メルボルン余聞—国際会議をちょっと覗くと
はじめに
国際会議なんて物々しい感じがするが、これも人の集まりであるからにはかなり人間臭い一面を持っている。内容はともかく、どういった雰囲気なのか覗いてみるのも悪くはないだろう。随分と昔(23年も前)の話だから、それだけに影響もなかろうと、少し気楽にメルボルンというきれいな街と併せてそれをお伝えしよう。
世界中で食品を流通させる場合、国によっていろいろ基準が違っていたら面倒なことになるのは間違いない。それならみんなで世界的に共通の基準を作ろうではないかといって始まった組織がある。これを「コーデックス委員会」といって、できた基準を「コーデックス規格」という。まあそれはどうでもいいのだが、ぼくは長年にわたってその中のナチュラルミネラルウォーターの国際規格に携わってきた。
国際会議はそもそもが政府間協議だ。わが国でいえば食品の規格は農林水産省、食品衛生は厚生労働省が担当しているからこの両省が面に立つのだが、役所といえどもすべての専門家が揃っているわけではない。ミネラルウォーターといういわば食品ではローカルな分野には民間の知識が必要で、ぼくはテクニカル・アドバイザーとして国際会議の日本代表団に加わっていた。
詳しいことは省くけれども、ナチュラルミネラルウォーターの規格は長年にわたる論争の末に投票の僅差でヨーロッパ形式が採用され、決着がついている。その後、それ以外のボトルドウォーターの規格を作ろうということになって、部会の担当国スイスがアメリカにその原案を作ってほしいと頼んだ。
その原案を検討するのにわざわざ部会を開催するまでもなかろう。幸い翌年の2月にオーストラリアで別の部会があってみんなが集まるだろうから、それを利用して非公式ワーキング・グループで検討しようということになった。
こういった次第で、1998年の2月、オーストラリアのメルボルンで開かれる部会にぼくは参加することになったのだが、国際会議の参加は現地集合、現地解散が習慣になっている。だから会議以外は一人旅となる。本式の会議ではなく非公式ワーキング・グループという小さな会議だけれども、国際会議の雰囲気がなんとなくわかるだろう。
メルボルンへ
日本時間を示す時計は午前3時半を指している。機内で一眠りした後、資料を読んでいると仕事をしているように映ったらしい。親切なキャビンアテンダントが冷たいトマトジュースとアイスクリームもいかがですかという。変な取り合わせだが、しゃきっとするにはもってこいの目覚ましだ。間もなくブリスベーンという機内放送があって、窓から外に目を凝らしたが真っ暗で何も見えない。それでも水平線とおぼしきあたりが微かに赤くなっているようだ。それが着陸までの30分間に見る見る明るくなり、ブリスベーンの空港に降り立ったときは爽やかな晴天の早朝になった。
2月22日の午前5時を過ぎたと空港の時計が告げている。時差2時間なら午前6時の筈なのに。でも旅の不思議は解明すべきではなく郷に従うべきことをぼくは何回かの一人旅でとうに学んでいるから、早速オーストラリア用の時計を5時15分に合わせる。後で聞いたらブリスベーンは夏時間を採用していないのだとか。同じ国内でまちまちというのはどうなっているんだろう。
この時期のこんな時刻に入国する人はほとんどいなくて、入国審査の窓口は2つしか開いてない。ぼくの通過した窓口はおかっぱ頭の若い女性が審査官で、入国カードを見て目をクリクリさせた。
「国際会議?」
「イエス」
よほど退屈していたのか、早速身を乗り出して、何の会議だという。
さあ困った、だいたい「コーデクス食品輸出入検査・認証制度部会」の会議なんだが、その本会議には本当のところは用がなくて、会議の間に開かれるボトルドウォーターの非公式ワーキング・グループにぼくが出席するために来たんだと、そんなややっこしいことをアイスクリームでしゃっきとさせたぐらいの頭で午前5時に説明しろという方が無理というものだ。
「カンファレンス オブ CCFICS・・・あー」
と、とっさのことで部会の正式名称などどこへやら、略称でごまかして天井を向いていたら、テキさんも察してくれて、トピックスははなんだという。やれやれ今度は大きな声で
「ボトルドウォーター!」
変な顔はしたけれど、これ以上聞き出すのは無理だと思ったのだろう、幸運を祈られた上に、入国審査官と握手したのは初めての経験だった。
この空港は国際線と国内線の建物がちょっと離れていて、バスで行けと機内放送がいっていた。ロビーの外にバスを見つけ、ヒゲを生やした立派な運ちゃんに国内線に行くかねと声をかける。わざわざ運転席から降りてきたこの人は大男で、ぼくを見おろして行くけれどクーポンを持っているかいという。どうやらロビーの中で国内線のチェックインを先ずしてこいということらしい。航空券を見せるとうなずいてあっちがと指さし、クワンタスのカウンターだという。
クワンタス?ああ、われわれのいうカンタス航空のことだ。そこでチェックインして、ボーディングパスと一緒にもらったチケットを渡す。OKきみは只でバスに乗れるんだとにっこり、さあどうぞと肩を抱かんばかりにして乗車を促す。クーポンとはこのことだったかとやっと分かるが、見上げるように大きなこのオーストラリア人はなかなかいい人あしらいをする。
たった一人で乗っているハイデッカーの大型バスに数分間揺られながら、もう二度と来ないかも知れないブリスベーンを心ゆくまで眺める。空港という殺風景な場所の所々に南国の花が咲き、遠くに見えるのは港を横切る高速道路だろうか。夏だというのに時刻が早いせいか暑くはなく、爽やかな微風さえある。緯度でいえば南緯27度程だから、日本でいえば鹿児島の南、薩南諸島ぐらいだろうか。やがて国内線のターミナルに着くと彼はぼくを振り返って、きみはクワンタスだからここで降りなければいけないという。国内線はカンタスとアンセットと大きな会社が2つあって、カウンターが離れているのだ。良い旅を、ありがとう、とお互いに手を振ってバスを降りる。
ほんのちょっとしたことだが、こんなふれ合いに、生まれて初めてのオーストラリアを好きにさせる何かがある。「国内線ターミナル、カンタス航空カウンターでございます、お忘れもののないようにお降り下さい」というアナウンスとは違うのだ。
カンタス航空613便ボーイング737-300は6時には飛び立ち、すぐに朝食のサービスがあった。キャビンアテンダントが何やら早口で聞くのだが、何だか料理の名前らしいということしか分からない。だいたい何時もイエスというのは問題があると思っているから、今度ばかりはノーという。どうやらそれが裏目に出たらしい。隣のおじさんは何かオムレツのようなものをつついているのに、ぼくのところはシリアル付きのコンチネンタルスタイルで、パンとコーヒーしかない。今更あっちがいいともいえず、武士は喰わねど(食べてはいるけれど)高楊枝、健康にも良いと腹にいい聞かせる。今度からはたとえキャビンアテンダントがいやな顔をしようとも、納得が行くまで聞き返そうと固く決心をする。
