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スター・フライヤーに身を任せて

―2013年バルト海クルーズの私的報告―



2013年8月5日、コペンハーゲンの見学を終えてスターフライヤーの甲板に上がると喫煙テーブルで栗田さんが一服やっていた。相変わらず止められないんだなあと思いながらもやあやあご無事で、と遅れて参加した仲間をみんなが歓迎する。コーヒー片手に現れた夫人の敦子さんも加わってこれで全員揃った。

2005年、セイルアムス2005では18人の仲間とオランダはアイセル湖で小さな帆船サクセスに乗って帆走し、運河の土手で帆船パレードを見た。また2008年にはタイのプーケットからスタークリッパーに乗り込んでアンダマン海を1週間帆走した。主要空港を民衆に占拠されて4日間旅が延長するというおまけ付きでもあったが、帆船の旅は素晴らしい。そんなこんなの仲間が忘れがたい帆船での旅をもう一度、と1年も前から計画していたのが今回の旅だ。


プロローグ ― 再び素敵な仲間と


齢を経たぼくの感覚では、バルト海というと日露戦争のロシア・バルチック艦隊の出発地という思いが強い。はるか西方の地域だ。そこで第23回ハンザ・セイル・パレードが開催され、13カ国から216隻以上の船が参加するという。オランダではただ土手の上から眺めただけだが、今回は自ら参加してパレードを中から見られるんだぜ、というのがうたい文句でこれが船キチどもの心を捕えた。でもまあ1年というのは長い。みんないろいろな事情を抱えているから、当初25名を超えた希望者が減り、最後は身近の友人で船や旅が好きという仲間も加わって、まことにお気の毒に土壇場で体調を崩した青木さんを除くと総勢16人、これに代理店メリディアン・ジャパンの王子さん夫妻を入れて18人となった。


ザ・ロープの佐藤さんは細かい細工で有名だが、夫人の道子さんはおっとりした性格だが存在感がありとても仲がいい。何かあるとうちの奥さんはどこへいったかな、と佐藤さんが探し回る姿がしょっちゅう見られた。佐藤さんは熊谷市にお住まいだがそのすぐ近くということもあって、岩崎紀子さんと高橋三恵さんが姉妹で参加した。共にかなり個性的でこれからのわがグループのメンバーに入って少しもひけを取らない。

横浜帆船模型同好会の西谷さんはいうまでもないが、夫人のひさこさんは明るくて積極的、船のファッションショーに出演してやんやの喝さいを浴びた。 その西谷さんの友人で無類の旅好きという中嶋さんご夫妻、これまた個性的で中嶋誠さんは膨大な知識をお持ちだがちっとも表に出さない穏やかな人だ。公子さんはどんと来いおかあさんで凡そ物に動じない。その夫婦間のバランスが絶妙でぼくはいつも心の中で手を叩いていた。同じザ・ロープの栗田さんはオランダでもご一緒した仲で典型的な商社マン。能動的で頼りになるが夫人の敦子さんは「せっかちで…多動性…」といって笑う。周囲に気を配るその笑顔は相変わらず魅力的だ。

単身参加の関口さんはぼくと同年配でヨーロッパに詳しく、この時も先行してブレーマーハーフンを見たという。ぼくに負けじとマストにも登る意欲もあるし見かけによらず運動神経もある事を今回のクルーズで証明した。堀岡さんはぼくの酒の師匠で極め付きの個性派。それでもタイの時と比べればいくらか酒量が落ちたかも。霞さんは堀岡さんと共にわいわいクラブの重鎮だがなにかと世話を焼いてくれる。ビデオカメラを振り回しながら何をブツブツ言っているかと思った ら、音声記録をしているのだった。まめな人で、堀岡さんと仲がいいんだか悪いんだか分からないところが興味深い。村石さんは彫刻の名人で造船にも一家言ある面白い人だ。ホーンブロワーの「決選!バルト海」をあらかじめ読んできたのは村石さんだけで、さすが、というのが大方の評価だ。ぼくはかみさん連れで参加したが、スタークリッパーも知るかみさんは、いざとなると積極的で今回も西谷ひさこさんに誘われて船のファッションショーに出演、マスト登りも平気だ。こういう面もある。

12日間の、ぼくにしてみれば長い旅が終わってみると、"旅"のいいところは、その思い出が醗酵することだ。どうでもいいような、なんとなく好ましくないことどもはかなり蒸発し、心に残ることが鮮明になる。せっかく素敵な仲間と旅をしたのだ。その思いを残しておこう。何の制約もなく思いを綴ろう。だからこ の記録はぼくの偏見に満ちたものだ。もし、おい、それ違うよという向きがあるならば、また違った旅行記が見られるに違いない。

テンダーボートから撮影したスターフライヤー、後ろの逆三角形の帆(ミズン・フィッシャーマン)を張っていれば全帆を展帆していることになる。


1.ハンブルグ(Hamburg)

ースター・フライヤーに乗るまでに


第1日(2013年8月3日)
ヨーロッパに「スター・クリッパーズ」という会社があって、ロイヤルクリッパー、スタークリッパー、スターフライヤーという3隻の帆船を持っている。何れも今はマルタ船籍だそうで、後の2隻は全くの同型船、絨毯の模様まで一緒だ。2298トン、4檣バーケンチンで乗客定員170名、乗組員74名、帆装はすべて半自動化されている。ロイヤルクリッパーは豪華船で図体もかなり大きい。ぼくたち、いやぼくには縁がない船だ。

そんなことはどうでもいいが、われわれ本隊は成田からオランダ航空でアムステルダムに飛び、更にハンブルグまで飛んだ。ぼくは飛行機が好きだけれどもエコノミーで11時間はかなりしんどい。どうもねぇと思っていたら霞さんがいい方法があるという。早速代理店の王子さんに連絡したら1万8千円何がしで10センチ前が広く、リクライニングがエコノミーの倍という席があるんだとか。王子さんの奥さん久美子さん(仕事上は別姓を使っているのでぼくたちは旅行中「荻原さん」と呼んだ)がいいわよ、と気軽に手続してくれた。

これがよかった。エコノミー・コンフォートというちょっと区画された部分で、何とも幸運なことに往復とも3人席でぼくたち2人。ぎっしり詰まって降りたら四角になっているんじゃないかと思うエコノミーに比べれば格段に楽だ。だから到着したハンブルグでの異常な30℃という暑さでも、ぼくの日本語は「じょうずくありません!」と叫んだドイツの若者の出迎えにも笑って耐えられた。

これまでぼくはハンブルグを2度訪れている。1965年と1976年、今から48年前と37年前だからすでに漠たる思い出に過ぎない。まだ東西ドイツに分割されていた時代、ベルリンのブランデンブルグ門を少し離れて見てその緊張の度合いを知る身にすれば、穏やかな今のドイツはなんといっても好ましい。

 

宿泊したのはザ・マディソン・ハンブルグというホテルで、先行した西谷、佐藤さん夫妻とここで合流した。ここはバンブルグ港に流れる川の近く、周辺を散歩してみると北海沿岸都市の例にもれず川をせき止める閘門が見える。こういうのを見ると北ヨーロッパに来たという気持ちになる。温度もかなりあるから朝食は屋外のテーブルで摂る。パンやチーズ、ハム類と牛乳に果物とまあ定番だが、33ユーロ、約4300円はかなり高い。

昨日から中嶋さんのスーツケースが届かず、どうなったのか情報が交錯しているようでみんな心配だ。まあ、いざとなったら皆さんから1枚ずつ衣料を寄付して頂いて、と中嶋さんは穏やかなものだが、こういうところがこの人の真骨頂だ。いろいろ問題はあったが結局スーツケースは中嶋さんのもとに届き、みんなはパンツを寄付しないで済んだ。

やがてバスが来て、市内観光をしてから港に向かうという。案内の女性の名前を記録し忘れたが、長年ハンブルグに住んでいるようでどうやらドイツ語の方が身に付いている。難しい単語になると「アムー」と間投詞が入る。「えー」といわないのがその証拠だ。普通にしゃべるとそんなことはないから、マイクで少し緊張するタチなのかもしれない。

ハンブルグ港はエルベ川に面した河川港で、頻繁に行き来の多い舟運を妨げないように河を横断するトンネルが20世紀初頭に作られている。これがエルベトンネルだ。斜路ではなくて車もエレベーターでトンネルまで降ろすという大層な仕掛けで、昔からドイツ人のやることは大仕掛けだ。

 

200mlで2.5ユーロ(325円)という高いミネラルウォーターを買って、観光地とはいってもなあ、とぼやいているうちに市内の怪しげなところをバスが通る。女性と写真は禁止といわれて「飾り窓」を見て回るがこんなところは昼間見るものではないし、閑散としてちっとも怪しげではない。この手のものはいくつかランクがあるのだが奥方の多いこの旅で披露する勇気はない。

