サザンイングランドを旅して(前編)
―ザ・ロープ40周年記念海外旅行の勝手気ままな記録―
ザ・ ロープ創立40周年にあたり記念行事の一つとして企画したイギリス南部のツアー。2015年6月17日(水)から11日間の日程で、ロンドンを起点にして、西のブリス トル、西南のプリマスと近郊の港町、南岸のポーツマスを廻り、ひとたびロンドンに戻りグリニッジとチャタムを巡る旅である。参加者は15名。
はじめに
「食事が来るよ」ハントはその背中に向かって言った。
「いつもと同じでしょ」ドアの陰からリンの声が返ってきた。
「どうしてわかった?」
「イギリス人て習慣を変えたがらない人種ですもの」
「わざわざ生活をややこしくすることはないからね」(池央耿訳)
これはぼくのごひいきのSF作家ジェイムズP. ホーガンの名著「巨人たちの星」に出てくる場面で、恋人と一夜を過ごした朝、主人公ヴィクター・ハント博士とアメリカ娘リンとの会話である。
ザ・ロープ40周年記念旅行と銘打ってイングランド南部の港や海事博物館を見て回ろうという企画に乗った時、こういったイギリス人気質(かたぎ)も覗いてみたいと思った。ホーンブロアといい、ボライソーといい、またラミジでも、ポーツマスから、あるいは故郷の館から馬車を駆ってロンドンの海軍委員会に駆けつける場面がいくらでも出てくる。そういった街道筋をぼくたちがバスに乗って辿ることも出来るのではなかろうか、おそらく、おそらく「習慣を変えたがらない」イングランド人のことだから、田舎の雰囲気は当時を偲ばせるものではなかろうか。
牛堂さん、というちょっと変わった名前の現地スルーガイドの説明を聞くと今やロンドンには「連合王国」の旅券を持たない人が40%以上も居住しているという。果たして英国がその影響をどれほど受けているのだろうか。もちろん10日の旅で詳しいことが分かろう筈もないが、雰囲気がぼくに何かを教えてくれるだろう。そんなこんなも取り混ぜて今回の旅行はぼくにとって大変興味深いものになった。
もとより旅は道連れによってその楽しさが決まる。ザ・ロープの“ソウソウたる”と言って差し支えないと思うが、その14人が道連れでそれぞれがこの旅でいろいろな能力を発揮して周りを納得させた。その最たるものが松原さんで「ぼくは気が小さいから」と言いながらその精密な企画能力は瞠目に値する。
その松原さんの「他意のない独断」で名簿の若い順、つまり入会間もない人から順に各地での正式な旅行報告書が出されることになっていたが、そのうちにぼくも含めて多くの仲間がそれぞれ書いてロープニュース増刊号として発刊された。これは大変ありがたいことで、ぼくは勝手にいろいろ書くことを間接的に許されたことになる。年寄りのたわ言になるかもしれないが行動記録にあまり捉われることなく思いついたことを書いてみたい。
そういえば、昔から「妄言多謝」という言葉があった。冒頭にこれを掲げておく。
(福田正彦)
1.ロンドン London
成田から乗ったブリティッシュ・エアウエイズ006便の機材はボーイング777-300だった。離陸から着陸まで11時間56分の空旅で、これはかなりきつい。この飛行機はそれでもなかなか快適で天井も高いのだが、昭和初期の男性平均の身長には荷物の出し入れに手が届かない。たかだか天井から荷物を降ろすだけなのに、他人様の手を借りなければならないのは悔しいやら情けないやら。
それでもやっとやり方を見つけた日本語の映画よりも、ぼくが大いに興味を持ったのは飛行経路の3Dマップだ。立体地図と銘打っているだけあってこれまでの 経路図とはちょっと違う。まず拡大縮小がかなり効く。たとえば極大にすると飛行場の滑走路が出てきてその上を飛行機のマークがのろのろと動く。離陸直後か ら飛行経路が黄色い線で残るから、極小にすれば今飛行機が地球上のどこにいるかが一目でわかる。おまけに地球を回転させることだってできる。つまり飛行経 路を上から見たり、斜めに見たりできる。なるほど大圏航路を取っているんだなあと一人でご満悦という次第。旅慣れた人には珍しくもなかろうが、ぼくはこれで長旅がかなり慰められた。はてなと思ったのは空港付近の下界がぼやけていることだ。軍事施設があるのかもしれない。
ロンドンの近くヒースロー空港に出迎えてくれたのはミキツーリストの小川さんという女性で、入国時と出国時のお世話担当。ホテルまでの2時間余りバスの中でいろいろ説明やら忠告を聞く。
早速出てきたのが「習慣を変えたがらない」英国人の話しで、その典型が屋根の煙突だという。悪名高い「霧のロンドン」の元凶は石炭炊きの家庭の煙突で、無数 といっていいほどの数がある。あまりのことに英国政府は石炭炊きを禁止、現在は霧のロンドンは返上しているがその象徴である屋根の煙突は頑として残ってい る。たとえ屋根の修復で煙突が壊れていようとちゃんと元通りに修繕して残す。
本来 英国の建物はレンガ造りや石造りだから周囲の壁は13世紀頃のものだというのがごろごろしている。屋根は木骨だから修繕が必要で、修理中の光景もよく見られた。
でもねえ、役にも立たない煙突を直してまで残すのか、というのが正直なところだ。とはいっても、もこもことある煙突を見るといかにも英国を思わせる。何百年も持っている煙突をなんで無くさなければならないの、というのが英国人なんだろう。