快晴の空から見るとオーストラリアの様相は日本と全く違う。都市周辺の緑はすぐ砂漠に変わりそれが延々と続く。かなり赤茶けた色で、小なりとはいえここが大陸であることを見せつけているようだ。おまけに、何と小さな空港かと思ったのはメルボルン空港のすぐ南東にあるエセンドン空港で、成田だけでフウフウいっている日本とは、どだい土地の広さが違う。
ほぼ1500kmの距離を丁度2時間でメルボルン空港に着いたが、ここの時計は午前9時を指しているから、ぼくは時計をまた1時間早める。メルボルンは夏時間の最中なのだ。ここでやっと時差2時間となった。
どこの国でもタクシーの運転手は話し好きが多い。ミクロネシア系だろうか一見恐ろしげな風貌の運ちゃんも愛想が良くて、どこから来たのかに始まり、思ったより涼しいねというと、いやいや3日前はとても暑くて閉口したのだとか。ここが初めてなら何でも市電に乗るのが一番で、ほらね、あそこにある茶色の電車が見えるだろう、あれならタダで乗れるから是非利用した方がいいとか、そこにある公園が、と窓まで開けて指さして、有名なフィッツロイ公園で、あなたの泊まるホテルがヒルトン・オン・ザ・パークというのはこの公園の前にあるからだと、ホテルの回し者のようなことまでいう。
オーストラリアはどこでもチップが要らないと聞いてはいたが、28ドルのメーターに思わず30ドルを払う。そのせいもあってか、ホテルに荷物を預けて早速街へ繰り出そうとしたとき、プッと警笛を鳴らす客待ちのタクシーを見ると、くだんのミクロネシア氏ではないか。やぁ、さっきはありがとうと手を振ると、向こうも白い歯をむき出して顔の前で手のひらを振る。こうしてメルボルンの第1日目が始まった。
キャプテン・クックのコテージ
メルボルンは現在のキャンベラに代わるまではオーストラリアの首都だったし、この国は今に至るまで英連邦の一員だから、何とはなしに英国のにおいがある。市内に公園が多いのもそのせいかも知れないが、われわれの宿であるこのヒルトン・オン・ザ・パークの前も、市で一二の広さを持つフィッツロイ公園になっている。ぼくがこの公園に関心を持つのはキャプテン・クックゆかりのコテージがあるからだ。何はともあれ、ここを訪問しなければならない。
というわけで、チェックインに早いことは承知で、荷物だけを預けようとホテルに入ると、果たせるかな午後2時でなければ部屋が空かないという。もちろん荷物はお預かりしますといわれて、ついカメラの入ったバッグまで預けたのはまずかったが、ふと傍らを見ると、なじみのマリアンさんがいるではないか。
彼女はアブドゥル・マリアン・ラティフという厳めしい本名を持ちながら、どんと来いお母さんのようななじみやすい人だが、マレーシア代表団の中核をなす人物でもある。ぼくの出る国際会議ではしょっちゅう顔を合わせるので、旧知の仲といっていい。
「お元気? 貴方は1人で来たの?」
「ありがとう元気だし、もちろん一人で来ているよ。」
「オー、ユアー・ストロングマン!」
だと。
何がストロングマンかと思うけれども、外国旅行中に特に何かトラブルがあって放送ではよく分からないからと誰かに説明を求めると、決まって貴方は一人かと聞かれる。どうも日本人は団体で行動するものと決めて掛かっているのか、あるいはこの弱々しい老人?(当時ぼくは68歳だったが)が1人でいるわけはないと思うのか、未だに訳が分からない。
彼女は一緒にいた2人の男性を紹介してくれた。シンガポール代表団のチュア・シン-ビン博士とシュウ・シアン・タイ博士で、何れも中国系のシンガポール人。国家開発省の一次産業局に属し、チュアさんは獣医公衆衛生・食糧供給課の課長、シュウさんは同課所属の獣医公衆衛生研究所長だ。
仲間を待っているというマリアンさんを残して、別のホテルに帰るというチュアさん達とホテルを出ると、前に書いたミクロネシア氏がタクシーの運転席から挨拶するのに答えて公園に入る。が、行けども、行けども目的のコテージが見えない。やむなく木陰で休憩中の中年の婦人に聞くと、わざわざ立ち上がって少し離れた道まで案内してくれて、遥か彼方の建物がそれだと教えてくれた。オーストラリア人は概して親切で、ウロウロしていると黙ってみていられないらしい。このときに限らず、何時も親切にしてくれたからこれは国民性といっていいだろう。
イギリス本国から移築したというキャプテン・クックのコテージは、当時の質素な石造りの外観そのまま、思ったよりずっと小さい。付属しているハーブ園の方がはるかに大きいが、3ドル払って中に入ると昔のイギリスの田舎の生活がよく分かる。極めて小さいベッドは当時上体を起こして寝る習慣があったからか、あるいは船乗りであったクックがコット(吊り寝台)の習慣を持ち込んだのか。
建物の一部になっている家畜小屋が土産物の売場になっていて、どうも気になることがある。キャプテン・クックの乗艦であるエンデバーの記念品があるのだが、何れもバークと書いてある。帆装を見るとどうしてもこれはシップ型だ。ミズンマストにヤードがあるからバーク型の筈はない。我ながら余計なこととは思ったが、売場のおばさんにバークではなくてシップタイプではないのと聞いてみる。私は分からないといわれて、そりゃそうだろうとは思いながら、どうも納得できなくて、帰ってから文献に当たったら、模型の写真はシップ型だが文章には「帆装はバーク」と書いてある。その謎は未だに解けない。
おばさんに変なことをいったお詫びに、エンデバーの絵柄の指ぬきの土産物を買い、それでも充分に満足して街中へと出掛ける。メルボルンの中心街は変な構造で、地域全体の道路はほぼ南北に整然と十字形になっているのに、長方形をした中心街だけがその中で右上がりに少し回転した形で斜めになっている。中心街の東隣にあるフィッツロイ公園は、だから北に上がるほど中心街に出るのに遠くなる勘定だ。
ホテルでもらった地図はこの中心街だけしか書いていないので、全体の位置関係がつかめないまま、いくら歩いても目的の中心街に出ない。ホテルで着替えもできないまま、下着こそ薄いのにしてあるものの、2月の日本から来たのだから上着はエクセーヌ、ズボンはウール、いや暑いこと。いい加減くたびれ果てた頃、例の茶色の電車に出くわした。
いいのかいなと、いくらか遠慮しながらこの只の電車に乗って、やれやれと腰を下ろす。白人だが、オーストラリア人には珍しくぼくよりもかなり背の低い、フットボールのように育っているおばさんが手にいっぱい説明のパンフレットを持って日本人かい、と聞く。よくは分からない説明をいろいろ聞いていると、この電車は中心街の外周を時計回りに回っていて、停留所は外周道路と交差する通りの名前になっている。例えば、外周の南側のフリンダーズ通りを走っている時、スワンストン通りと交差する停留所はスワンストンという。北側のラトローブ通りを走っている時でも、スワンストン通りと交差する停留所はやはりスワンストンという。
