けた波頭から水滴が回り込んできてとてもいられるものではなく、ほうほうの態でキャビンに戻る。

冒頭の地図を見て頂きたい。福江島から久賀島へ行く途中はほとんど外海を通る。一面に三角波が立ちその波頭が白く砕けているという有様で、キャビンの中から見ると船窓に波が滝のように流れ落ちる。ここは玄界灘といっていいのだろうか、スピードを上げると小型艇独特のピッチの短いローリングと荒れた波にぶつかるドンドンという音がするが不愉快な揺れではなく、ぼくにとっては爽快だ。

あとでクルーに聞いてみたら22ノットは出ているな、ということだった。これは時速にすると39.6キロ、まあ時速40㎞ということだ。車で走るとこの速度はゆっくりの感じだが船は違う。ヨットだったら30フィート級でも10ノット(時速18㎞)も出れば顔が引きつるほど緊張するという。昔の大型帆船でも普通はせいぜい7~8ノット、12ノットも出れば高速船といわれただろう。だから小型商船で22ノットは抜群に早いといっていい。

船の速度を2倍にするにはエンジン出力を3乗にする必要があるという。つまり馬力を8倍にする必要がある。ディーゼルで1本足?と聞いたら、双発2軸だと。音も大きかったがやはり(小型船としては)極めて大型のエンジンを積んでいるのだ。まあ水上タクシーだからトロトロ走るわけにもいかないのだろう。

この後25分ほどで久賀島(ひさかじま)に到着した。そしてここで船首に異様なほどの防舷物のある理由が分かった。旧五輪教会堂のあるこの突堤はとても狭くて、今はともかく観客の多いときは舷側で横付けできない。そのために船首を突堤に当てて緩やかにエンジンをかけて固定し、そこから乗客を降ろすのだ。まあ、渡り板の代わりといっていい。ぼくは知恵だねえ、と感心した。乗客を降ろすと邪魔にならないように後退して水面に停止している。エンジンを切っているのだろう。


午後2時45分に到着した五輪教会堂は突堤から見ると一番奥の新しい建物で、一軒置いた手前に旧五輪協会が建っている。案内板によると「久賀島の集落は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、どのような場所を移住先に選んだかを示す4つの集落のうちの一つである」とあって、「五島藩が積極的に久賀島に開拓民を受け入れていることを知って」そこなら既存の集落と融和できそうだと移住したという。漁業や農業を営んだとあるから、一般の島民として生活出来たのだろう。

五輪協会は祈りの場で現に使われているから当然部外者のわれわれは入ることはできない。教会の案内の人によると旧五輪教会堂は使われていないしまあ史跡のような建物だから入ってもいいし、写真も構わないという。ここは写真の通り外見は木造のちょっと背の高い民家といった風情だが、中に入るとすごい。全て木造だというのだが内部はコシック風で、多くの曲線で構成されている。こういった建築は普通の大工では無理で、曲線部分は船大工に頼ったというのだ。

それはそうだろう。船殻で直線部分はほとんどない。火と水を使って木材を曲げる技術は船大工が十分に持っているからだ。十字架以外に普通の民家のようなこの教会堂の外観と、この天井といい引き戸の窓やそのカーブといい、ステンドグラスといった当時の建築の粋を凝らした内部との差に、なんとなく潜伏キリシタンの思いというか、意図を感じるのはぼくだけだったろうか。

30分ほどの見学の後、水上タクシーは再び水煙を巻き上げて若津島の南端に向かう。この島は上五島で一番大きい中通島の南西部に寄り添うようにある島なのだが、ここに隠れキリシタンが住んでいた跡があるという。風が遮られて少し穏やかな波の中をこの洞窟に近づくと日差しで中は見えないものの、どうやってこんなところに住み付いたのだろうと信じられない思いがするような洞窟がある。今でも船でなければ近付けないし、当時高速船なんぞあるわけがない。食料ひとつ運び上げるのすら大変だっただろう。そこまでして己の信仰を貫き通す原動力は一体何だったのだろう。ここの住人は朝餉の炊煙を発見されて捕らえられたという。少し高いところに、後年その人たちを悼むために建てた十字架とキリスト像が見えるが、陽を受けて真っ白に輝いているのが逆にちょっと哀しい。

ここを離れて島の南端を回り込むと断崖に空洞が見える。これは遠くから見るとマリアが幼いキリストを抱いているシルエットになるというのだが、何事によらず信仰や好奇の目で見るとそういう発見もある。岩手山が仰臥した女性像に見えるというのもそうではないかと、ちょっとばかり不敬なことも考える。


岬を回って北に進路を変えて2つの島の間の狭い水路を進むのだが、振り返ると少し日が傾いてはるかに上五島の島々が見える。ここはもう波も穏やかで海がきれいなのだが、先ほどの話を聞くと、いつの時代どんな人々が、どういう思いでこの海を眺めたのだろうかとつい思ってしまう。
やがて船は中通島と若松島の間の水路を北上し、両島を結ぶ若松大橋の下をくぐって郷の首港に入った。ここは中通島の西岸でちょっと漁港といった感じだ。水上バスとはここでお別れ、有難うご苦労さんでした。


ちょうど午後4時でまたバスに乗り込む。この島は太い十字形をしていて上の腕がヒョロヒョロと長く伸びている。福江島にある国道364号線が水路を経てここにも伸びていてバスはこの国道を走り、中心部の北側新五島町役場の近くに留まる。新五島町青方郷というところだ。
すいません、バスが入れないのでちょっとですから荷物を持ってホテルまで歩いてくださいといわれて、おやおやと思ったのだが皆スーツケースを引いてホテルに向かう。着いてみるとどうして、どうして瀟洒なホテルだ。HOTEL AOKA KAMIGOTOと書かれたここには、ぼくの予期しない驚きが待っていた。



潜伏キリシタンのいた島ー五島列島を旅して(後編)へつづく


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