やがてバスは正反対のサン・ミッシェル教会に着いた。ヨーロッパはどこでもそうだが、教会は1つの拠りどころで極めて絢爛豪華に作られている。この教会の特徴はブラームスと大バッハ(セバスチャン)の次男エマニュエル・バッハそれとテレマンの墓碑があることだ。またマルチン・ルターの像もある。

 

市庁舎にも案内されたが、船に関心あるものとしては前庭にある黄金の帆船が目につく。
夫人連はもちろんそんなものには目もくれず、ちょっと見にくいが中洲の突堤にあるレストランで食事が出来たらいいと口々にのたまう。その食欲は計り知れない。

昼食で一騒動持ち上がった。同じ系列らしいが店が違うという。そこまで地下鉄で移動します、と案内さんはちっとも動じない。かなりのミスだと思うのだがUバーンという地下鉄に乗れたのがまあ救いではある。ゲイの大会という大賑わいに交通規制までする中で昼食を摂り、午後5時40分に港に着いた。

ハンブルグ市内から1時間20分、アウトバーンを通って到着したのがトラベミュンデという町で、ここにスターフライヤーが係留されている。ただ、トラベはtraveと綴るから、ドイツ読みではトラフェとなるので、以下トラフェミュンデということにする。ここで乗船手続きをする。前回と同じに自分の責任において行動するという誓約書に署名する。後で出てくるが、これがものをいうのだ。今回はご丁寧に写真をコンピューターに取り込んで顔写真入りのIDカードを後でくれるが、これがないと船に乗れないことがある。

上の写真の右が係留されているスターフライヤーで、左がぼくたちの船室330号室だ。前回より1ランク上だが、広いとはいえない。ベッドは手術台の両側を手のひら1つ半分広くしたぐらいでシャワーやトイレなどいろいろ機能的に配置されている。驚いたことに部屋にはシャンパンが氷に冷やされて置いてある。後で聞いたらリピーター用だそうで、そういえばぼくたちはこれで2回目の乗船だ。

午後7時、救命胴衣を着けて集まれという放送があった。予め乗船早々に確かめておいたのでわれわれは後甲板の右舷に行く。いざという時の集合場所であり、救命艇に乗る場所でもある。着け方の説明などがあってから総合的な説明があるとトロピカルバーに移動する。バーといっても本船で一番広い場所で、何か行事があるときはここを使うのだ。

図書室を背にして船長と、われわれが"宴会部長"と呼んだトラベルマネジャーが総合的な説明をする。彼女は精力的でよくしゃべる。あんまりよく解らないのはいつの間にか英語がドイツ語になるばかりでなく、こっちの英語理解ができていないからだ。

ちょっと驚いたのは、打合せが出来ていたのかどうか知らないが、日本人の団体の添乗員の女性がその説明を日本語訳したことだ。船長はいくらか迷惑そうではあったが、この人はそれにめげずにいろいろ話す。上右の写真の左端の女性がその人だが、船長が強調したブリッジ付近で航海関係の作業の邪魔をすることを禁止するというかなり強い警告を訳さなかったから、あんまり注意深い人ではなさそうだ。船ではこれが大変重要なのだ。この日本人の団体についてはこの後も何かと問題になる。

そうこうするうちに、最初の晩餐になった。ダイニングの船尾側の2つのテーブルに"ザ・ロープ・グループ"と名札が置いてあって、そこがわれわれの食事時の根拠地となった。本船では朝と昼はバッフェ形式で、夜がメニューにしたがってフルコースの食事が供される。それにしてもこっちは疲れがたまっている。昼にたっぷり食べたしとても付き合えないと、メインディシュを断って前菜とスープだけにする。おまけにあまり酒の飲めないぼくたちはこれ幸いと部屋にあったシャンペンを持ち出してテーブルのみんなに飲んでもらった。こうでもしないと身がもたない。

午後9時57分、本船は埠頭を離れたが、その前から土地の合唱団だろうか、岸壁に集まって歓送のコーラスを聞かせてくれた。柵を隔てて大勢がこの合唱と本船の出航を見送ろう というのだろう、どこでも物見高い人が多い。 スタークリッパーズという会社はいろいろな港から出すようで、ここトラフェミュンデも初めての寄港だとか。それもあってのことかもしれない。やがてステイスルが展帆され、船長はご自慢のバグパイプで合唱団に合わせ、ヴァンゲリスの男声合唱がスピーカーから流れ始める。

この曲はギリシャの作曲家ヴァンゲリスが"1492年コロンブス"という題名で1992年に発表した映画?音楽で、その第2曲がコンクエスト・オブ・パラダイス。スタークリッパーでも出航の時にいつもこの合唱が流れた。新大陸を目指す男たちの力強さと何がしかの哀調があって、ここはどうでも男声合唱でなければならない。既視感というんだろうか初めて聞いてもいつか聴いた曲という感じが強く、ぼくは大変好きになって早速CDを手に入れた。これを聴くといつでも心が躍る。

こうしてヴァンゲリスと共にスターフライヤーによるバルト海の航海が始まった。


2.エーア島 /エロスコービン(Ærøskøbing)


第2日(2013年8月4日)
バルト海の航海といってもいったいどこへ行くのか、渡された書類ではさっぱりわからない。幸い霞さんが調査して、えらい離れ小島に行くんだぜと資料をくれたが、場所そのものはグーグルマップに頼るしかないのだ。そこでいったいどう航海したのかその推定航路図を作ってみた。それが上の図である。本船が寄港した順に①から⑨までを記入してある。①が8月3日、⑨が8月11日だ。こうやって見ると随分広いようだが、バルト海は広い。そのバルト海のどのあたりを航海したかは前頁下の図を見て頂きたい。デンマーク、スエーデン、フィンランド、ロシア、バルト三国、ポーランド、ドイツと9カ国に囲まれたこの海はフィンランド湾を一緒に考えれば地中海よりは小さいけれども、かなり大きな海なのだ。 われわれはそのほんの一部を航海したに過ぎない。赤線で囲った範囲がほぼ上の航路図で、8つの寄港地を赤点で示してある。

朝7時前に甲板に出てみると風があって冷たい。長袖と少し厚めのジャケットに着替える。トロピカルバーは天幕で覆われていて、直接雨にぬれることはない が、今日はいい天気なので少しうっとうしい。8時半には朝食。バッフェ形式だが船尾側にコックさんがいて卵を料理してくれる。早速ぼくの大好きなプレーン のオムレツを注文する。チーズとパン、見てくれよりずっとおいしいママレードもたっぷり取ってどうも太るなあと言い訳をしつつ食べる。まあ美味しいものは 美味しい。

やがてエーア島周辺の島々が見えて、デンマークのだろう警備艇がわれわれを追い抜いて行く。朝からご苦労なことだ。そして10時には船 長によるクルーの紹介。左の写真の船長の左後ろにいるのが"宴会部長"で正式には多分セカンドパーサーだろう。金筋が3本だ。下の右の写真は右から一等航 海士、機関長、事務長。航海科士官は肩章に金筋の丸が付く。機関科は金線の間に紫線が入り、事務士官(主計科)は白が入るのが普通だが、これは確認できて いない。その左の写真の右から売店の主、看護師さん、マッサージ師、半分見えるのが音楽担当のジョゼフで、この人はいつもピアノやキーボードを弾いて大変 だった。

  

その頃本船はジブとステイスルを展帆して少しヒールしながら悠々とエーア島に近づきつつあったが、各ステイスルには頑丈なブームがあっ て、なんというんだろう、両側に帆のばたつきを抑え、畳帆した時に帆がはみ出しにくいように抑えるロープを備えている。海はまことに静かでデッキで朝日を 浴びてのんびり過ごす。こういうところが船旅の醍醐味というものでゴンゴンと、まあ大げさに言えばだが、ディーゼルエンジン全開の客船クルーズと全く違 う。しかしこの写真を見るといかにぼくの脚が短いか歴然たるものがあって、ちと恥ずかしいがまあ旅の恥はかき捨てでこんな快適なことも出来るのだとご紹介する。

エーア島がどこにあるのかは上の地図で分かるが、バルト海の西端、三角定規の長いやつを上に向けたような形をしている。その長辺の 中ごろにエロスコービンがある。綴りは Ærøskøbing だが、なんと読むか、ぼくのいい加減な読みだから保証の限りではない。おかしければ関口さんから修正が入るだろう。そういった点でこの人は決して容赦しな い。

やがて、本船は沖合に錨を降ろし、テンダーボートで上陸する。テンダーボートはもちろん救命艇を兼ねているから、目立つように赤に塗ってあり、いざとなれば30~40人は優に乗れるが乗り心地の悪いこと天下一品だ。テンダーとしてなら短いからいいが、これで荒天を彷徨うかと思うとぞっとする。本船には絶対沈んでほしくないと思わせるために乗り心地を悪くしているのかと勘繰りたくもなる。