便利だろ、というおばさんにOK、それなら1週間通用のパスを売ってくれないかというと、それはアンダーグラウンドで買えという。丁度今度の停留所が(北側の)スワンストンだから、反対側の建物を下へ、とぼくのへそを指して、降りればアンダーグラウンドの駅だよ。ありがとう、アンダーグラウンドといってもメルボルンに地下鉄があるとは聞いていないし、何だろうといぶかしくは思いながら、とにかくその階段を下りる。後で地図を調べると、郊外電車が中心街に入るときに地下鉄になるのだ。
トラム(路面電車をここではこういう)の「ゾーン1」の1週間のパス、とこれは予備知識があった。18ドル60セントしたこのパスはとにかく便利だった。これで大手を振って有料トラムに乗れるのだ。たまたまこの駅はメルボルンセントラルという一大ショッピングセンターの下で、メルボルン大丸デパートもこれに隣接している。ここでオレンジジュースとピザ、それにサラダで8ドル50セントの昼食を簡単にとって、パスをひらめかしながら“有料の”トラムでホテルに戻る。
農水省のAさんを首席とする日本代表団と合流、夕方には資料の打ち合わせをして、皆で食事に出る。どこでも目に付く中華街でいかにも美味しそうな店に入ると、厚生省関係の人達も先行していて、やぁ、衆目は一致するんですな、と大笑いになった。
満腹してブラブラと街を歩いていると、2頭立ての馬車の御者が、どうだ乗ってみないかという。さして遠くもないけれども、6人いる仲間がまあ話の種に乗ってみるか、となった。シルクハットを被ってそれなりの格好をしているし、屋根付きの2頭立ての馬車なんぞ、そうそうも乗れまいというわけだ。1人10ドル、とこればかりはかなり粘っても御者はがんとして譲らなかった。60ドルが安いか高いか分からないけれども、パカパカと夜更けの南国をぎゅう詰め馬車に揺られるのも悪い経験ではない。目隠しはしていたが、降りたホテルの前で鼻面を撫でたら、この馬はちょろっと手を嘗めてくれた。
ホテルでの会議
何やら不安な夢を見ていたのか、重い海の底から浮き上がるような感じで目を覚ました。サイドテーブルの数字は0935と見える。もう9時過ぎか、何ぃ!9時半? 冗談じゃない、今日は9時半から受付が始まるのだ。文字どおり飛び起きて、顔も洗わず、もちろんヒゲも剃らず、服を着て掌につけた水でなけなしの髪の毛をぺちゃぺちゃと撫でつけて部屋を飛び出す。泊まっているホテルが会議会場であることがなんと有り難いことか。
20階が会議室、とエレベーターの中に出ていたが、どうも様子がおかしい。
「申し訳有りませんが、CCFICSの会場はここでしょうか?」
「あらまあ、ここはメンバー用の会議室ですよ」CCFICSの会議場はねと、この健康そうなご婦人はにっこり片目をつむって親指を振って付いてこいという。親切にも1階(われわれのいう2階だが)の会場まで案内してくれた。登録を終えて会議場へ入ったのは9時45分、いやー早業だった。
農水省のBさんがニヤニヤしながら今部屋へ電話したら出ないから見に行こうかと思っていたところだという。ぼくの喘息持ちを知っているから、きっとぶっ倒れていると思ったのだろう。それにしても何でこの醜態を演じたのか。よくよく考えたら、何のことはない、セットした目覚ましをオンにするのを忘れていたのだ。
本来ぼくはこの「コーデクス・食品輸出入検査・認証制度部会(CCFICS)」の会議には直接の用はない。ないけれども日本代表団のアドバイザーとして登録しておかなければ中に入れないし、おそらく別室で行われる筈のボトルドウォーターの非公式ワーキング・グループに出席することが出来ない。しかし、そうはいってもぼく1人会議中にぶらぶらしてはいられないから、それらしい顔をして代表団の末席に連なった。そんな思いが、この朝の油断に繋がったのかも知れない。恐い話しだ。
そうたくさんの例を知っているわけではないけれども、会議のホスト国によってその運営に違いが出る。コーヒーブレークも単にコーヒーと、まあクッキーぐらいで済ませる国もあるが、ここオーストラリアはイギリスの伝統を受け継いでいるのだろうか、そもそもコーヒーブレークといわない。モーニングティーといい、午後はこれがアフタヌーンティーとなる。会議場の前の広々としたロビーにしつらえられたのは、熱々の紅茶のサーバー(もちろんコーヒーもある)に牛乳、それと嬉しいことに焼き立てのスコンだ。ダブルクリームとジャムもたっぷり用意されている。
エッセイスト賞を受賞したドクター・リンボウこと林望さんの「イギリスはおいしい」を読むとこのスコンがレシピー付きで出てくるのだが「軽蔑(scorn)」と間違われないために日本でいわれているようにスコーンと伸ばしていってはいけない、という。そもそも小麦粉とバターを上手くこねてふくらし粉で焼いただけの菓子というかケーキというか、素朴な代物だから「スコーンでございます」とご大層に日本のホテルで出されても一向においしいとは思わなかった。
ここはなにしろ半分は本場だ。さぞやと思って手に取ると、「ガッと獅子のように口を開け」とまでは焼けていないが、サクサクしてなかなかおいしい。そしてこれがまた、たっぷり牛乳を入れた濃い紅茶とよく合う。怪我の功名で空いたお腹に、日本代表団の名を辱めないよう上品に沢山詰め込んだ。
ついでにいうと、このスコンはこの日限りで、翌朝は甘いパン類、別の日はサンドイッチといろいろ工夫されて出てくる。英連邦圏ではこれが普通なのかも知れないが、ホスト国も大変だなあと思う。それと、何気なく出される紅茶がまたなかなかいい。会議場の外でもそうだし、その後シドニーにいる友人から頂いた紅茶もなくなるのが惜しいぐらいおいしかった。スリランカへ行ったからと、道端で買った安い紅茶といわれながら頂いたのも個性的で棄てがたい味だった。これら多少なりとも英国の息のかかった国々の紅茶は日常使いのものの方がおいしくて、これはもう英国流の伝統がそうさせているとしか思えない。常々思うのだが、水やお茶のようにあまり手の掛かっていない食品ほど、特に強固な食の伝統があるのじゃなかろうか。
会議場はいつもの通り、挨拶と事務局の報告から始まり、穏やかに進む。会場がホテルだからワシントンの国務省会議場のように馬蹄形になっておらず、横に広い教室型なので各国代表の顔はあまりよく見えない。席でじっとしていると、冷房の空気が直接当たって、上着を着ていても寒さで震える。それなのに、前後にいる白人系の人達は半袖のシャツで平気な顔をしているから、寒さの方に慣れているのか、それとも単に脂肪層が厚いだけなのか、これでは地球温暖化の防止は容易ではなかろう。
どの会議の冒頭でも、主催国の挨拶のあと事務局の説明がある。事務的な連絡と一緒にどこへ行けば昼食を摂るのに便利だとか、途中でこんなイベントやレセプションがあるなど細かいことを話してくれる。これを英語で「ハウス・キーピング」というのだ。なるほどねえ、と感心するのだが日本だったらさしずめ「庶務事項」なんぞと厳めしいいい方をするだろう。まあ家事には違いないなとぼくはいつも面白く感じる。
そして昼。どの国際会議でも昼食時間はたっぷり2時間をかける。昨日見定めておいたフィッツロイ公園の中にある軽食堂へAさんたちと行く。強い日差しの中を、ゆっくり歩くと何という名か、樹皮がすっかり取れて下に落ち、つるつるの表面を持った大きな木があちこちに聳えその木の表面に細工をしたりしてある。小道の両側には所々にきれいな花が植えてあり、芝生の緑に映える。