ヒースローから街中に入ると狭い道路を大型のバスが巧みな運転で通り抜ける。道路の両側にびっしりと駐車しているのは違反ではなくて、ちゃんと許可をもらっているという。年間50~60ポンド(1万円~1.2万円)というからかなり安い。役にも立たない煙突さえ壊さない国だから家を壊す気は毛頭なく、したがって道路を広げることもできず、街路樹も小公園も残すとなればこういう方法しかないのです、というのが小川さんの説明だった。
バスから見ると混雑する道路の脇に小さな公園、というよりも木と芝生に覆われた場所で何人かがゆうゆうと横になって話し込んでいる。はたの混雑なんぞどこ吹く風の態だ。こういう日常の風景はその気になって見なければどうということはないが、日本だったらたちまち駐車場にされるだろう。そのままほっておくのがイギリスだと思うとこれをちゃんと写真に撮って紹介できないことが今になって悔やまれる。あまりにも日常だとつい注意散漫になっていけない。
ロンドンは治安がいいけれども、最近になって偽警官による被害が出ているから注意して下さいと小川さん。本物の警官が民間人に自分から声をかけることは「絶対にありませんから」気を付けろというのだ。こういう忠告はちゃんと頭に入れておく必要がある。
朝5時に起きて、日本時間23時18分にロンドンに着陸し、夕食を済ませるまでに6時間が経過している。飛行機の中ではロクに寝られなかったから合計すると丸24時間ちかく起きていた勘定になる。英国時間午後9時にホテルでドタンと寝たときはもうギリギリ限界だった。それなのに、その夜近くのパブに出かけた豪傑もいたらしい。おれも齢を取ったと思わせられるのはこんな時だ。
2.ブリストル Bristol (その1)
朝の4時半、同室の日吉さんはもう起き出してテレビのチャンネルをいじっている。何日かの経験でいうと、この人は同宿の仲間として理想的な人なのだが、何しろ でかい。ベッドから盛り上がっている。髪の毛も多いしおまけにヒゲまで蓄えている。もしトドが近くにいたらヤアと声をかけるのではないかと思うぐらいだ。 テレビ関連の仕事が長かったそうでチャンネル探しは本能的なものなんだろう。ぼくはまったくテレビの英語を理解できないが、おかげで天気予報を知ることができて大いに助かった。ひとりだったらテレビを見ようとも思わなかっただろう。
ロンドンの初日だ。十分に時間があるからと2人でぶらりと出た。ここインペリアルホテルはどういう関係があるのか分からないが玄関の上に三墻シップを掲げている。すぐ目の前のラッセルスクェアーという公園から見るとどうしてどうして立派な建物で、前後併せてぼくたちはこのホテルに4泊した。この近辺は大英博物 館のすぐそばだが、その西側はロンドン大学の本部を併せいくつかのキャンパスがある。街中の一角という感じで日本式の大学とは趣が違うけれども幕末の偉い 人たちが留学したところだと後で聞いた。
7時に朝食。普段ぼくはあまり朝を重くしないのだが、旅だからねと自分を納得させてフライドエッグ、ウインナソーセージ、ベーコン、パンと盛り沢山。イギリスのパンはトースト主体で焼いた四角いのをごっそり置いてあるがどうも今一つ。ただこの日だけナプキンに包まれて自分で切取ることのできる長い白パンがあって、これはよかった。ベーコンはアメリカ式のカリカリベーコンとは縁遠く、少し乾いたローストビーフを焼いたような厚くて硬い肉で1枚でも持て余すほど。果物はオレンジとグレープフルーツを剥いてあり、ぼくの好物のデーツの蜜煮があってこれは嬉しい。イギリスだから紅茶をもらってたっぷり牛乳を入れる。
昔、 ぼくは仕事の関係でヨーロッパ諸国の乳製品関係を調べたことがある。フランス、スエーデン、オランダなどで牛乳生産量が多いのは納得できるが、当時英国は それが第4位だった。英国製のチーズなんて聞いたこともなかったから驚いたのだが、乳製品生産量を調べると英国はほとんどない。つまり大部分は牛乳で飲ん でいる。ホテルの食卓にはちょっと大ぶりのポットにたっぷり牛乳(クリームではない)が入っているのはかつての調査を裏付けるようで何となく嬉しい。
9時過ぎにバスはブリストルへ向けて出発。今日から世話を焼いてくれるのは初めに紹介した牛堂さんだ。色が黒いのでマレーシア人とよく間違えられんですがちゃ んとした日本人です、と笑わせる。30数年も英国で暮らしていて、若くは見えるがもう50歳をとうに越しているという。大変な知識の持ち主で、その独特な 解説はとても参考になった。ミキツーリストの現地駐在のベテランだろう。
ぼくたちの回った範囲の英国は驚くほど緑が多い。特に街中の街路樹は大木といっていいほど幹の太いのがある。これはプラタナスで、
「この木は幹の表面が凸凹で、煙霧の時代でも表面がボロボロ剥げ落ちでまた再生するという能力があります。それでプラタナスだけが街路樹として残ったんでーす」
と独特の言い回しで牛堂さんがいう。ほんとに二抱えもある大木がずらりと並んでいるのは壮観といっていい。同時にこれも道路を占領する一因でもあるが、煙突同様切取って若木に変えるという発想はイギリス人にはないようだ。また丁度トチの木の花が満開で、街のあちこちにみられる。群生しているわけではないが 見事なものだ。