エロスコービンはいかにもデンマークの島の町という感じだ。昔ながらの町並みがある一方、観光地としても名が売れているようで、小さなホテルもある。この島で使える材料を使った石積みが基本なんだろうが、昔からちっとも変わらない外観を備えていて、危なっかしくて大丈夫かいなと思う家さえある。

 

その内いろいろ聞いてボトルシップの展示をしているという家に入った。あるじが出てきて料金をクローネでなくてユーロでもいいという。5.05ユーロ、約660円だ。まあ妥当なことろか。かみさんが集めている指ぬきを買った。8ユーロだというが生憎6ユーロしかない。それでもいいというからその辺はかなりいい加減だ。ボトルシップを作る工程が展示してあったり、昔のあるじだろうご自慢の作品を持つ写真もある。この作品も展示されているが、この辺りの作品は情景描写を伴ったものが多い。別館も見て行ってくれというから入ってみると昔の医療施設の展示があった。かなりリアルなもので、木製だが、浣腸の様子や膀胱洗浄の様子まである。どういうつもりの展示か、そのあたりは分からない。

町の売店でかわいい絵ハガキを見つけた。船からも望見された小さな家を描いたもので、かみさんが大いに気に入ってそれを3枚額に納めた。エーア島の思い出にわが家の玄関を飾っている。

午後5時50分に出港、ちょっと早いがエーア島からコペンハーゲンまでは今回の航海で一番距離がある。すぐに2枚のジブとステイスル、それとフォアマストの横帆すべてが展帆される。ステイスルといっても本船のものはかなり大きくて風が強いものだから揚がる途中でもその力を感じることができる。行き先旗であるデンマークの国旗をクルーが揚げるのが見ていて楽しい。

そろそろ午後7時になろうという時刻だが、陽がまだ十分に高いのは高緯度だからだ。この辺りは北緯55~56度ぐらい、ストックホルムで北緯59度ほどなので日本の近くでいえば、カムチャツカ半島のほぼ半分ほど北にあたる。うんと北極に近いのだ。

午後7時、後甲板でリピーターを対象のカクテルパーティーがあった。下の写真の左2人目から王子さん、船長、堀岡さん、霞さんとわれわれだが、いずれもスタークリッパーで活躍した面々。うちのかみさんはちょっと恥ずかしいというが、そんなことはない立派なリピータだ。

 

この日の夕食はアーティチョークのサラダ、アスパラのスープ、ヨーグルトのソルベ、牛のオックステール、アイスクリーム、飲物は赤ワインに食後のコーヒー、もちろんパンは食べ放題となると、一体普段に比べてどこに入るやらと思いつつ、すべて平らげる。海の上では腹が減るとか、酸素が多いとかみんな勝手な理屈を付けては食べる。写真を見ると年寄りばかりだが、いずれもデザートまで充分に平らげているからまことに健啖というしかない。人のことは言えないが…。左端は中嶋さんだ。

ゆっくり食事を楽しんで、午後10時トロピカルバーでファッションショウが始まった。誰が目を付けたのかまことに慧眼というしかないが、西谷ひさこさんにモデルの依頼があったらしい。でも一人ではねぇと彼女はうちのかみさんを誘った、らしい。頼まれたらイヤとはいえないとこの2人がこの夜の船客出身モデルになった。あとはすべてクルーと日本人団体の添乗員のお嬢さんたち2人。


クルーの男性に続いてわがグループの最初に西谷ひさこさんが登場、スタイルは良いし笑顔で活発に一周してやんやの喝采を浴びる。こ ういうところでは オズオズは禁物でさっそうとしていなければならない。着替えが1回、小物を持っての登場が1回で、うちのかみさんもそれなりの貫録を見せた。何しろ白髪 だ。日本人グループ添乗員の1人のお嬢さんは可愛い人でスタイルも抜群。左下の写真がそうだが、添乗員よりモデルの方が似合う。

ぼくは慣れないカメラで失敗した。ISO1600で撮影したのだがシャッタースピードが落ちる。それを忘れるというバカなことをして対象が流れてしまった。西谷ひさこさん、ごめんなさい。そんなわけで、右下の写真は西谷さんからご提供いただいた。

 

3.コペンハーゲン(Copenhagen)


第3日(2013年8月5日)
前方にドーバー海峡ほどではないと思うのだが、白い崖を見ながら8時には朝食。今朝は卵2個の目玉焼きを注文する。「フライドエッグス プリーズ、サニー サイドアップ」と気取ってみたが、フライパンにはどこにも蓋がない。どのみちサニーサイトアップになるんだと、ちょっと恥ずかしかった。それでも朝飯はう まい。岩崎さん、高橋さん、佐藤道子さんなど女性陣も劣らず皿を一杯にしている。荻原さんも体格に似合った盛り付けだ。はっきりしているわけではないけれ ど、どうもスタークリッパーの時よりもこの船の方がおいしいような気がする。

10時半にマスト登りが始まった。本船では航海中合わせて3回ほどマストに登る機会があったがどうも女性陣の方が活発で、岩崎、高橋さ ん姉妹以外はすべて登っている。マストといってもロアーマストのトップまでで、大した高さではないにせよ登ってみれば結構高さを楽しむことができる。

最初のマスト登りでちょっと問題が起きた。35人という日本人の団体は添乗員がいるのでどうも囲い込みが激しい。この日も登る順番を早くから確保したらしくて大分待たされた。本来こういうことは登りたい個人が集まって順番に登るべきもので、写真を撮るために途中までしか登らないとか、降りてきたら拍手喝采で迎えるというのとは無縁の筈なのだ。

ぼくの順番が来てさて、と思ったらこの団体に日本丸に乗っていたことのある人がいたらしく「お手本を見せて頂きましょうよ」と一斉にいう。それを受 けてご本人が出てきていいでしょうかという。喧嘩するのも大人気ないから、しょうがないですなと不満を表明して順番を譲った。それほどのお手本とは思わな かったが、トップの上で"イヤー50年ぶりで登った!"といっていたからあんまりお手本にならないわけだ。

本船は操帆が自動化されているから、マストに上るためにラットラインを張ったシュラウドは左舷に1組しかない。おそらく点検と客用だろう。またトップから クロスツリーまで登るシュラウドも右舷に1組だけだ。通常の大型帆船では1つのヤードでのセール操作に20人ぐらいは必要だし、風の急変に備えて一斉に登 らなければならない。どうやって登るのか、ラットラインを2段ごとに上った外国人もいたが、これは足の長さを証明するだけで、速度はそれほどでもない。そ の答えが後に上映された帆船「ペキン」のケープホーン航海の映像にあった。シュラウドはあまり上を握らず、したがってお尻をグンと外へ突き出すことができ る。シュラウドに対してベッタリではなく三角形になるのだ。そして足で蹴る。素早く手を握り換え文字通りましらのごとくシュラウドを登っていた。安全索が ないという違いはあるが、これぞお手本で昔の帆船乗りはこれが出来なければ一人前ではなかったろう。

そうこうするうちに右舷はるかに長大な橋が見えてきた。その手前には風力発電用の大きな風車が無数に見える。左の地図でいえばこれがデンマークとスエーデンを結ぶ道路橋だ。行きの飛行機で上からこの橋が見えた、と思った。しかし上から見ると両端が明らかに繋がっている。実際には左の図の島の下に人工島があってその左端から海底トンネルになっているのだ。高架道路が8km、人工島部分が4km、トンネル部分が4km、合計16kmと佐藤さんに教わった。

本船はそのトンネル部分を通過してコペンハーゲンに近づく。やがて本船が停止すると真っ赤に塗ったモーターボートが近付いて小さなザックを背負ったパイロットが乗り込んだ。なかなかイケメンよと女性たちが騒ぐが、彼はレーダー画面を見ながら静かな声で舵手に「スリー・スリー・トゥー」とだけ言う。「スリー・スリー・トゥー・サー」舵手は舵輪を左に回し船は取り舵で港に近づく。こういった遣り取りが何ともいい。開放的なブリッジでこういう雰囲気を壊すな、と船長が最初に注意したのだ。ひとつ間違えば事故につながりかねない。

 

バイキング博物館へ
午後2時に接岸したコペンハーコペンハーゲンはデンマークの首都、近くにある人魚姫の像が有名だが、われわれの目的はバイキング博物館だ。バスに乗り込んでま ずはロスキルという小さな町へ行くが昔は首都だったと説明にあり、12世紀に建てられたロマネスク様式のロスキルデ大聖堂に寄る。ここには代々のデンマー ク国王や女王が祀られ、たくさんの豪華な棺が安置されている。仏様と火葬という様式に慣れたわれわれから見ると少し異様だ。年配の女性による英語の説明だ から詳しいことは分からない。しかしマイクと各人に貸与された受信装置がきわめて優れていて雰囲気を壊さないひっそりとした説明がとてもよく聞こえる。大 聖堂としての配慮だろう。