食堂は結構繁盛していて順番待ち。ローストターキーのサンドイッチに絞りたてのオレンジジュースを頼んで7ドル半。現金換算で710円ほどになる。これがカード換算にすると660円だから、オーストラリアの現金円の換算率は極めて悪い。
ジュースだとその場でくれるが、コーヒーを頼むとテーブルナンバーは?と聞かれる。後で持ってきてくれるからだが、気持ちのいい屋外のテーブルの番号が見えなくて、つい面倒なものだから、屋内で食べることになる。この地ではコーヒーといってもカプチーノを頼む人が多い。なかなかおいしいが、最初にコーヒーを頼んだときはホワイトかカプチーノかと聞かれてめんくらった。ホワイトとは何だと思ったら、これが牛乳入りの、日本でカフェオレと称しているものだ。考えてみれば、ブラックコーヒーというのだから、ホワイトがあってもちっともおかしくない。
第1日目の会議が定刻に終わり、夕方6時半からレセプションだという。これはAQISとANZFA、つまりオーストラリア検疫・検査所とオーストラリア・ニュージーランド食品局との共催である。モーニングティーをサービスしたロビーが会場になる。この朝渡された公式の招待状によると、ロビーといわずにフォイアーというらしい。部屋へ一先ず戻ってヒゲを剃り、一張羅の背広は変えようがないから、せめてネクタイを取り替えて下におりる。それと、これも朝もらったコアラの金色のピンがアクセサリーになる。
ぼくはこの部会が初めてなので(そして多分これで終わりだろうが)、あまり知った顔はない。それでも二、三の顔見知りとむにゃむにゃと挨拶を済ませる。そのうちフランス代表団のドゥ・ビュテさんとばったり顔を合わせた。彼女はいってみれば長年の宿敵で、ナチュラルミネラルウォーター部会や、食品衛生部会では間接的にやり合う仲でもある。少し年配の痩せぎすの女性で、ドクターでもあるがナチュラルミネラルウォーターに関してはフランス式の信奉を固く守る人で、そういった意味での宿敵だ。
ぼくに必要なのはワーキング・グループの方で、そのためだけに来たのだと話すと、彼女は私もそうだという。パリにある「ミネラルウォーター同業者組合」の部長というのが彼女の肩書きだから、当然そうだろう。いつものようにお互いの幸運を祈って握手をして別れる。
Aさんが長々と話しをしていた黒いドレスの若い女性を紹介してくれた。アラセリ・アルバレスさんというフィリピン大使館の農業関係のアタッシェで獣医さんでもある。大きな目をくるくるさせて、昨日の夜公園でポッサムを見たのよという。何でもこの動物は夜出るらしいが、こんな話しならとても楽しい。1時間半が長いような短いようなレセプションだった。
非公式ワーキング・グループ
このホテルでぼくの部屋は1412号室つまり14階にある。窓はほぼ南に面していて、郊外電車の線路を隔てた向こう側に夜間照明設備を備えた大きな競技場が見える。これがメルボルン・クリケットグラウンドで、遥か左側にはこれより小さいリッチモンド・クリケットグラウンドがある。この辺一体は前のメルボルンオリンピックが行われた主会場ということで、もう一つ向こうの線路を隔てた公園を含めてメルボルンパークといい、その向こうがオリンピックパーク、やたらとグランドやテニスコートが多い。地図で調べると全部で14の施設があり、2つのクリケット場が断然大きいのがいかにもイギリス風だ。
テニスコートも地図の上ではただ単に「オーバル」と書いてあるだけで、何の競技場か分からない。散歩のついでに、通りがかりのおじさんにオーバルって何だと聞いて、テニスコートだと分かった。ただ、やたらと競技場が多いといっても、その周辺が又やたらと広くて、施設が点在しているといった感じだから、散歩にはもってこいだ。
この日は幸い目覚ましのスイッチはオンになっていて、朝の8時には気持ちのいい朝日を浴びてクリケット場前の広場に散歩に出掛けた。木の柵の向こうは芝生というより牧草地のようで、周辺の高い木々が鮮やかな緑の上にまだ長く影を落としている。林の中には舗装道路があって、ぶらぶらしていると通勤の途上だろうか、何人か若い人達に会う。この人達は、ホテルの前にある停留所からトラムに乗るのだろう。
広場からホテルの前の道路に出るには、郊外電車の線路の上に架かる小さな橋を渡る。地下から現れた電車をこの橋の上から撮っていたら、とんと肩を叩かれた。白髪混じりの立派な紳士がにっこり笑って写真を撮ってあげようという。好意に甘えた写真が手元にあるけれども、どうも今一つ冴えない。これはカメラのせいではなく、モデルのせいではある。それにしても貴方の写真も記念に撮らせてくれぐらいはいうべきだったと、毎度のことながら後悔は先に立たない。
この24日は、非公式ワーキング・グループを本会議終了後に開催すると予告されていた。非公式ワーキング・グループといっても、その前提になる長い、長い、経過がああってそれを知らないと話を詳しくしてもちっとも面白くないから、取り敢えず会議の雰囲気を知る程度のことに留めておく。
ワーキング・グループのメンバーであるスイス、フランス、アメリカ、カナダ、オーストラリアの意見は既に文書になっていて、農水省のAさんの手でとうにわが国の意見との対比検討と対策が終わっている。後は各国がどう出るかが問題というわけだ。本会議が意外に手間取り、ワーキング・グループの会合は午後7時からということになった。
1時間半ほどの間に少し腹ごしらえをしなければと、夕食をゆっくり取りに行くという他の代表団の人達と別れて、Aさんと厚生省のCさんの3人、不案内な土地を歩く。近所、といっても歩いて15分ぐらいのホテル・ソフィテルの地下に軽食を売っている売店を見つけ、ターキー、チーズ、ベリーのサンドイッチとトマトジュースで5.4ドルを払って吹き抜けの広場にしつらえてあるテーブルでおしゃべりしながら食べる。おいしいというのではないけれども、会議前の少し緊張した雰囲気の中での会話と食事はそれなりに楽しいものだ。
午後7時というのは、このメルボルンではまだ十分に明るい。ホテルの一番西の端にある会議室には真横から夕日が一杯に差し込んでいる。こりゃ眩しいね、と主催者側は何とかブラインドを降ろそうとするが、どうも上手くゆかいない。その夕日を背中に浴びて、スイス事務局のエヴァ・ツビンデンさんが議長役になって会議が始まった。
非公式ワーキング・グループということで、人数を制限したために、全部で10人のこじんまりした会議だ。ツビンデンさんは30台後半だろうか、すらりとした金髪のなかなかの美人さんである。長い髪を掻き上げながら、さてどうしましょう、という感じで会議を進行して行くが、この会議のメンバーはわが代表のAさんも、アメリカのスカルブローさんも、又他の代表もみんな穏やかな雰囲気でとげとげしい感じは少しもない。