牛堂さんは英国のパブについて長々と説明してくれる。カウンターで支払ってからビールを飲むのが基本で、ちょっとした料理を頼むことも出来る。イギリス 人は延々とビールだけを飲んで過ごすんだという。ウィスキーは飲まない、その理由は「高いですから、輸出用ですね」ということだ。また常連が多いから社 交場でもあるらしく、例えば新しいところに引っ越そうと思ったら近くのパブで一杯やる。そうするとその近隣にどういう人たちがいるのかほぼわかるというの だ。
昼にはもうブリストルの街に入り、そのちょっと外れポーティスヘッドというところにあるザ・アルビヨンで昼食。ぼくたちの最初のパブ経験だ。もっともここは料理が予約済みでビールを飲みたい人だけがカウンターで注文するというまあいってみれば変則パブ経験。
ぞろぞろとカウンターに向かうがどれにしようかどうも今一つ勝手が悪い。おまけに小銭がかなりややっこしい。ちょっとばかり時間を喰った。それでも大きな鉢に入ったトマトスープはとてもおいしかったし主菜のシュリンプのフライもいいが、付け合せのグリーンピースが英国の貧弱な野菜の中では珍しく新鮮でおいしい。うまく旬の季節だったのだろうか。満腹して外に出るとおじさんが二人、日光浴を兼ねてかのんびりと過ごしている。やあやあ、と手を振ってバスに乗り込む。英国は日照時間が短いから外で飲む人が多いというがこんな田舎でもそうなんだ。
午後1時40分にはお目当ての蒸気船グレート・ブリテンを目にした。この船は1845年にブリストルからニューヨークまで処女航海をしている。「セイル・ ホー」の著者サー・ジェイムズ・ビセットによると1888年に5歳だったビセットが巨大な蒸気船グレート・イースタンを見ているという。写真を見ると6本マストの外輪船だ。当時廃船寸前だったというからグレート・ブリテンは同時代の船だったのだろう。
サー・ジェイムズが長じて帆船で活躍した時代でもほとんどがエンジンなしの帆船で、港に入った時に小型の蒸気船で泊地まで曳航されたと書いてある。グレート・ブリテンよりも後の時代でもそうだから、この手の船を見るときは現代の水準で見てはいけない。当時、スクリュー推進で大西洋を横断できる鉄船がいかに 技術の粋を集めた船であったか、われわれには想像できないほどだ。もちろん英国人の自慢の種でもる。それでなければフォークランド諸島で朽ち果てようとし ていたこの船をわざわざ母港まで運んで復元しようとするはずがない。
こと船の保存となると英国人は異常な情熱と執着心を見せる。上の写真で見るとこの船はドックに浮かんでいるようだが実際はそうではない。ガラスかアクリルか知らないが、透明な板で喫水線を仕切り、その上にちょろちょろと水を流しているのだ。仕切り板は厳密に船体に密着していて、船底は腐食が進まないように乾燥空気を送って湿度調整をしている。事実船底を見るとかなり腐食が進んでいて、こういった処置なしでは維持できないのだろう。ネットの資料によると 「アリゾナの砂漠と同じ湿度にしてある」そうだ。
「豪華客船」というイメージ通り、この船の客室部分はとても豪華だ。大西洋横断大型客船時代の先駆けといっていい。そして、いつの時代でもそうだが特に当時のクルーの待遇はどうも豪華とは遠い。船首近くにあるクルーの寝室は木製の3段ベッドだった。
3.ブリストル Bristol (その2)
午後3時ごろ、見学を終えて皆がバスを待つ間に何やら問題が起こった。少し年配の英国人の女性を囲んで思案の態だ。要するに話が通じない。そこへ石川さんが通りかかって助け舟を出した。何でも英国大使館のアジア担当広報官がその女性で、アジア人の集団がこの船を見ているのだから、これはいい宣伝になると思ったらしい。みんなの写真を撮っていいか、ということだったようだ。なんで英国大使館?と思ったが、それはそれとしてみんな賛成、一緒に写真に納まった。ぼくのカメラにそれは写っていない。
「クリフトン橋を見に行きまーす」と牛堂さんがいう。これはエイボン川にかかっている世界最古の平板チェーンで吊っている吊橋だ。ところが橋もそうだがそれよりももっと奇怪なのがこの地方の干満潮差ということが分かった。ぼくは北海での干満潮差は経験している。むかしブレーマーハーフェンの港湾局を訪れる機会があり、案内されて岸壁の外側を歩いたことがある。およそ10メートルにもなろうかという高い岸壁が海側に反っていて、それを多数のリブで支えるというすごい構造だった。何で、と聞くとこの辺りの干満潮差は約8メートルもあるという。
ところがこのブリストルではこれが最大15.4メートルにも達すると牛堂さんは言うのだ。上の写真はクリフトン橋から見たエイボン川の様子だが 海からかなり上流にあるのにほとんど水がなく両側に泥が露出して中央に僅かな流れが見えるだけだ。これがブリストルの干潮時の様子だから驚く。英国西岸に これほどの干満潮差があるとは初めて知った。多くの有名な港が河川港であるのはこんなことも理由かも知れない。そして奥の港には干潮時に閘門を閉じて水位 を保っているのだろう。