バスで坂を下るとすぐバイキング博物館がある。自由に見学して下さいということでみんなそれぞれに見に行く。広大な気持ちのいい雰囲気で本館には防戦のた めにフィヨルドに沈められたロングシップを引き上げて何隻も復原している。興味を持ったのは昔の木材の 取扱だ。鋸のない時代だから楔で縦割りしている。 その実演、というより日常の作業を見せる。実際に船を作っているのだ。そしてもう一つ興味を引かれたのがロープの作業場だ。
材料はリンデンバウムの皮だという。ドイツリートにも詠われている菩提樹だろうが、辞書によるとシナノキ科の落葉高木で西洋菩提樹というらしい。いずれに してもシナの系統で、案内の女性の説明では当時のロープの80%はこのリンデンバウムが使われたのだとか。身近にある木だから当然で麻や木綿はほとんど 使っていなかったようだ。

午後5時過ぎには博物館を出てバスは田園地帯を走る。一面の小麦畑だったり小さな村だったり大型バスがよくもこんなところを、と思っているうちに畑のあぜ道に入って変なところで停まった。ここはOM村というところで6000年前に作られた古代のお墓の址があるという。ぞろぞろと入ってみたが何しろ暗くてよく解らない。土地の農家の人が偶然見つけたもののようだが、まあ始皇帝墓ほどの価値はないかもしれない。

バスは賑やかなチボリ公園遊園地の前などを通り、われわれはスターフライヤーに帰る。ここで冒頭のように栗田夫妻と再会、全メンバーが揃った。ナスのタルト、太刀魚、エスカルゴのスープ、メインはちょっと遠慮してチーズとアイスクリームで済ませる。「The Rope Group」という札の立てられた2つのテーブルはフルメンバーで大いに賑わった。出航すると甲板はもう涼しいというより寒い。堀岡さんを囲んで高橋さんと岩崎さん姉妹が震えていたが、長袖でも薄いともたない。10時半にはピアノバーでクラシカル・コンサートがあり、ポピュラーではあるけれども珍しく真面目な顔をしたジョゼフの演奏を楽しんでから寝た。とても柔らかなタッチで、なかなかの演奏だった。


4.ヘルシンボリ(Helsingborg)


第4日(2013年8月6日)
コペンハーゲンからほぼ真北に行くとデンマークとスウェーデンに挟まれたカテガット海峡がいちばん狭くなっているところがありそれをエーレスンド海峡というようだ。その狭いところのスエーデン側にあるのがヘルシンボリで、前夜10時に出航したのに朝8時半には接岸した。ここも比較的大きな都市だから埠頭に係留できる。

早速ツアーバスに乗ってまず市内の聖マリア教会を見学する。14世紀から100年もかけて建設されたそうで、さすがに豪華なものだが、船キチどもは教会よりも内部に寄贈されている帆船に興味があり、佐藤さんなどは1隻撮り損ねたとわざわざ引き返して撮りにいったほどだ。むかし日本で奉納された絵馬や模型のように航海の安全と貿易の成功を祈ったのだろう。

 

それからバスは市の監視塔へ向かう。監視塔(Karnan Tower)といっても高さ34メートルもある市の防壁を成す重要な拠点で、立派なものだ。13世紀の小さな塔を建て替えたとかで、昔の跡が残っている。市内の海側から見るとこの塔のあるところは広大な階段の上で、みんなで一体なんだろうと不思議に思っていた場所だ。

この防壁の上から見ると市内が一望に見わたせ、おまけに狭い海峡の対岸にあるハムレットでお馴染みのクローンボー城がはるかに見える。キャプテン・ホーンブロアの小さな艦隊がスエーデン側に寄ってデンマーク側の砲撃を少しでもかわそうと追い風を受けて帆走したのは丁度この辺りの海だ。その昔はバルト海の島々は戦争で国籍が何度も変わったという。そう思ってみるとスカンディラインズのフェリーが両国間を行き交う今日の平和な状況がやっぱりいい。

 

11時15分にソフィエロ宮殿に着く。ここは国王の夏の宮殿として建てられたそうだが何しろ暑い。広大な敷地に農園があってこれは当時の国王オスカー2世ご夫妻の趣味らしい。その道の人には垂涎の農園だろうが、花より団子派のぼくにはいささか苦痛でもある。

宮殿そのものは現在レストランや、小さな博物館になっていて中を見ることができるが、このレストランはかなり高級なようで立派な設えをチラと覗いてふんふんと感心する。いい匂いもしていて、我ながらどうもガサツだ。そうかと思うと一部には広い芝生のサッカー場があって、国王自身が審判までなさったとか。欧米の有名人、特に政治家が訪れていたようだ。

午後1時過ぎにはバスツアーを終えて船に帰り、街中で買い物でもしようと女性陣が先頭になって街へ繰り出す。実をいうと教会に行く途中で閉まってい た台所用品店が目当てだ。北欧のキッチン用品は見るだけでも楽しい。ここでムーミンのタイマーをいくつか買った。なかなかいいデザインなんだが残念なこと にうちのはどうもうまく作動しない。このムーミンはほんとにおバカさんなんだからとかみさんは憤慨するが、まあ取替えにヘルシンボリまで行くわけにもゆか ぬ。

この日、本船は午後3時25分に埠頭を離れた。ヘルシンボリからクリスチャンソーまではかなりの距離があるのだ。初めて寄ったこの スエーデンの都市はわれわれを歓迎してくれて、入港時にはおそらくラップランド地方の人達だと思うのだが、可愛い演奏と踊りを披露してくれたし、船にぼく たちが帰ってきたときには街の娘さんたちがにっこり笑ってバラを1輪ずつ手渡してくれた。こういったおもてなしは心にしみる。

もう大分みんな仲良くなってピアノバーでは女性陣が集まって賑やかに話が弾んでいる。ピアノバーというのは食堂の上の上甲板にあるいくつかの円形長椅子の部分で、すぐ傍に中二階のようになって小型のグランドピアノが置いてある。この日は西谷さん夫妻、堀岡さん、佐藤さん夫妻、岩崎・高橋さん姉妹、それに村石さんまで加わって別の椅子を持ってくるような賑わいだった。

午後10時になるとカエルレースがあるのでトロピカルバーに出向く。次ページ左の写真の佐藤道子さんのように長い糸を操って手前の線まで引っ張るのだ。やって見るとこれがな かなか難しい。運動神経に欠陥があるぼくはたちまち予選落ち、佐藤さんやほかの人に迷惑をかける。競技は段々に難しくなり、運動靴を乗り越え、一人が成功したら小さなグラスのウオッカを誰かが飲み干し、おまけに目隠しまでして決勝戦が闘われた。優勝したのは関口さんと国分さんご夫妻(船長テーブルでご一緒した)の日本人グループで、関口さんがそういう能力をお持ちだと、改めて認識させられた。

 

5.クリスチャンソー(Christiansø)/ボーンホルム島グルイエム(Gudhjem/Bornholm)


第5日(2013年8月7日)
今回の航海範囲の東端にボーンホルム島という島がある。スウェーデンの南にあるかなり大きな島だがデンマーク領になっている。この島のほんの少し右上、つまり北東にいくつかの小さな島の塊がある。普通の縮尺で地図を見ても発見できないぐらい小さな群島だ。この中の一番大きい島をクリスチャンソーという。旅の前にグーグルの地図でいろいろ見たのだが目当てを付けることが出来なくてここがどこにあるのか分からなかったぐらいだ。


この島に近づくと古いタイプの帆船が見える。三檣シップ型でミズンマストにはラテンセイルを備えている。みんな寄り集まってあれは"ヨーテボリ"だぜという。朝日に照らされてぐるりを回る形で船尾が見えるようになると "GÖTHEBORG"と書いてあるのがわかる。これをヨーテボリと読むのは関口さんでなければできない。当然この船もパレードに参加するのだと思っていたが、参加船の名簿にこの名はなかった。


丁度10時に本船は島の南端に錨を降ろし、われわれはテンダーで上陸する。上の写真はテンダーがこの船着き場に入ってくるところでとてもきれいな入り江だ。クリスチャンソーと向かいの島は細い鉄の橋で結ばれ、テンダーはその手前の本島側に着く。まずは対岸の小さな島へ渡って一緒になった栗田さん夫妻と歩く。

本島の方にはグレートタワーと名付けられた砲台があるが、この島にもスモールタワーという小さな砲台がある。そこを目指して歩くと島の住民だろう、タイヤを吊るしたブランコで少女を遊ばせている。この写真の右に見えるのがスモールタワーだ。何せこの島にはボートはあっても車はない。そのはずで車の走れる道路はないのだ。おまけに舗装はすべて石畳で、運動靴で歩くと石が当って足にこたえる。それでも上右の写真のような楽しい風景もあるから、歩いて損はない。