そのうちブラインドが降ろされ、部屋が落ちつくと、穏やかではあるけれども鋭い意見の対立がはっきりしてきた。もとよりこれまでの経緯と背景からすれば、簡単に妥協点が探れるような議題でないことは始めから分かっている。当然とはいえ、スイスとフランスは、アメリカ、日本、カナダ、と対立し、オーストラリアは何となくはっきりしない。
そもそもこの会議の前に、アメリカが作った原案に、スイスが事務局として勝手に手を加えて“ミネラルウォーター”という項目を削除しようと勧告したので、わが国もアメリカもそれはルール違反だと憤慨し、文書でも抗議した経緯がある。しかし、一方アメリカもスイスの事務局に民間の団体から直接コメントを出したという弱みがある。これも変な話しで、非公式ワーキング・グループで検討中ということは当然政府間での下打合せであり、民間と相談することはあっても、それはあくまでも政府機関として相談しているので、その民間機関がいきなり事務局に意見を出したら、これもルール違反になる。
アメリカは事前に文書でこの点について遺憾の意を表明しているが、スイスは自らのルール違反には何も触れず、文書を出していないアメリカの団体からコメントを受け取ってびっくりしたわ、とこれが逆の武器となって、スイスのルール違反はうやむやとなった。ツビンデンさんは弁護士ということだが、このあたりどうしてどうしてしたたかだ。
こうして2時間に及ぶ議論は、単に“ミネラルウォーター”を入れる、入れないだけで終始し、内容そのものには全く入れない。ある意味これは当然で、ヨーロッパ側はEUの法律でナチュラルミネラルウォーターの名称と紛らわしい「ミネラルウォーター」という用語を禁止しているから引くに引けないのだ。ひとまず休憩しようということで、廊下にでると、自然にスイスとフランスを除く代表の首席だけが集まって、何とかしなければと相談になったらしい。
ぼくは厚生省のCさんと椅子に座って待機していたが、そこへフランス代表の補佐をしている例のドゥ・ビュテさんがやってきた。
「日本の本国で、ある会社がヨーロッパタイプのナチュラルミネラルウォーターを作る計画があるということを聞いたけれども、本当なの?」
「ヨーロッパタイプって、コーデクスに基づいたナチュラルミネラルウォーターという意味なの?」
「そうよ」
「それは考えられないねぇ」
納得しづらい様子の彼女に追い打ちをかけた。
「それには理由があってね…」
ヨーロッパでは一般細菌がかなり(つまり1ml当たり数千個ぐらい)あっても問題にならないが、日本では食品衛生法で一般細菌が多い(1ml当たり100個以上)と違反になるので企業としてはメリットがないからだと説明した。実際に後で当の日本の企業に確かめたところでは、ビュテさんの誤解でそんな事実はない。しかし、フランスがいろいろな情報を手に入れたがっていることだけは確かなようだ。
この話し合いをそばで見ていた厚生省のCさんは、ビュテさんがいなくなってから「さすがぁ!」と手を叩いてくれた。彼女は若いからまだ経験が浅く、ミネラルウォーターも専門ではないからなのだが、なに、専門用語が多いからぼくでもこの程度のことなら話ができる。彼女はよく知らないから買いかぶっていたのだ。
再開されたワーキング・グループでも、論議は堂々巡りで、一向にらちが明かない。Aさんはアメリカ案を無修正無コメントで各国に流す案をがんとして譲らない。アメリカやカナダもそうだ。とにかく、一晩頭を冷やそうということだろうか、ツビンデンさんが明日もう一回会合を開こうと、お開きにしたときにはもう9時半を回っていた。
やれやれ、疲れはしたがもう一度食事を取り直そうと、その後で街へ繰り出したのはいうまでもない。いやー、みんな若い。
会議の決裂
1週間もメルボルンにいるというと、いいねぇとよくいわれるがほとんどの時間が会議だから、街中をウロウロする機会は土日か事務局の作業日しかない。申し訳ないことに、今度のように本会議が主題でないぼくにとっては、なるべくなら街を見る機会を多く作りたい。というわけで、少し慣れてきたこの2月25日には1人で街へ朝食を取りに行くことにした。
ホテルの前がウエリントン・パレードと呼ばれる大きな通りで、街へ出る途中からこれがフリンダーズ・ストリートに変わる。しかし、ホテル前でトラムに乗れば直通で中心街に出られるのだ。人口が少ないということもあるのだろうが、トラムと呼ばれるこの路面電車は、交通機関としてはトップクラスの効果があるようにみえる。昔の都電と違って、一段高くなった停留所があるわけではなく、線路と道路の間、ほんの人の幅ぐらいの間隔で、道路側に柵があるだけで、停留所の名前と番号のある標識がぽつんと立っている。
だから、この停留所ともいえない空間に、2人重なったら電車にぶつかる。人が多いときは道路側の柵にぺったり背中を押しつけて、電線の雀よろしくずらりと横に並んで待たなければならない。もっとも、そこはよくしたもので、トラム自体がゆっくり走るし、人が重なっていればチンチンと優雅な音で警告する。それでもダメなら、トラムの方が止まって待つというまことに嬉しいことになる。
こういった交通システムは、人が自分で身を守るという自覚がある限り、道路側の自動車の流れをほとんど妨げないという利点を生む。また、車の方も線路に入らないというルールをかなり厳格に守って、トラムの交通を妨げない。ぼくが見た限りでは、車が線路に入ったのは只の1度、それもすぐに右折車線に入ったときだけだった。日本だったらこの停留所は危険だときっと論議になるだろうなぁ、とちょっとばかり悲しい。
まあそれはともかく、この朝ぼくはホテルの前からトラムに乗ってスワンストン・ストリートへ出た。別にどこと当てがあってのことではないけれども、ここがメインの通りだから、きっと朝食をとる人もいるだろうと見当をつけただけだ。停留所の右側はフリンダーズストリート・ステーションという単純明快な名前の郊外電車のドーム型の立派な駅で、たくさんの人達が通勤の途中だろうか、続々と出てくる。
ラトローブ・ストリートの方へぶらぶら歩くと、マグドナルドの店などもあるけれども、どうも月並みで面白くない。何かないかと眺め回していると、歩道の端に店開きしている屋台があった。屋台といっても歩道に面した店の出店で、ザ・ボディショップという奇妙な名前だ。小さなカウンターとクーラーショウケースが2,3台、なにがしかのパイプ椅子とテーブルがあって、お客は一人もいないが、あまりぐずぐずもしていられない。
中国系とおぼしき若い女性に何がおいしい?と聞くと私はこのケーキをお奨めしますときた。それがまたとてつもなくでかくていかにも甘そう。それでも聞いた手前それを注文し、その他にカットした果物の詰め合わせと牛乳をもらって5ドル半払う。果たして甘党のぼくでさえ持て余すようなケーキで、半分以上残してこの朝の冒険は終わり、旨そうなものは自分を信じよ、という教訓が残った。
この日の昼は、オーストラリア食肉協会主催の昼食会で、串刺しのビーフなど、いかにもオーストラリアを感じさせるものだったが、会議の方は「食品輸出入検査・認証制度に関連する同等性」の問題の提議やらニュージーランド代表団の説明やらがあって、かなり長引き、終了は午後6時を回った。