ところで右の写真は翌日プリマスへ行く途中に同じ川沿いの道を走るバスからエイボン川を撮ったものだ。満々と水をたたえて昨日とは打って変わっている。完全な満潮時ではなかったようだが、それでもこれほどの差があるとはねぇ。実際にこの目で見ないことには想像もつかない。
いや、クリフトン橋の話しだった。これも英国が誇る鋼鉄製の吊橋で1864年の12月に建設された。両端に石作りの塔がウンと踏ん張ったような形でチェーンを支え、見事な曲線を描いている。1864年といえばイギリスやフランスなど4国の艦隊が下関を砲撃して長州藩をさんざんに痛めつけた年でもある。炸裂弾の艦砲に対して丸弾の長州砲は敵ではなかった。そんな年にイギリス本国ではこういった壮大な吊橋を作る実力があったのだ。
確か石川さんだと思うが、この石造りの塔は張りボテではなく無垢なんだと聞いて来たという。現在でも年に40万台の車が行き交うということだから、そんなことは想定もできなかった馬車全盛時代にこれほど堅牢な吊橋を作るという発想はやっぱりイギリス人だからかもしれない。しかも壮大なチェーンのアロウアンスと塔頂の僅かなズレで振動を吸収して今日に至っているその技術は驚嘆に値する。通過する車が何ポンドか知らないがいくばくかの負担をするのは当然だ(歩いたわれわれはタダだったが)。
ちょっと前に戻るが、こういった19世紀の工業技術はグレート・ブリテンにも如実に表れている。あの船の機関室を見るともちろん復元したものだろうが、すごくガッチリした蒸気機関だ。大きなロッドを動かして見せているが(もちろんモーターで、だろうが)そのロッドを見るとおそらく鍛造したものだろうが当時これほどの技術を持っていたのかと、極端に言えば鉄砲鍛冶の時代だったわれわれの国と比較して、幕末のわが国の危うさを改めて感じる。
橋の西岸に小さなレンガ造りの塔がある。ちょっとした丘を登らなければならないが、みんなでゾロゾロと登る。もういささか草臥れているし足も痛い。土屋さんは遠慮するよといっていたが、結局登ってきた。これがクリフトン天文台で18世紀に建てられたらしい。眺望は素晴らしく、最初の写真はここからの景色だ。
午後4時過ぎにバスを降りてブリストル大聖堂に向かう。大きな広場(もちろん芝生の)の後ろにある市役所と向かい合う場所に堂々と聳えている。牛堂さんはこ の何とか様式がどうとか薀蓄を傾けて説明してくれるのだが、申し訳ないことにそれを保存しておく容量がわが脳みそにはない。しかしこの教会の古い部分は 12世紀のものだというから900年にもわたって存在していたのだ。
中は写真を禁止されているから映像はない。帽子を取り敬虔な面持ちで内陣を回る。おりしも教会合唱団の練習中で、両脇に立ったメンバーが混声合唱を繰返していた。もう仕上がりの状態らしく繰り返しはなかったが、指揮者はちょっとハーモニーを気にしていたかもしれない。それでも石造りの教会での賛美歌はいかに も似合っている。高い天井から天使の歌声が響くように造られていることがよく解る。
バス が道に迷ったのか、あるいは時間合わせか、何回か同じ橋を渡って辿りついたホテルはメルキュ―ル・ホランド・ハウスという一風変わった名前で、ブリスト ルのレッドクリフ・ヒルにある。すぐ前に高い尖塔を持っている教会があり、歩くときのいい目標になった。
牛堂さんはあちらには日本食堂もあり、こちらには パブが並び、あっちはブラッセリ―もありまーす…と説明してくれたが、田中さんや日吉さんと一緒にとにかくブラッセリ―に行こうよ、ということになった。
ブラッセリ―とはぼくには慣れない言葉だが、後で調べてみるとどうやら予約不要な食事兼飲み屋ということらしい。事実運河のような水面に面したボルドー・ クゥエイという店の外に座るとちゃんと注文を取りに来る。あんまり様子も分からないからと舌平目をフライパンで焼いたものとサラダ、それに1パイントのス タウトを頼んだ。これは美味しかったが有名なドーバーソウルかどうかは分からない。デザートにアイスクリームを頼んで料金が30ポンド。これは高い、 6千円だよ。日本ならちゃんとしたレストランでそれなりの食事ができる値段だ。
それでもいい気持になって教会の尖塔を目当てに港を回り、ホテルを目指す。午後8時を過ぎているが、まだ十分に明るい。干潮か満潮かは分からないが、水面 には多数の小型船が舫ってあり、ブリストルが港の街であることを証明している。大きな並木のある道をゆっくり歩くとホテルは意外に近かった。
4. プリマス Plymouth
6月 19日の金曜日、今日も快晴で気持ちがいい。5時半に起き出したがバスタオルが1枚しかないと日吉さんがフロントに電話して追加してもらっている。慣れた ものだ。ぼくはそれにただ乗り。6時半には朝食。定例の食事だが、この日は珍しく好物マシュルームのサラダがあった。どう見ても英国は野菜が貧弱だが、 時々こうしたことが起こる。
ホテルの前の通りは並木が多くて朝の陽ざしにきれいな緑が映える。大きな塔を持つ教会に向かうとここはセント・メアリー・レッドクリフ教会だと表示があ る。ブリストル管区英国教会だ。荘重なその教会をぐるりと回って港の方へ下ると、いるいる、田中、松原、土屋、塩谷さんの面々が早朝散歩。エイボン川の別 れだろうか小さな川に変わった装飾の橋がかかっていてみんなそれに見とれているのだ。折しも引き潮らしく川の水はかなり低い。