スモールタワーは現在博物館になっているが、まだ開く時間ではないので、近くの家に入ると栗田さんがこれは牢獄ですぜ、という。なるほどそのようだが、わりに明るくて地下牢のような陰惨さはない。ぐるっと回ると小さな魚屋さんがあった。魚屋さんかと何気なしに見過ごしたが、これを見過ごさなかったのが中嶋公子さんでニシンの酢漬けを手に入れた。

島を結ぶ橋を渡って本島に入ると下左の写真のように左手にグレートタワーが見え、右手にはむかし要塞を守った兵士たちの兵舎がある。ほんのちょっとしか開いていない郵便局を通って山側から要塞に向かうと、結構の登り道だ。若い栗田さん夫妻にはなかなか追い付けないが、それでも要塞の上に出ると佐藤さん夫妻が見えた。むかしの大砲もそうだが、この要塞の地形と兵舎の距離からするとここでの勤務はかなりの労働だったことが分かる。まあ80代の年寄りがいうのもなんだが、弾火薬の運搬から砲を操作しおまけに敵弾を浴びるなんてことになったらいくら屈強の北欧の男子でも大変だっただろうなと、しみじみ観光で見るだけの幸せを思う。

 

防壁の彼方に停泊している本船の優美な姿を見てからグレートタワーに向かう。ここは灯台も兼ねているらしく、かなりの大きさだが、天辺に上がるには狭い梯子をいくつか登らなければならない。結構観光客もいて、ヘイごめんなさいよと上に出ると素晴らしい景色が広がった。手前に兵舎の屋根が連なり、きれいな入り江の向こうは広大な海で、はるか水平線にかすかに見えるのがボーンホルム島だろう。距離はそれほど近い。


この島を巡っていると天気は良いし、坂を上下するものだから体がほてってのども乾く。なんか飲物でもと思ったがここはデンマーク領でユーロシステムに加入していないからデンマーククローネでないと通用しない。エーア島のようにユーロでいいよとは言ってくれないのだ。両替も出来ないし、泣く泣く我慢することにしたが小さな庭で観光客が食べていたアイスクリームをどうでも食べたかった。

午後3時に本船は帆を揚げてボーンホルム島のグルイエムに向かう。離れてゆく本船から見るとスモールタワーのある小島がちんまりと可愛い。観光地とはいえ望んでもなかなか来られないこんな離れ島に、東洋からはるばる来られたのはこの旅あってこそだ。 

ここからグルイエムまではごく近いけれどもやはり2時間はかかる。その途中でロープワークがあった。いいおじさん、おばさんがクルーのやり様を見て一生懸命に真似をするがなかなか上手くいかない。それでもわが身が海に落ちた時には、と片手で舫い結びをする方法を西谷さんに教わる。エイトノットやクラブヒッチは模型をたしなむものにはどうということはない。栗田さんが一人ポツンと離れて真面目な顔で練習しているが、居残り学習みたいでちょっと可笑しい。こういう一面もあるんだ。

 

やがて本船はボーンホルム島に接近して錨を降ろした。テンダーでグルイエムの街に上陸するが、ここはそれほど名所旧跡があるわけではなさそうだ。島の常で波止場から坂で街中に入るがみんなどこへ行ったらいいかよく解らない。止む無くぞろぞろと坂を上がるが町並みはデンマークの島独特の家が並んでエロスコービンと似ている。

この島は比較的大きいのであちこちに村があるが、ここがどうやら中心地らしくミッドランダー・センターと読むんだろう。いろいろ解説のあるパンフレットを貰っても全部デンマーク語だから、分かるのはトイレの位置だけという有様。その内に見つかった教会を回り込み(どうということもない教会だと栗田さんが言った)停泊している本船を眺めてから、下にあるスーパーマーケットに寄って少し買い物。ちょっと変わったペーパーナプキンぐらいしか買いたいものはない。

古くからの街並みで冬はかなり厳しいのだろう屋根を見るとあちこち痛んでいるけれどもそれなりの風情があって通りすがりの勝手な旅行者には面白いが、実際には大変なんだろうなと思う。なかなかこれはという場所を見つけられないのは時間のない通りすがりだからやむを得ないが、柱の見える小さな家といい、急傾斜の屋根といい長年の経験がそうさせているに違いない。じっくり家の中を見せてもらったらもっとその生き方が分かるだろうにちょっと残念。もっともこの面白い街に旧型のシトローエンがいて、おしゃれな堀岡ダンナがよく似合う。あんたの持ち物なの、と誰かがからかっていたがほんとにそうにも見えておかしい。

 

買い物好きの高橋さんを私が待っているからと姉の岩崎さんを残して本船に戻ると、西谷ひさこさんから今日は中嶋誠さんの誕生日だからみんなでお祝いをしようという。

どこで手に入れたかカードを回して署名してほしいと飛び回っている。世話好きで明るいこの人にかかると誰もイヤとはいえない。もっともこのころになるともうみんな昔からの友達のようで、誕生祝いも大いに盛り上がった。船からもお祝いの四角いケーキがハッピ・バースデーの歌声と共に食卓に上がり、おん年いくつかは分からないが1本のろうそくを吹き消した中嶋さんはみんなから贈られた署名カードを手にとても幸せそうに見えた。

食後は例によってみんなピアノバーに集合して賑やかに、特に女性軍の話しが始まる。男どもと違って、女性の話しは猫のヒゲが曲がったというどうでもいいようなことでも話題になるらしく、話の尽きることがない。男だって船の話になったらどうでもいいようなことをああじゃこうじゃというではないかとカミさんは反論するのだが、見方を変えればそうかもしれない。下の写真はスペースの関係でかなり縦長に変形させているのもあるが、ピアノバーの集会はいつもこんな調子で続く。

 

そのうちに中嶋公子さんがクリスチャンソーの魚屋さんで手に入れたニシンの酢漬けを持ち出してきた。円形のプラ製の樽でぎっしりニシンが詰まっている。ここで開けても食べきれないからもったいないわよという声もあったが、いいのいいのと中嶋さんはみんなにニシンを振舞う。

ぼくは昭和23(1948)年、学生時代に実習で行った利尻島で最盛期のニシン漁を目の当たりにしている。ちょうど日本で獲れるニシン漁の最後のころで、海岸のすぐ目の前の海に押し寄せた大量のメスのニシンが数の子を出す上にオスが白子を撒いて行くにつれてクリームを流したように海水が白く変わるのは壮観だ。そして獲れたてのニシンを石炭ストーブの上で焼いたらこれほどうまいものはない。バルト海でもニシンが捕れるのだろう十分に脂ののったニシンはちょっと甘めのかなり強い酢で漬けてある。ご飯があったらいくらでも食べられるわよね、という評判だった。沢山残ったニシンを中嶋さんは持ち帰れたのだろうか、ちょっと心配だ。


6.ビンツ(Binz)/リューゲン島(Rügen)


第6日(2013年8月8日)
ボーンホルム島はデンマーク領だが、バルト海西域をぐるっと一回りして到着するのがリューゲン島でここはもうドイツ領になる。ほとんどポーランドに近い地域だが、ここはドイツで最大の島だという。キャプテン・ホーンブロアの小説で出てくるリューゲン島の戦いはこの島の西側の湾内で、今回は残念ながらそこへは行けない。

この日の朝食では珍しく白粥が出た。多くの日本人に配慮したのかもしれないが、岩崎さんが梅干を持ち出してみんなに配っている。久しぶりのお粥も悪くない。図書室でパレードの説明があるというのでぞろぞろと集まったが、栗田さんが要所を説明してくれる。こういう時は大いに頼りになる。

10時15分からタオルワークが図書室であるという。乗船以来、朝のベッドメークが終わるといつも珍しい動物がベッドの上に鎮座していて、時にはかみさんの黒メガネなんぞを掛けてこっちを睨んでいたりする。

どうやって作るのか興味津々で見に行ったが、成る程とうなるほど見事な手さばきで下の写真のような動物たちが生まれる。そのチーフは人のよさそうなセーラーで、すごいすごいと声をかけると嬉しそうに笑う。気持ちのいい青年だ。

11時に本船はビンツの沖に錨を入れた。堀岡さん、村石さん、霞さんと一緒にテンダーで上陸する。ここは砂浜の海岸で木造の長い長い桟橋が海に突き出ていてその中ほどにテンダーが着く。その桟橋をぞろぞろと歩いてやっと街に入るのだが、海岸に無数の変な箱みたいなものが置いてある。なんだろうと近付くとこれが風よけの椅子、いってみれば個人用の「海の家」だ。ここはよほどのリゾート地に違いない。