ワーキング・グループの会合は間をおかずに、昨日と同じ部屋で6時半から始まった。ほぼ同じメンバーだが、この日のスイス事務局のエヴァ・ツビンデンさんは、何となく昨日と違い、何やら決心をしているという感じを漂わせていた。
昨日と同じ論議が少しあってから、ツビンデンさんは、各国の代表に昨日とは違った提案ができるだろうかの確認を求めた。わが代表のAさんは、もとより立場は変わらない、無修正、無コメントで各国に回付すべきだと主張する。アメリカのスカルブローさんは、2つの提案をした。つまり、修正案とコメントもつけて回付する案と、無修正の案の回付との2つである。
スカルブローさんはいかにも学者風の、長身を折り曲げて、といった感じでぼそぼそと話す。穏やかだが、迫力があるという風情ではない。後の方は日本案と同じだね、とAさんが念を押すとその通りと返事があった。カナダ代表のロン・ブルクさんはアメリカと同じ提案をした。
しかし、フランス代表のドュサンさんがアメリカ案は受け入れられないと強硬に主張した。このドュサンさん、根は正直な人らしいが「フランス」の考え方を頑として変えない。格幅のいい体格で、顔を真っ赤にして(彼はすぐ赤くなるのだが)手を振る。おまけに他の代表ほど英語が堪能でないのに話を止めることはせず、とうとう途中からフランス語で話し始めた。
生憎なことに、議長役のツビンデンサンはスイス人だからフランス語も堪能で、ベルン在住だからおそらくドイツ語もしゃべれるのだろう。2人だけのフランス語会話となったのには驚いた。議長!と手を挙げて、日本語で話してもいいですか、と聞けば、おそらく彼女、私は日本語が分からないので、と答えるだろう。そしたら、ニヤリと笑って私はフランス語が分かりません、といってやりたいと思うほど、ぼくは切歯扼腕の呈だったのだが、Aさんも他の代表も、仕方ないなという感じで何もいわない。
しかしどっこい,Aさんはフランス語も堪能で、彼は透明性のある方法で処理すべきだといっているのですよと、後で教えて下さった。おそらくフランスとスイスは事前に協議していたのだろう。オーストラリアのテイラーさんは、はっきりした意見を述べていないがこれまでの経緯からすれば、6カ国中、4カ国がまあアメリカ案を支持しているわけだから、かなり大義名分がなければそれを退けることができないと思ったに違いない。
その大義名分が透明性のある処理、ということなのだが、つまりこれはコーデクスの手順書に基づいて処理しようということだという。これは変な話しで、もしそうなら最初からアメリカに原案の作成を頼まなければいいのだ。スイスがホスト国なのだから、自分で草案を作ることはいくらでもできたはずである。
なぜアメリカに頼んだかは未だに謎だが、とにもかくにもこの案を受け入れることはヨーロッパのナチュラルミネラルウォーターの考え方を基本的に変えることにつながるから、スイスもフランスも絶対にできないことは明白で、そのために強引にことを運ぼうというわけだ。その点は他の代表もとうに知っているから、まあしょうがないなと分裂を予想していたのかも知れない。
ツビンデンさんは最後に、アメリカの規格にある案をそのまま各国に回付するわけには行かないといい、ワーキング・グループを解散してコーデクスの手順書にある方法で通常の手続きに入りたいといった。そしてこれが透明性を確保する上で重要だと重ねた。
これは有無をいわさぬやり方で、彼女はこの見解についてワーキング・グループの意見も求めず、一方的に宣言して非公式ワーキング・グループは雲散霧消したのだ。もちろん非公式ワーキング・グループを主催したのがスイスだから、それを解散する権限はあるしても、わが代表3人で食べたその夜のダニエルズのテンダロイン・ステーキの味は今一つだった。
クイーン・ヴィクトリア・マーケット
ふつう国際会議では、最終日の前日が事務局の作業日となり、前の日までの討議と結論を要約して印刷し、これが仮報告書となって最終日の修正用のテキストになる。もっとも案件や議論の多い会議ではこの日の午前中まで討議が続くこともあり、そうなると事務局は大変なことになるらしい。また会議が長引いてナイトセッションとなる日もある。
事務局も大変だが、それと同時に通訳がへたばる。専門用語の多い会議でもあるし、興奮するとしゃべるほうの口調は早くなる上に、下手をすると手元のマイクのボタンを押し忘れることすらある。マイクは通訳ブースに直結しているから、発言するときにこれを押さないと通訳できない。イヤホーンを通じて、マイクのボタンを押してくださいと通訳から直接言われることも1度や2度ではない。全部直結だから本人だけでなく全員に知られてしまう。
おまけに通訳は1人でできる仕事ではないから交代で行うのだが、声を聞くと多くても1か国語で3人ぐらいのようだ。これが夜まで続いたらそれは参るだろう。ある会議では、とうとう通訳が音を上げて会議を終了せざるを得ないこともあった。こういうときは事務量も増えるから、事務局は徹夜作業になるという。他の部会でも最終日に議長が事務局に、ほとんど寝ていないのにご苦労さんでしたとねぎらうことがよくあった。ついでにいうと、当時の国際会議の公用語は英語、フランス語、スペイン語でわれわれは英語で聞かざるを得なかったのだ。
今回の本会議は比較的平穏に終わった(ワーキング・グループは別だが、これは本会議と関係ない)から、26日の木曜日は1日まるまる事務局の作業日となった。つまりそれ以外の代表団にとっては休日を意味する。やれやれ骨休みと思ったら、わが代表団のうち厚生省関係のCさん達はこの日衛生関係のセミナーがあるとかで、休みどころではないという。
お国のためにしっかり聞いてきて下さいなどと、それぞれ休暇組は勝手なことをいいながら、お目当てのところへ出向く。ぼくは朝方Aさんと昨日の結果についての打合せとまとめを済ませた上で、一緒に民情視察に出ることにした。
その街を知る一番いい方法はマーケットを見ることだという。地図を見ると中心街の北の外れにクイーン・ビクトリアという名前の大きなマーケットがある。ここはビクトリアストリートに面して、クイーンストリートを挟んで2つのブロックにわたる大きなものだ。何をおいてもここを見ない手はない、というわけで民情視察。
まずはエリザベスストリートをトラムで行き、入り口近くの停留所で降りる。もう既に11時半を回っているからとにかく軽食でも、とすぐ角の店に入る。パン屋が本業らしくて、いろいろパンを売っているが、取りあえずクロワッサンとカプチーノをもらって2ドル45セント、街中より安い。しかしヨーグルトドリンクが1ドル90セントとあるから大きさはかなりあるとしても約167円、ちょっと高いかなぁという感じだ。
Aさんは大男で縦も横もたっぷり、ぼくは高さこそはるかに劣るけれども、横はそこそこ勝負になる。期せずして2人ともクロワッサンを頼んだのはこの横巾がものをいっているのだ。どうもよくない。マーケットは東側の小さい方のブロックが鉄筋の平屋で、ここには魚屋とか肉屋とか、パン屋まで入っている。西側の大きなブロックは屋根だけあるオープンの市場で、野菜、果物、卵、衣服、帽子、お土産の玩具までなんでもござれの感がある。