チェックアウトしてバスで出発、プリマスを目指す。途中でエクゼターという都市の近くを通る。エクゼターだと?この名前は見逃せない。かの有名なドイツのポ ケット戦艦(当時日本では珍袖戦艦といったものだが)アドミラル・グラフ・シュペーとラプラタ沖海戦で対抗した重巡洋艦である。軽巡エイジャックス、アキリーズと共にシュペーに甚大な損害を与えてウルグアイのモンテビデオ沖で自沈に至らしめた。映画にもなってぼくは夢中でそれを見たものだ。
そのエクゼターの近くのサービスエリアで休憩。まあ見るべきものもないが、ちょっと美味そうなグミを見つけた。1個なら£3.95だが2個買えば£4だと書いてある。塩谷さんを誘って£4で2つを分け合った。グミはぼくの好物でもある。
牛堂さんの解説によると英国の地名でカスターとかエスターとか付くのは古代ローマ人が作った街で、エクゼターもこの類だろう。ガリア戦記にその名前が初めて出てくるのだそうな。ぼくもガリア戦記を読んでいるが、ブリッタニア遠征の時を含めて南方船は乾舷も低く荒れる北海地域では使い物にならないと書いてあったような気がする。もう一度調べてみる価値がありそうだ。
午後1時にプリマスに着き、市内のベッラ・イタリアというイタ飯屋さんで昼食。ここも予約済みのレストランでパン付きの大きなサラダ、挽肉たっぷりのパス タ、それに白ワインを小カップで注文。客が少なかったせいもあって粋なおねえさんがテキパキと注文を取る。それにしてもパスタは量が多い。悪いねぇと思い ながら半分ほども残してしまう。それなのにチョコレートたっぷりのアイスクリームケーキは残さず食べた。これで太らなかったらおかしい。
「ドレークの肖像がありますから、ちょっと歩くんですが丘まで行きましょう」と牛堂さんが満腹のみんなを督励して丘を目指す。ここに来るとはるかにプリマスの 港が見渡せ、移設したという灯台に向き合うようにフランシス・ドレーク提督の銅像が海に向かって聳えている。最終的に王室海軍の中将という地位に登ったが、私掠船の船長として大いに稼いで国家に貢献したことが大きいだろう。英雄の銅像はいつ見てもえらそうにしている。
プリマスの港はとてもきれいで、丘の芝生には日光浴に余念のない女性も見えるし湾の左には1620年にメイフラワーが出航したという地域がある。ここは英国海軍の重要な基地だというが、見た目にはそんな感じはない。ただ左側に古い砲台があって、何門かの大砲が覗いている。あそこを見たいね、というみんなの 要望を受けて牛堂さんが聞いてくれたのだが、軍事施設で見学は出来ないということだった。こういうところに軍港が顔を出す。
これからプリマスを中心にあちこちと2日間を過ごすのだが、地名を聞いてもどのあたりか見当がつかない。手に入れた地図でおおよそのことは分かるがどういう位置関係か、帰ってから調べてやっと納得がいった。その地図を掲げておく。
まず、中心のプリマスが本拠地でここのホテルに2泊した。最初にプリマス港を見てから東側のブリックハム(Brixham)へ行きゴールデン・ハインドを見る。55km約55分の距離だ。その日はプリマスに戻り一泊。翌日には西側のチャールスタウンへ、65分の行程だから65kmぐらいか。そこからプリマスへ戻る途中にフォイ、更にポルペロを見るという、普通のツアーでは行けない田舎の港町を見学する。コンウォールからデボンあたりの海岸がわれわれの2日間の行動範囲ということになる。
5. ブリックハム Brixham
というわけで、われわれは13時47分にプリマスを出て14時50分にブリックハムに着いた。ここでのお目当てはもちろんのことゴールデン・ハインドだ。ここ ブリックハムは英国のリビエラと呼ばれているそうで、白亜の建物が軒を連ね、港には多くの船が繋がれた保養地なのだ。が、目前のゴールデン・ハインドは地 上にドンと鎮座している。もちろんこれはかの干潮のせいで、せっかくの背景を成す白亜の住宅街もとんと冴えない。
まあしかし、何はともあれ関心事は船だ。乗船すると見るからに海賊の白髪のおじさんが体中に武器を巻きつけて歓迎してくれる。ネット資料によると排水量 305トン、全長36.5m、幅6.7mというから何とも狭い。帆走速度は8.3ノット。1577年建造のガレオンといっても、よくこれで私掠船として活 躍したものだと感心するが、それは現代の見方だ。キャラックやキャラベルで慣れた目には、おゝ新鋭の大型ガレオン船と映っただろうし、それでなければ到底 やってはいけないだろう。ただ長期航海と戦闘を考えるとドレークはそれなりに人心を束ねることができる傑物だったに違いない。一般に軍律で反乱を厳しく取 り締まるのもこういう船に何日も乗っていたら当然と思えてくるかもしれない。