中央が大通りで両側にびっしり土産物屋や食べ物屋が軒を連ね、折から南部ドイツの休暇が終わって北部の休暇が始まる時期だとか、押すな押すなというほどの人通りだ。さすがに大国のリゾート地で、数階建てのがっしりしたビルが並び角にはオマールエビを食べさせるというレストランまである。昼はここでしようやとみんなと一とき別れてかみさんと街を見て歩く。「琥珀の道」に当るらしくて土産物屋ではたくさん琥珀製品を売っている。昼には例のレストランでぼくたちは生ガキ、霞さんたちはエビを注文した。堀岡さんは難しい顔で料理の写真を撮っているが、なにうまいうまいと結構えびす顔だった。たまには船から離れての昼食も悪くない。

  

やがてバスは海岸沿いに木立を過ぎてヤーゼムント国立公園に着く。ここは原始の植生と固有動物の保護地であると同時に、島の石灰岩の白い崖が売り物のようだ。帰り道、われわれの近くまで寄ってきた写真の鳥は人を恐れずうらぶれたカラスかと思ったのだが、後で聞いたところではこの地の固有種の鳥らしい。あいにくの雨模様で早々にバスに戻り、交通混雑のリゾート地を通り抜けて午後5時半には本船に帰り着いた。

 

この日、午後7時に船長主催のカクテルパーティとディナーに招待されている。実は2日ほど前に代理店の王子さんから乗船している各グループの代表が呼ばれているのであなた方夫妻に出てほしいと頼まれていた。ぼくは英語での会話ができない。何度も国際会議に出ているから英語ができると勘違いされるが、国際会議は政府間会議でテクニカルアドバイザーのぼくはしゃべる必要がないのだ。もちろん話を聞いてアドバイスする必要はあるが、予め各国のコメントは読込んでゆくから大体どんなことを言うかはわかる。あとほとんどの発言は専門用語の羅列だから、ちょっと耳が馴れれば何とかなる。ただ、会議は現地集合・現地解散だから一人旅には慣れている。こっちが金を払うという前提なら度胸と愛嬌でどうとでもなるが、それはいわゆる会話ではない。そんな次第で辞書もタイムラグもない会話はだめだと渋ったのだが、王子さんもいろいろ考えての上だったのだろう。一番年寄りの上に夫婦で来ているぼくらが適任と断じたらしくどうでも出てほしいという。止むを得ず引受けた。


招待されていないドイツ人夫妻が飛び入りで入ってきて断ることも出来なかったと後で聞いたのだが、不愉快な目にも会いながら「ザ・ロープグループ」代表では仏頂面ではいられない。イギリス人の隣にギュウと押し込められ、
「うちのかみさんはドイツ人でね。」
「ドイツ語で話すの?」
「いやいやオレは英語しか話さないが・・」
などと言い合いながら、ピアノバーでのカクテルパーティが終わってディナーに移った。

35人の日本人グループ代表は国分さんという若いご夫妻で何度もこの会社の船に乗っているとか。それでも他の人と話をしないでじっとしているから、勢いこっちが何とかしなければならない。今度の隣人はドイツ人でわりに気持ちのいい人だ。何だかよく分からないがエンジニアで向かいに座っている陽気なドイツ人をあいつはおしゃべりでね、と机の下の右手の指をパクパクさせてニヤニヤする。英語は得意でないと嬉しいこといいマンフレッド・ガルマイスターと名乗った。奥さんは英語ができてクラウディア・ドナーと名乗り別姓だが Mrsとあるから夫妻に間違いなさそうだ。メールアドレスを交換しているからその内にメールをしてみようと思う。午後9時ごろ解放されてやれやれだった(写真は国分さんの提供)。

この日の夜、タレントショウと称してクルーを含めた催し物があった。ほとんど覚えていないのは乗船している日本人グループの合唱があり、歌詞カード片手に童謡らしきものを歌うものだから村石さんと二人でどうも恥ずかしいよねぇと嘆いていたからだ。「老稚園合唱団」というべきか、上手い下手の問題ではなくて心意気が全く伝わらないのだ。われわれだってスタークリッパーに乗った時にはみんなで歌を歌った。面白い、やってやろうじゃないのと声を張り上げてアピールしたのだ。しかもその後の塩谷夫人のジャマイカ人クルーとの踊りなぞは絶品で、君たちは素晴らしいダンサーを抱えているね、と他の外国人乗客から羨ましがられたものだ。とにかくみんなを楽しませようという心意気がなければ出てはいけない。写真なんか撮っていないのは当然なのだ。

またこの日の朝、この団体にいる女性だろうロングスカートを身に付けた人がバウスプリットのネットにいて1人海を見ていたぼくに写真を撮ってほしいとカメラを渡された。撮るのはいいが危険ですよというと、慣れているから大丈夫ということを聞かない。さすがに太いステーに掴まって立っているだけだったが、こういう手合いに道理を説いても聴かないことをぼくは経験から知っているからそれ以上は言わなかった。乗船前に自分の責任で行動するという文書に署名したのは、なんでも勝手に行動するということではない。船、特に帆船はいたるところにロープもあり、器械や装置がごろごろしていてそこを操船時以外は自由に行き来できる。何重にも重ねた分厚いロングスカートで歩けば当然そういうものに巻き込まれる危険が増す。自分の責任で行動するというのは、安全のためにできる限りリスクを避けることなのだ。

前回スタークリッパーでマストに登った時ぼくはスリッパを履いていて、それではだめだと言われ、急いで塩谷さんに運動靴を借りて登った。安全索とかかとのある履物が安全を確保して自分で行動する条件で、それを満たしていればたとえ90歳だろうと登ることに文句は言わない。またライフジャケットを着けるという条件を満たしていれば、初めての経験だろうとシーカヤックを漕いではいけないとは言わない。

あのロングスカートの女性はそういうことを理解していたのだろうか。走るロープにスカートを巻き込まれてから解ってもそれでは遅い。私は慣れているといってもそれはリスクの低減にならない。団体旅行の添乗員は、ロングスカートの危険性をそういう観点から指摘しなければ、責任を果たせないのではないかとぼくは思う。

7.ヴァーネミュンデ(Warnemünde)/  ロストク(Rostock)


第7日(2013年8月9日)
いよいよ最後の寄港地ドイツ本国のヴァーネミュンデに今日は着く。ここでの行動は多くて一体どうすればいいのかみんなで寄り寄り話し合う。ロストクへ行きたいがフェリーでは時間がかかるから、エンジンルームの見学をどうしようとか女性陣はエンジンなんかに興味はないから別行動にしようとか様々だ。

地図を見ると分かるがロストクは電車で20分程のこの地方の都会で、正式にはここも「ロストク・ヴァーネミュンデ」というらしい。海事博物館もあり有名な教会もあって是非とも行きたいところだ。

午前9時には最後のマスト登りがあった。手ぐすね引いて一番に登ると言っていた西谷ひさこさんといつの間にか登った佐藤道子さんが参加したが、晴天ながら少し風もあって朝は肌寒いぐらい。11時には港に入り岸壁に着岸する。

さすがにハンザセイルの前日とあって港には様々な船が集まっていて大賑わいだ。帆船ばかりでなく見物客を乗せて日を合わせて寄港しているのだろう。10万トンクラスの大型客船も2隻着岸している。商船ばかりでなく沿岸にはドイツ海軍のフリゲート艦か駆逐艦クラスのステルス型の軍艦までいる。セイルアムス2005のパレードでもオランダの軍艦が通ったからセイルパレードに敬意を表しているのかもしれない。

荻原さんがコピーしてくれた参加船の名簿を見ると船名と長さ、船籍国、それとバースが指定されている。その記号がどこかは分からないが少なくとも本船はその指定場所に接岸したに違いない。この港はかなり広い。昼食を終えると午後1時にわが男性陣はトロピカルバーに集合した。話し合いの結果、女性陣はドイツに在住経験のある高橋さんを頼ってみんなでロストクへ行くという。ただ栗田敦子さんは夫君と一緒に男性陣に加わった。これからエンジンルームを見るのだ。

ヒッピー風の機関長ではなくて案内してくれたのは左写真のいかつい二等機関士で40℃にもなる機関室で4時間交代勤務をするのだとか。狭いから気を付けるようにと注意してからエンジンルームに入る。なるほど狭い。メインエンジンは12気筒60°Ⅴ型2列配置の1360馬力、緊急用のモーターも備えているとか。1分間1600回転で200~250回転まで落とせるらしい。スクリューは油圧でピッチを変える。発電機は700kwh2基で24時間運転する。バウスラスターは1基だが可変ピッチだ。このエンジンで11~13ノットまで出せる。