建物の中はいくらか冷房も利いていて過ごしやすく、魚屋の店先を覗くと日本でお馴染みの魚が多い。が、どことなく違う。鰯も、鮭も、鯛も、鯵もあるのだが、何となく違う。例えば鯵は尻尾の近くにあるギザギザがない。鮭もどことなく色が違う。食べたわけではないので味の程は分からないが、それでも、やあ久しぶり、とこの魚達にいいたくなるほどには似てはいる。
でも、ここは何といっても肉の国だ。肉屋がずらりと並んで、あるある、本日の特売とか、お買い得とか、でかでかと書いて値段が表示されている。残念ながらぼく自身日本の肉の値段には疎いけれども、値段表示がほとんど1kg単位というのに先ず驚く。だいたい食品の小売単価は買いやすい量が基準になるのは洋の東西を問わない。
昔(といってもぼくが実際に使った経験のあるほどの昔だが)日本で小売値段が百匁(375g)単位だったのも丁度買いやすい量だからだ。今はそれが100グラム単位で継承されている。だからここメルボルンの肉屋で1kg単位の値段が付いているということはここの消費者が少なくとも1kg、ときに2~3kg以上買うことだって当然なことを意味している。肉の国だなぁと感嘆するゆえんだ。
一番安いのは挽き肉で、3kgで5ドルとあった。特別値段とはいうけれども、1kgにすると147円、100グラム換算で15円とは日本では考えられまい。カナダ産と出ていたが、ティーボーンステーキ用の肉が2ドル99セント、つまり100グラムで26円になる勘定だ。カットしてあるラム肉はいかにも旨そうで、ぼくは大好きだが、これが5ドル99セント、100グラム当たり53円となる。おまけに牛の舌が何本も吊るしてあって、値段は1ドル50セント、値札にはイーチとあったからこれは1本当たりの値段だ。牛タン1本で、多少の大小はあろうけれども、132円とはやはり安い。
この市場では、現地の人達がワゴンに山のように買い物をしているから、市民の胃袋の供給源でもあるのだろう。これは野菜果物市場でも同様で、一抱えもあるメロンが220円、じゃがいもが6kgで3ドル、つまり1kg当たり44円となる。こう見ていると、いくら食べ物の値段に疎いぼくでも、オーストラリアの食材がいかに安いか、というより日本の食品がいかに高いかということに気がつく。と同時に店の量からして、オーストラリア人の肉と野菜の消費量がいかに多いかも思い知らされる。ここでは肉が主食だろうから、安くなければやって行けないのだろうが、翻ってわが国の主食がここの肉と同じ感覚の値段だろうかとふと疑問も湧く。
冷房の利いた建物を出てオープンの野菜市場に出ると、とたんに猛烈な熱風に見舞われた。このときはたった1回だったが、暑い風というような生やさしいものではない。かなり前、製ビン工場を真夏に見学したことがある。当時のガラス工場は熱制御が悪くて、働いている人は塩を嘗めながら作業すると聞いたが、その工場でもここよりはるか増しだ。それでいて、夕方になると22℃位になるのだから、慣れないと身体が確実に変になる。
そのオープン市場で卵を売っている。われわれの常識からすると卵は買って帰れば冷蔵庫に入れるし、市場では冷蔵こそしないけれども陽の当たるところに出したりはしない。ましてこの熱風にさらすようなことがあればたちまち文句が出るだろう。生で食べる習慣がないとはいってもそれほど無頓着なのかとむしろ感心する。食品衛生の会議で、卵の有害菌リステリア・モノサイトゲネスが問題になるのももっともだと変なところで思い出す。
酷暑のオープン・マーケットはそこそこに引き上げて、近くにあるメーシーデパートに入ってほっとする。Aさんはオーストラリアでしか売っていないという南北逆転した地図を買いたいという。普通の地図は当然のことながら北が上だからオーストラリアは一番下になるが、南が上ならこの国は位置の上で北半球に君臨することになる。
気持ちは分かるが、そんな地図があるのかなぁと思っていると、Aさんがデパートや土産物売場でダウンアンダーの地図はないかといくら聞いても、いや置いていないという。散々聞いた上で普通の本屋ならあるかも知れないと、大通りに出て探した本屋で聞いたらいともあっさり、ありますよという。やはり餅は餅屋だと2人で大いに感心した。
南北逆転なんて、どうということはないと思っていたが、この地図を拡げてみると感じがまるで違う。広々とした南半球の中央にでんとオーストラリアとニュージーランドがあり、はるか両側に南アメリカと南アフリカがちょんと出ている。北半球は下の方にごちゃごちゃと固まっていて、何となくせせこましい。大げさにいうと世界観が変わる。たまには逆に地図を見るのも悪くない。
メルボルンの公園
会議の最終日は27日の金曜日、この日は新しい議題はなくて、前日に事務局が用意した仮報告書をみんなで修正する作業だけだ。修正するだけとはいってもこれがなかなか大変で、激論のあった部会などでは、まず冒頭に議長が、「本日はテキストの記述の修正のみを取り扱う。議論の内容には踏み込まないように注意してください」と念を押す。
それでも各代表団は必死だ。「わが国はこうこういったではないか、だからそれを議事録に入れてくれ」というのから、「この発言はわが国がしたのだから国名を入れるべきだ」などなどことあるごとに表明する。国益もさることながら、出席して大いに発言したという証がこの報告書だから、代表団は個人としても必死になるのだ。これは特に発展途上国の代表団に多い。出席の費用だけでも大変な国では成果を見せる必要があるのは分かる気がする。まことに人間臭い一幕ではある。
それでも今回は先ず穏やかで、12時40分には会議が終了した。ぼくの方は会議そのものではなくワーキング・グループが本業だから、前日にAさんと打合せをした結果などを取りあえず厚生省のCさんに説明する。これから別の会合があるというCさんと別れて、もう人影も少なくなったロビーをAさんと歩いて行くと、あのドンと来いお母さんのマリアンさんがソファーに1人だけで座っているではないか。
早速Aさんと話しが始まった。が、これは単に世間話ではない。マリアンさんが代表しているマレーシアは、今度のワーキング・グループで明確な態度を表明しなかった。というより出席をしなかったのだ。彼女によると本国政府から明確な指示がなかったからだそうで、ぼくは前に個人的にでも出てみたらとはいったのだが、非公式ワーキング・グループとはいっても当然個人的には出席できなかったろう。
だからAさんとしては、マレーシアの情報をつかんでおく必要があった。残念なことに2人の話しにぼくはついて行けない。なにしろマリアンさんの話は、機関銃なんてもんじゃない。何本もある銃身そのものが回って、1秒間に何十発もの弾丸が出るガットリング砲のようなものだからだ。彼女もそこは十分承知していて、やがて「ミスター・フクダには理解できないわね」とゆっくりいってにっこりする。しゃくだけれども事実だから、それぐらいゆっくり話してくれればね、と応じざるを得ない。