この船には面白い掲示があって「ゴールデン・ハインドはおおよそ120トン(これはおそらく総トン数に近いものだろう)という平均的な船」だという。また 「スペインの無敵艦隊と戦った英国艦隊の最大のものは1100トンあり、一方で15トンという小さな船々でも大西洋を横断してまた同じ期間に帰ってくると いう危険な航海をした記録が残っている」というのだ。現に遠征時の船隊の編成表を見るとペリカン(ゴールデン・ハインドの前名)120トン、エリザベス 80トン、マリーゴールド30トン、スワン25トン、そして補給船のベネディクトは15トンとある。今の船乗りだったらとても遠征に加わる気にならなかっ たに違いない。おそらくこの遠征艦隊が無事に航海できたのは、指揮官の力量もさることながら、私掠船としての分け前つまり報奨金が多かったことが大いに貢 献したのではないかと、船内の財宝見本を見ながら思う。
ここブリックハムの町は今も漁港でもあるらしく、岸壁沿いに歩くと魚取の籠などがあちこちに置いてある。少し沖合は干潮でも十分に海面があって小さな漁船 が仕事をしている。イギリス海峡で獲れる魚はどんなものなんだろう。日本の漁船とは随分形が違うなあと覗いて見たかったがそれは遠慮した。もちろんここは リゾート地でもあるから沖合にはたくさんのヨットやモータークルーザーが見える。街も賑やかで、例によって屋外でのビールは常連さんの集まりでもあるらし い。カメラを向けるとヤーヤーと陽気な声が返ってくる。つい土産物屋で何か買ってみようという気にもなろうというものだ。珍しく記念の指貫を売っていて、 旅の度に集めているものだからいろいろな船の絵がある5個を買う。8ポンドはちょっと高い。
午後4時37分にバスはブリックハムを後にしてプリマスに向かう。地図を見ても分かるように、この道は海岸沿いではなく丘を走る。南部イングランドは山がなくほとんどがなだらかな丘ばかりで、細い道がその丘を巡って延々と続く。囲い込み地というんだろうか、低い石垣に区切られた広大な地面はいたるところ牧草に覆われて、小さな森が散在する。時々牛々がのんびりと群れていたり、羊がいると思ったらそれは豚だと牛堂さんがいう。日本と違ってかなり大型の豚だ。
この草地のいくらかには機械が通った深い溝がみえて、たぶん小麦の生産地なのだろう。でも不思議なことに牧草地にはオランダやスイスに見られるようないわゆる「牧場」という趣は全くない。あくまでも草地が広がっているのだ。これだけの田舎で農業生産が見られないのは何とも不思議ではないか。そんな疑問を牛堂さんにぶつけると、「農業生産は隠されているんです」というのがその返事だった。
例えば日本のホンダが英国に広大な工場を建設した時、その周囲に木を植えてやがて工場の風景が外から伺えないようすることが条件であったらしい。ホンダ出身の塩谷さんがそうだと言ったから本当に違いない。ハウス生産のような農業活動がもちろんないわけではない。しかし、囲い込み地に囲まれた広大な緑の丘こそが何百年もの英国の伝統的景観だとみんなが思っているらしく、それを変えないようにしようという見えない意思が農業生産も工業生産も結果的に隠している。われわれにはちょっと理解し難いが、そういった理由で今に至るまで、ぼくたちはホーンブロアが馬車を走らせたと同じ景色をバスの中から見ることができるということらしい。明るい陽射しではなく暗雲立ち込める夕方だったらもっと実感がわいただろう。
午後5時55分にホテルに着く。今夜の食事、たまには中華に行こうかと牛堂さんに教わった「ハッカ」を目指す。和食系がお好みの青木さんたちに合流したの だ。客家と書くのだろうが看板にはHakkaとしか出ていない。ぼくの知識では独特の文字と、丸い集合住宅を持つ中国の少数民族かと思っていたのだが、調べてみると漢民族なんだそうだ。どうでもいいが、思い違いがあってはいけない。
お互い老人だからね、そんなに食べられない。中国系のおねえさんと相談してシェアできますよ、と焼きそば3個とチャーハン1つを5人で分けることになった。ところがどうして、そのチャーハンが山盛り。5人がかりでも食べきれなかった。あれで一人前かねぇ。味の方は不味くはないという程度。どこでもそうだ が、まあやっぱり土地の美味しいものの方がいいねということになった。1人当たりチップを入れて£11、やっぱり高い。ここの写真は三田村さんから頂いた ものだ。
6. チャールスタウン Charlestown
ホテル・ジュリス・イン(Hotel Jurys Inn)というのがホテルの名前だがここプリマスの丘の上に建っている。プリマスは「シティかつ単一自治体」(City and Unitary Authority)なんだそうな。牛堂さんの説明によるとイギリスでシティというのは人口に関係なく国教会の大司教だったか、何でも偉いお坊さん、じゃない聖職者がいる「大聖堂」のあるところがシティなんだという。だからシティ・オブ・ロンドンなんぞは大ロンドン市のほんの中心地だけだが、やっぱりシ ティという。セント・ポール大聖堂があるのだ。
それはともかく、このホテルのすぐそばに廃墟となった教会がある。気になって朝食後にみんなで見に行った。説明版によるとこの教会は17世紀頃に建てられ たものでチャールス・チャーチというらしい。第二次大戦の1941年3月21日から22日にかけて、大空襲で全焼したという。おそらくドイツ空軍による空 襲だったのだろう。こんなところに大戦の名残が見られる。年は違うけれども3月の大空襲というとどうしても東京の下町の大空襲を想い出す。石造りの文化で はその名残も生々しいが木造の方はきれいさっぱり忘れ去られる。そのあたりも民族性の差につながるのかもしれない。