興味深いのは飲用水で、逆浸透膜(RO膜)による海水淡水化装置を備えていることだ。造水能力は50トン/日で200トンの飲用水タンクがある。大都会では1日1人当たりおおよそ240リットル水道水を使う。船は事情が違うにしても客船としてかなり余裕を見ているようだ。最も沿岸航海では港に入った時に給水管から受水する方が安いらしく大西洋横断のようなときにRO膜を使うらしい。この膜は高価だ。更にぼくの気になるのは排水の方で、これも説明によると浄化して海中に放出している。活性汚泥法を使っているというのだが、密閉された船内で活性汚泥を使うにはかなり酸素がいる。残念ながらその詳しい説明は聞けなかった。ただ、汚泥は港で揚げているということがわかっただけだ。もちろんこういった説明が分かるのは栗田さんの通訳を介してだが、夫人の敦子さんが私は分からないから日本語で言ってよ、と言ってくれたおかげだ。敦子さんはロストクでお茶を飲んだ時も現地の老婦人と話をしていたし、駐在経験もあるから英語は堪能なはずだがこうして英語分からんちんのぼくたちへのそれとない配慮があるのが助かる。

30分ほどで見学を終えていよいよロストクへ。栗田さんがみんなの1日乗車券を買ってくれる。慣れたものだ。Sバーンという郊外電車は2階建てでぼくたちはだれいうともなく2階に行く。煙と鶏の仲間だ。ヴァーネミュンデからちょうど20分でハウプトバーンホフ駅に着いて乗換え。地下で路面電車に乗ってすぐに海事博物館に着く。こじんまりした博物館でさすがに入口にU-ボートがあったが模型の展示はあんまり見るべきものはない。

ここを出て地図を見ながらみんなで街中を歩く。丸い筒状の公衆トイレがあって、60セント払えば入れる。「フライ」と表示があるから今日はタダらしいぜと物知り顔で言ったら、なに「空いている」ことだろうよと切り返された。半可通はよくない、恥ずかしい。ピンク色の派手な市庁舎を見ながら広場の小さな市場を覗いたらかぼちゃの名札に「Hokkaido」とある。古いハンザ都市での北海道産だ。いや世間は狭い。

 

そうこうするうちにお目当ての聖マリエン教会に着く。豪華なステンドグラスを眺め、空襲もひどくいろいろ困難も多かったろうにドイツ人の古いものに固執する心情はわれわれに測りがたいものがあると感心もする。傍らにホロコースト関連の写真展示があって、これもその惨状もだが堂々とわが非を展ずる心意気に感じてつい見とれる。

そのために気が付くと一緒に見とれていた西谷さんと2人きりになって誰も見えない。もう出て行ったんだろうと2人で追っかけたがどこにも影がない。散々探してしょうがない元に戻ろうかと教会に近づくとばったりみんなと出会った。教会の名物の古時計を見ていたという。せっかくここまで来たのだから私がご案内しますと栗田敦子さんがちょっと分かり難い時計まで案内してくれた。まことに奇妙な時計で、もちろんメカで動いているのだろうがああだろう、こうだろうと諸説をそれぞれが述べるが結局誰も理解していないらしい。どういう頭がこんなものを考えるんだろうとそっちの方に感心する。

更にこの古いハンザ都市に残る監視塔まで行く間にわが女性陣がみんなで喫茶店の屋外でお茶を飲んでいるのに出会った。ドイツに経験のある高橋さんが世話をしたのだろうがすっかり街に溶け込んでいる様子、わが女性陣はいやはやどこへ行っても優雅なものだ。監視塔はハンザ都市時代に市の城壁の一部を成していたもので、現在は10個あった塔の4つしか残っていないと塔の責任者がいう。すぐ脇にはその城壁の一部が残されていているが煉瓦作りの頑丈なものだ。堀岡さんたちとも合流して近くの店で一休み。かわいい男の子がトコトコやってきてにっこり笑う。思わず父親の許しを得て写真をとるが、8月でもかなり厚着だ。この辺りは朝晩がきっと寒いのだろう。

 

海岸に出てフェリーで帰ろうよとウロウロするが何せ人が多い。船もいろいろあってどれがヴァーネミュンデ行きか判りかねる。西谷さんと栗田さんが奮闘してどうやらもう時間切れで出ないらしいと分かった。仕方ない電車で帰ろうかと路面電車の方へ歩くと、なんとばったり女性陣と出会う。この街は狭い。結局全員で帰途に就いたのだがここでぼくは大失敗をやらかした。

ハウプトバーンホフ駅で郊外電車に乗り換えたのだが、1日歩き通しのぼくは前に痛めた右ひざがかなり痛くなって階段が辛い。エレベーターでホームのある3階まで行ったが、みんなは2階で降りる。何で降りるんだろうと思っているうちに3階に着くと太ったおじさんがいて「ナッハ・ヴァーネミュンデ?」と聞くと「ヤー、ヤー、ゼクス!」とニコニコして言う。6番線に行くとなるほどヴァーネミュンデと表示があって行き止まりのホームになっている。しかし、待てど暮らせどみんな来ない。おかしいなと下へ行ってウロウロすると西谷ひさこさんが「フクダさーん!」と呼んでいる。これはいかん、ホームを間違えたかと足を引きずって駆け上がったが時すでに遅し、うちのかみさんが車内で手を振りながら列車が遠ざかってゆく。

ここでぼくは俄然一人旅モードに切り替わった。栗田さんは時刻表を見て一番早い電車のホームを確認していたのだ。ぼくは人任せで聞いても聴いていなかった。早速時刻表を見ると15分後に電車が2番線から出るとある。6番線は45分後だった。あのおじさんも嘘をついたわけではない。もっとも時刻表には2番線とあったが実際に来たのは1番線だった。同じホームだから問題はなかったが、まあそういうことはよくある。

帰りの電車からは木材を山と積んだ貨物車が延々と続いているのが見える。またこの電車には子供用の席も用意されている。窓際にあってなるほど子供が喜びそうだが、人口密度が日本とは全く違うとはいっても次代の子供たちを大事に育てようという点はやっぱりちょっと違う。身体に合わせてちゃんと座らせようという考え方はぼくたちにもなければなあと考えさせられる。そうかと思うと海上から見えた原子力発電所が電車からは間近に見える。2基ある発電所の1基から真っ白い蒸気が立ち上っているのが手に取るようだ。原発削減に動いたドイツがこれからどう動くのか、国情が違うとはいえ高濃度廃棄物処理と併せてどうなるのかこれも注目しなければなあと余計なことを考える。


ヴァーネミュンデの駅に着いたとき、なんといっても感激したのは思いもかけず女性陣に迎えられたことだ。心配をお掛けしてまことに申し訳ない、わが女性陣は優しい。

この日の夜10時、帆船ペキンのケープ・ホーン航海の映画が上映された。物語ではない。実際にカメラマンが実写したものをDVDに落としたのだろう。年代は定かではないがこの帆船は現在ニューヨークのピア16に係留されていて中を見ることができる。ぼくも1995年の10月にこの船を見ている。保存状態はあまりよくないが4墻バーク型のかなり大きな鉄船でもちろんエンジンはないから戦前の船だろう。そういった時代に、よくも撮影したものだとただただ感じ入る。

見るとケープホーン近海は荒れに荒れた海で、ヒールした舷側から大量の海水が甲板に流れ込んで流れてゆくさまが、おそらくシュラウドから撮ったのだろう、はっきりわかる。当然フィルムのカメラでそれもかなり大きな映写機だったに違いない。撮る方も命がけだ。この映画の中で穏やかなときに水夫のシュラウド登りが撮影されている。熟練の水夫に頼んだのだろう。前に書いたようにたった1人で文字通り「ましらのように」登るさまは見事というしかない。

ついでにいうと、以前元海王丸の船長荒川博さんが提供して下さったギュンター・シュルツ画伯のペン画「セイリング・ラウンド・ケープホーン」(ザ・ロープの例会で上映されたことがある)は、この時のペキンかもしれない。少なくともこの絵は4墻バークを描いているのだ。

8.ヴァーネミュンデ(Warnemünde)


第8日(2013年8月10日)
この日の朝、ドアの下に1枚の紙が入っていた。クルーに対するチップを払ってくれるだろうかという請求書ではないがまあ要請書だ。本船では日常のチップはまとめて後で払うことになっている。乗客1人当たりウエイターに1日3ユーロ、キャビンスチューワードに1日5ユーロで、8日間で合計64ユーロ、8,320円ほどになる。もちろんこれ以上でもいいのだがぼくは2人分を標準額で記入した。これは後で買い物などと一緒に請求される。

今日はパレードに備えてだろうクルーがTシャツではなくてセーラー服を着ている。甲板の上にあるロープもなんだかバカにきれいだしボラードにも飾り巻きをしているようだ。

出航するとたくさんの帆を揚げ始めた。注目したのはめったに揚げないフィッシャーマンを揚げたことだ。これはメインとミズンマストのステイスルの上に揚げる帆でかなり大きいし、シャックルでマストに沿わせるので面倒なのだ。今回はメイマストだけにこの帆を揚げていた。

揚げたフィッシャーマン。ステイスルよりかなり大きい。常置する帆ではないので甲板まで持ち上げてくるのが大変だろう。 
メインフィッシャーマンを揚げているところ。レールが曲がっているので手を掛ける必要がある。