40~50分も話しただろうか、また会いましょうと別れて、Aさんと昼食に出た時にはもう1時半を回っていた。何となく開放感を味わって、今日は別のところにしますか、とホテルの並びを少し歩いてイタリアンレストランに入る。いかにも地元のレストラン、というよりもイタ飯屋という感じで、額のはげ上がった、若いのだろうけれどおっさん風のウエイターが注文を取りに来る。鴨肉入りのスパゲッティを二人とも注文するが、Aさんとは何かと食べ物の趣味が合う。
飲み物は?と聞かれて、昼間から酒でもあるまいと、辺りを見回すとなじみのミネラルウォーターがある。
「サン・ペレグリノをね。」
「おー、サン・ペレグリノを知っているのか。これはイタリーで一番有名なヤツだ」
とウエイター氏が感激する。してみると、異国の客がこの水を指名することはめったにないのだろう。ちょっとばかり鼻が高い。
たっぷりというよりは、ものすごいというほどの量があったこのスパゲッティは、しっかりした固さと、つやつやしたオリーブオイルが香ばしい鴨肉とよくマッチして、とても美味しかったが、カプチーノを加えて19ドルはこの辺りとしてはいくらか高い。それでもしっかりと全部を平らげて店を出ると、いやもう腹一杯と眩しい日差しを仰ぎ見る。
在メルボルン公使館にいる友人に用があるというAさんと別れて、さてどうしようと思案する。明日は早立ちだし、もう午後も3時を回っている。そう時間があるわけでなし、遠くへも行けないから、ここは一つ公園の街といわれるメルボルンの公園を回ってみようと思い立った。いくらかのお土産を買いに寄ったせいもあって、街の北西にあるフラッグスタッフ公園に立ったのはもう午後5時50分だったが、まだ斜めに陽が射して、緑の芝生に木々が影を映して縞模様を作っているのが美しい。
名前の通りこの公園には1840年に船の出入りを告げる旗竿が立ったという。かの有名なクリッパーシップ・カティサークが建造されたのが1869年だから、この船やそのライバルだったサーモピレーもおそらくこのメルボルンにウールクリッパーとして入港したことがあったに違いない。そしてその度に、これらの船が入ったことを告げる旗流信号がこのフラッグスタッフに翻ったのだろうか。
その昔、この岡からはるかに広がる風穏やかなポートフィリップ湾を、華麗なシップ帆装のカティサークが全帆を展帆してしずしずとこの港に向かってくる姿に、胸を弾ませた人々もいただろう。130年後のぼくが想像したってそうなのだから。
しかし、しかし、なんたることか、この公園に立って、どこを見回しても、ポートフィリップ湾どころか目に入るのは高層のビルばかり。南側はなるほど坂が下ってはいるが、海のウの字も見えない。「高いビルの向こうにメルボルン港が・・見えるかも知れない」と確かに書いてあった筈だ。ぼくは憤慨してもう一度案内書を確かめた。「目を閉じれば・・」というのがその回答だった。案内書というものは、よくよく正確に読まなければいけない。
中心街を抜けてヤラ川を渡り、南に下ると左手にキングスドメイン、王領地とでもいうのだろうか、広大な公園が広がる。この中には王立植物園も、戦争慰霊館もある。このドメインの前でトラムを捨て、停留所に降り立つと反対側がビクトリア・バラックだ。延々と続く石造りの塀の中央に堂々たる建物があって、銘板はヘッドクオーターズ・サポートコマンド・オーストラリアと読める。オーストラリア予備軍司令部ということだろうか。バラックとあるからには兵舎に違いないが、どうも現役軍とは思えない。
その証拠に、およそ人気のない司令部の建物の左右にある大砲は、砲車が付いているものの、砲身は昔ながらの先込めのカノンだし、少し離れたところに置いてあるのは、砲楯も駐退もあるがどう見ても明治大正期の山砲だ。これはやはり昔の記念物なのだろう。
向かいのドメインはおそろしく広い公園で、気持ちのいい道をさっさとヤラ川の河畔まで横切って出る頃には、もうほとんど日が傾いて、ここに架かるスワンブリッジから眺めると、スマートな競艇フォアのオールの先が4つ、白い渦になってぽつぽつと続くのが見えるばかりだ。歩き疲れてホテルへ戻ったときにはすっかり暗くなっていたけれども“公園の街”を堪能したという思いが快い疲れを誘った。
翌28日は土曜日で、朝の8時にはチェックアウトを済ませて空港に向かう。例によってタクシーの運転手は、日本から来たのかとか、メルボルンを堪能したかとか、いろいろ話しかける。よく見るとここへ来たときのかのミクロネシア氏とは風貌が違い、色こそ浅黒いが眼鏡を掛けて一見インテリ風であるし、物腰が丁寧だ。
「きみはタクシーの運転手が本業なの」
「ノー、タクシーはぼくのパートタイムの仕事で、金を稼いで日本や中国に行きたいと思っているんです」
「きみの本業は何なの?」
「ぼくはスリランカ人で、電子技術者です。・・・のアレンジメントをやるのがぼくの仕事です」
その「・・・のアレンジメント」というのはぼくの理解の他だったが、間もなくここを出てタイにいる友人を訪ねるのだとか。あちこちに友人を作っていろいろな国を見たいといい、3月に日本へ行く予定だから、電話をしてもいいかという。
教えた会社の電話を危なっかしく運転中にメモしていたこのアブドゥルと名乗る青年から、未だに電話はない。と書いたのが1998年の8月なのだが、翌年そのアブデゥルから電話がかかってきた。いま東京にいるのだが会えないだろうかというのだ。あいにく用事が重なってどうしても会えなくて残念だったので、住所を聞いて船の絵柄のTシャツを送った。するとしばらく後にスリランカ製だろう、象の華麗な木彫りがわが家に届いた。その象は今でも書斎の本棚にドンと居座っている。
おわりに
国際会議を覗いてみると意気込んだわけではないが、まあ普通の人が政府間の国際会議を覗くことはあんまりないだろう、それならせっかくメルボルンまで行ったのだからこの優雅な街を紹介しながらちょっと話をしてみようかというのがこの小文のきっかけだ。
メルボルンはとっても緑が多い。それほど広くもない中心街を少しでも外れると多くの緑に囲まれる。出会った人たちも1人で出歩く日本人にとても親切だった。長くいたわけでなないが、何事にもゆったりしていると感じさせる。いろいろな人種がいるけれども、それが問題になっているようにも見えない。一言でいえば、旅人にはいい街なのだ。
一方で、国際会議というのは中に入ってみるとかなり人間臭いものだと感じるだろう。国益を背負って臨むことは間違いないにしても、議論の中で耳を傾けさせるのはやっぱり人柄だ。立場は違っていても友人になれることもある。ちょっと違う立場で会議に臨んだぼくの偏見かもしれないが、あながち間違ってもいまい。
この小文の大部分は報告書の別文として1998年に書いている。2021年のいま、23年前のことを思い出しながら、この形式にまとめるためにいくらかの修正と追加をした。また写真もあまり鮮明でないのは大部分が当時の写真をスキャンして掲載しているからだ。それにしても、こうやって纏めてみるとなんだかとても懐かしい気がする。
2021年2月2日
福田正彦