再びバスに乗って10時45分にチャールスタウンに着く。ここはプリマスから見ると昨日のブリックハムの反対側、西側になる。もう少し西に行くと重要な軍 港のファルマスだが、今回は残念ながらここは割愛。大きな錨が前庭に置いてある「チャールスタウン難破船と遺産センター」(Charlestown Ship- wreck & Heritage Centre)に入る。
ここチャールスタウンはもともとチャイナクレイ、つまり陶磁器用の粘土の産地だったようでその積み出しで栄えた所だという。だから難破船センターとはいっ ても粘土積出港の解説だったり、いろいろな船の歴史、積載物の展示、あるいは救難用潜水服など「遺産」関連の展示が多い。その中でぼくの目を引いたのが英 国東インド会社船だった。
前に歴史的な帆装のイラストを立体化した模型を作ったときに東インド会社船はぼくの想像よりもはるかに大きな船らしいと感じていた。むかし訪れたボストン の川に有名な「ティーパーティシップ」と称する船が係留してあって、これが東インド会社の船だという。ブリッグの小型船でティラーを使って操船するほどだ から、東インド会社の船はそんなもんだと思っていたのだ。1614年頃は100トンほどだったが1832年には1300トンにもなっていて、完全自給でイ ンドまで(多くの人的・物的損害はあったにしても)航海できたというのがこの解説だ。現に26~42門搭載といい、図解にあるように分解した大砲まで積ん で用意したようだからこれは立派なフリゲート艦クラスといっていい。ここでぼくの認識は大いに改まった。
それはともかく主要産業チャイナクレイの話しだ。次ページの説明図のように粘土を乾燥する工場があったようで、そこから地下のトンネルを通って港まで運ん だようだ。この港がまた奇妙な形で恐らく干潮時を考慮してか小さな水門で区切っている。専門家の屋鋪さんの解説では水位が一致した時にその水門を倒して船 を通す構造だそうな。なるほどそれなら大した動力は要らない。それにしてもやたらと狭く複雑な形にしているのはどんな理由があったのだろうか。歩き回りな がらみんな頭をひねった。
牛堂さんの話しではここの粘土は陶磁器用に使われたという。ぼくは20年近くも前に喘息で入院中にもう亡くなった渡辺晋さんに昔の大砲を作るブードリオの 英語版の本を借りて読んだことがある。それによると木芯に縄を巻き、その上を粘土で固めて大砲を作る。しかもメス型を作るためには種類の違う粘度でさらに その上に巻くことが必要だ。大砲の需要は当時非常に大きかっただろうし、当然それに必要な粘土も大量に使われただろう。おまけに陶磁器とは比較にならない 量を大砲は使うのだ。だからまったくの推量だが、ここの粘土はその多くが大砲製造に使われたのではないかというのがぼくの考えだ。ほんとかどうかは分から ない。でもそう考えると、ここチャールスタウンも何だかかなり身近な存在に思える。
7. フォイ & ポルペロ Fowey & Polperro
チャールスタウンを発ったのはもう12時も20分を過ぎていた。昼はフォイの街中で食べるからということになっている。この湾の反対側にあるフォイは距離的には近いが、バスややっぱり丘の道を延々と走る。25分を掛けてフォイに着く。
ここの駐車場は大げさに言うと山の上にあるのだ。何しろ狭い港町で昔ながらの道路だから、大型バスなんぞの入る余地はない。その山の上から延々と狭い坂道 を下る。いい加減下った先に大勢の人が群れて、華やかな音楽まで聞こえる。理由はわからないがお祭りだ。男女が狭い道にあふれ俄かごしらえの舞台の前でい いおじさんがフラフープを回している。
午後1時半には港内クルーズがあるから、それまでに昼食を済ませて下さいということだった。そうはいってもねぇ、レストランなんて見当たらないし、といい ながらお祭りの中に入るとあるある、小さなワゴンの後ろを開いてサンドイッチ屋があるのだ。ただ並みの店ではない。看板を見るとロースト・カウ・サンド イッチだというのだ。えー、ローストビーフじゃないのかねぇ、いやいやロースト・カウだと。ひどく生々しいがその焼いている状態を見るとなんだかそうで あってもおかしくないような気がしてくる。このサンドイッチ£6.5だからいい値段ではあるが、思ったよりずっと肉が柔らかく素直に食べられた。でもねぇ 量の多いこと、捨てるところもないので無理に押し込んだということでもあるんだが…。
午後1時半、7ポンドを払ってみんなで港内クルーズ船に乗り込む。最後に英国人?夫妻2人が乗り込んで定員いっぱい。船はまず港を一回りして奥へ向かう。 この辺りの港は皆そうらしいが貧しい漁村という風景は全くない。昔の要塞を含めてどう見てもリゾート地で、港にはヨットが並び、きれいな住宅が軒を連ね、 中には売り物だという大きな別荘もある。石川さん買わないのと皆がからかう。大きな工場もあるし、港の入り口には防塞用だろうか両岸にケーブルを渡す設備らしいものも見える。一つひとつの港がそれぞれ要塞村だったのだろう。