やがて9時半にはテンダーで船の周りをまわって写真を撮らせてくれるという。ちょうどパレードに備えてほとんど総帆を揚げているので撮影にはもってこいだ。どやどやとテンダーに乗り込んでカメラを構えるが、何せ屋根のある船だから見通しのいい場所は限られている。そこに大勢乗るものだから押し合いへし合いになる。幸い何とか席を確保してカメラを構えたが、隣には体の大きい岩崎さんが大砲のようなニコンを構えて身を乗り出す。何せセミプロ級の人だから夢中になるとカメラ以外には目がいかないし、無類にヒトがいいからクルーが手を振るとそれに応えずにはいられない。こっちの視野にその手が入る。ねぇ岩崎さん、手を振るのをやめてくれない、あらそうごめんなさい、と謝られてもすぐまた手を振る。岩崎さんと争ってもそれは無駄というものだ。

でもこの人は後で写真を見たがすごい腕を持っているのに決して人の写真をけなさない。福田さんのは水平線が揃っているものね、などと不自然でなく褒めてくれる。心底人がいいのだろう。テンダーを操縦するクルーはみんなに過不足なく写真を撮ってもらうために右に行き左に行き、時には停まりでいろいろ工夫してくれた。言葉は分からなくてもその熱心さは十分に伝わる。

10時15分には撮影会を終わって本船は昨日とは違う埠頭に帰る。もうその頃には続々とたくさんの帆船が集まっていて、港の入り口からロストクの方向に指定された場所へ急ぐのだろうか、本船の周りはいっぱいの船だ。セイルアムス2005の時もそうだったが、歓迎の伴走船も多く、小さなヨットからモーターボート、消防自動車が乗っかった双胴船、そうかと思うとパイロットの船から埠頭にはドイツ海軍の駆逐艦かフリゲート艦かだろうステルス形式のスマートな姿で係留されている。本船はおそらく10万トン以上あると思われる客船と大型帆船(名前はよく分からない)の間の狭い空間に出船の形で見事に接岸する。パレードまでしばらくの休憩だ。ぼくはここでカメラのレンズを14~42mmから42~150mmに交換する。パレードに望遠は必須だ。昼食を終えて近くのマーケットで買い物をしている間に雨が降り出した。すぐ止みはしたもののどうも雲行きは怪しい。船に戻ると明日の下船に備えてスーツケースを整理しておく。朝の4時までに廊下に出しておけという指示だ。

午後4時に出港のアナウンスがあった。いよいよハンザセイル・パレードが始まる。もっとも後になって聞いたのだが、今回は天候の都合かあるいは他の理由があったのか定かではないのだが整然と各帆船が並んで行進するパレードは中止ということだった。乗っているとなんだかあちこちと動き回って全くパレードという雰囲気ではない。それでも港内沿岸にはたくさんの見物人もいるし、お客を満載したフェリーのような船が付いてきたり、小さなモーターボートが一杯伴走したりしている。グリーンと赤の標識灯を過ぎて港外に出るといろいろな船があちこちにいる。ただ距離があるものだから肉眼でははるか彼方だ。

その内に港の外は風が出てきてあちこちに白波が見える。そこを走り回るものだからオランダのリーボードを備えた帆船は白波を受けて盛んに船首から波をかぶっている。やがて横に見えるようになるとジブの下半分はすっかり濡れている。船にいうのもなんだけれども、けなげ、という言葉が思わず口をついて出る。

その沖合で本船は錨を入れた。前の方に黒球を1個掲げる。もっとも実際には球ではなくて半円形の針金に黒い布を張ったものを直角に交差させたものだ。こうして錨泊していると右手からいきなりサーフボードが本船の船首を横切って前方に出てきた。そしてあっという間に右旋回して視界から消えてゆく。船の速度ではない。水面に接している面積がきわめて少ない上、大きな帆だからグライダーのような速度が出るのだ。推定だが90km/hは出ていたと思う。50ノットに相当するがもっと出ていたかもしれない。外洋であれだけの速度を出すのだから相当の腕前だ。

午後8時には夕食。この日だけはバッフェ形式で、みんなで本船最後の食事を楽しむ。やがて甲板に出ると重なり合った雲の彼方から夕陽が輝く。落ちようとする太陽が厚い雲に覆われて僅かに開いた隙間から黄金色の光が海面にスカートのように広がる。神様が天から降りてくるみたいと周りはいうが、まさに絶好の撮影チャンスを与えてくれた。

逆風になるので本船は早めに出発するといいうアナウンスがあり、帰って行く他の船同様、本船はトラフェミュンデを目指す。その夕日の射す黄金の舞台に先行している大型帆船が近付きぼくたちはカメラでそれを狙う。もうかなり寒い。岩崎さんたちと粘りに粘って撮った写真をいくらか自慢たらしいが見て頂きたい。

甲板に出ると重なり合った雲の彼方から夕陽が輝く。まさに絶好の撮影チャンスを与えてくれた。


9.トラフェミュンデ(Travemünde)


第9日(2013年8月11日)
昨夜は最後の夜ということで、寒い甲板から戻ったピアノバーで寄り寄り集まってああじゃこうじゃと写真を見ながら話が弾んだ。もうみんな百年も前からの友達のようで寄り集まっても違和感はちっともない。中心はやっぱり正式に写真の修業を積んでいる岩崎さんになる。後で頂いた写真を見ると、構図もそうだけれども色合いやトーンもしっかりしていて、専門家の助言はやはり貴重なんだろうと思う。

午前4時にスーツケースの回収というから、ネボスケのぼくは自信がない。まあ邪魔にもなるまいと寝る前に部屋の前の廊下の片隅に置いておいた。これが正解。栗田さんは寝過ごしてあたふたと頼み込んでスーツケースを始末してもらったとか。トロピカルバーにはいつも重要な項目を書いてあった白板に有難う、またすぐ会いたいと紋切型だがちょっとうれしいことが書いてある。残念だけどこっちはもうご縁がなさそうだ。

7時50分には出発地のトラフェミュンデに着岸、計算書とパスポートを受け取って8時半に懐かしのスターフライヤーを後にする。バスでハンブルグに向かう。「ぼくの日本語は…」と叫んだ若者がまた来てくれて世話を焼く。気温は16℃とかなり寒い。ハンブルグ空港ではまだこの地を回る栗田さんご夫妻と別れ、この旅行はここで目出度く解散となった。


エピローグに代えてー契約と情報の出し方



本文ではあえて触れなかったのだが、代理店である王子さんご夫妻、特に荻原久美子さんには大変お世話になった。日本の代理店「メリディアン・ジャパン」としての最初の文書に「今回のご旅行手配は、個人旅行手配となり、いわゆる団体旅行とは手配の進め方が違います…添乗員は同行しませんので…」と断っている。一方で「…乗船中は日本語アシスタントが、皆様の快適なクルーズのお手伝いをいたします…」とも書いてある。簡単にいえば添乗員としてのサービスはしないがお手伝いはするということで、ここが大変難しい。

これはサービスに対する契約条件だが、われわれは添乗員費用を払っていないのだからこの条件は当然でもある。一方で今回のクルーズでは他の旅行会社から35人という大人数の日本人団体客が乗船し、2人の「添乗員」が付き添った。一般的にいえば添乗員は客の安全を確保し日本語で世話をするのが役目であり、それによって成績を評価される。客による過剰なサービスを要求されてもむげに断れないだろうし、他の団体への配慮もついおろそかになろう。目の前でこういったサービスの相違が出るものだから、当然いろいろ誤解も生じる。もっと事前にいってくれればとか、本来自ら調べなければならないことも要求したくなるのだ。

どういった情報をどのように出すかはなかなか難しい、例えば船長を囲んで夕食をする機会があった。その際にぼくは知らなかったが、英語のできる人はその テーブルに集まってくれという噂があったという。これは情報の出し方としては上手くない。船長を囲んで夕食をするから有志の方はそのテーブルにどうぞと言 えば済む。英語ができなければ食事中にこりともしない船長と何で一緒に食卓を囲むか、という選択肢を与えることになるからだ。聞かれればいつでもお手伝い しますよといわれても、何で事前にいってくれないのということもまあいいたくなる。

それやこれやで、荻原さんは最後に荷物出しのことなどを文書で 配り大変助かったが、これは少し添乗員仕事に踏み込んだのかもしれない。口頭では全員に理解してもらうことがなかなか難しいと感じたのだろう。下手をする とおれは知らなかったと言われかねないからだ。いろいろあった中で荻原さんはよく勤めて下さったと思う。改めて感謝の意を表したい。

まあ、何はともあれ帆船の旅はいい。船を身近に感じる。いろいろ考えればぼくの人生の最後を飾る船旅かもしれない。そうでもないよと思いたいのだが…

 

(おわり)
2013.10.29

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