午後3時までには駐車場に戻らなければならない。人ごみの中でトイレを探す羽目になったがさあ困った。祭りのボスみたいなおじさんに聞くと、以外に親切に この下にあるよ20ペンスだがね、とにこやかにいう。探し当てたそのトイレはなるほどコインを入れなければ戸が開かない仕組みだ。さてどれが20ペンスかそれが問題だ。隣の若い衆にジャランと硬貨を見せて選んでもらう始末。やれやれ救われたと外に出たら3人も太ったおばさんが待っていた。
帰りは山の上の駐車場まで歩く勇気はない。数人の仲間と教会の前でタウンバスを待つ。何でも帰りは街をぐるり回るのと登りだから値段は£1.5だという。 300円は仕方ないよなと乗ったがどうもかなり時間がかかる。その内に助手席にいた若い女の子がバイバイと派手に手を振って降りた。どうやら運ちゃんの友達らしくわざわざそのために回り道をしたんじゃないか。まあ田舎だしそれもいいか。わが仲間では塩谷さんがあの坂をうんこらしょと登ってきた。まだ若いん だねえ。
みんな揃って2時53分に出発。ポルペロに向かう。普通の案内にはポルペロと書いてあるがPolperroだからポルペッロの方が正しいのかもしれない。田中さんはそう書いていた。地図ではすぐ隣だがやっぱり川をさかのぼり、丘を越えて約40分を掛けて辿り着く。ここは山の上ではないが町まではちょっと歩かなければならない。フォイと同じで何があるのか分からないがここもお祭り騒ぎだ。大勢の人たちが狭い町を一杯に埋めている。
ぼくは大失敗をした。ポケットに予備の電池を入れ忘れたからカメラに「もう電池がありません」といわれた時に補給できなかった。せっかく田舎のきれいな港を自分で撮れなかったのは誠に残念。帰ってから、この旅行記を書くからとポルペロの写真をお願いしたら、何とみんな親切で田中さん、松原さん、佐藤さん、川島さんからたくさんの写真を頂いた。ここに揚げた写真は大部分が提供されたものだ。仲間がいるとこういういいことがある。
写真のように入江の湾口は狭いが満潮だったら中はかなり広い。田中さんから海賊の棲家として最適とコメントがあった。この辺りはフランスには攻められただろうし、一方でフランスとの密輸もあったらしい。ボライソーだったか、密輸の取り締まりにブリッグ艦でこの辺りの海岸を一つひとつ探し回る情景があったような 気がする。私掠船が根拠地としたかは分からないが何れにしてもちょっと怪しげな商売にはもってこいの港だろう。折しも干潮で水面は僅かだが、山に囲まれた 狭い町は満潮ともなればリヤス式海岸のような顔を見せるに違いない。
さあ帰ろうと歩き出したがいや暑いこと、思わず近くにあったアイスクリーム屋に入り込む。コーンに載せてもらったピスタチオのアイスは2ポンドだった。皆なそれぞれにアイスを手に入れていたらしい。暑かったもんね。
ブラッセリ―は高かったよね、とプリマスに戻ったこの日の夕食は近くのパブ風の店で田中さんたちと店の外の食卓を囲む。若い人が多くて結構繁盛している。 ビールはもちろん、オリーブの実、タラのフィッシュアンドチップス、ムール貝などを堪能。チップを入れて£16はブラッセリ―よりいいがイギリスは物価が 高い。
いい気分で帰りしな、ぼくはどうも帽子を忘れたような気がした。帽子かぶっていたよね、と回りに聞くとそうだという意見といや被っていなかったよという説 と半々。一緒にいても印象は薄い。念のためと引き返してテーブルの下を探すと、もうそこにいた若い女の子がこれでしょ、あるわよと手渡してくれた。やれやれ助かった。これで誕生日に贈ってくれた長男に申し開きをしないで済んだ。しかし自分が帽子をかぶっていたかどうかを忘れるとはかなりのもうろく度で、 そっちの方がショック。
この岸壁に数人の陽気なおばさんたちが座っていて一緒に写真を撮ろうという。横に座って肩を組んだがいやその太いこと、向こうの肩まで手が届かなんじゃないかと思うほどだ。その写真(*)をお目にかけられずに残念ではある。*下の「おまけ」参照
おまけ・・・
思いがけないことに、松原さんからぼくにスナップ写真がメールで届いた。
本文に、
「この岸壁に数人の陽気なおばさんたちが座っていて一緒に写真を撮ろうという。横に座って肩を組んだがいやその太いこと、向こうの肩まで手が届かなんじゃないかと思うほどだ。その写真をお目にかけられずに残念ではある。」
と書いたのだが、そのお目にかけられなかった写真も松原さんの写真の中にあった。
ちと恥ずかしいほどぼくが小さいのだが、ここでおまけにお目にかける。
ここで書いたことが嘘じゃないとわかるだろう。
8. サウサンプトン Southampton
6月 21日、この日はプリマスからポーツマスまで足を延ばすから8時には出発だ。日吉さんと二人で6時半には朝食、日本にいたら夢の中だ。例によってリンゴ ジュース、フライドエッグ、ベーコン、果物、ヨーグルト、パンと「ややこしくする必要のない」食事。この宿はコーヒーと紅茶のサービスはなくて、ティー・ バッグでいれた紅茶にミルクたっぷりという体裁。それでもホテルの朝食はいい。
年寄りのいいところでみんな時間より早く集まる。7時55分にはバスが出発。退屈させないようにと牛堂さんはいろいろ苦心をする。アガサ・クリスティは遅くに結婚した考古学者の夫と晩年まで仲良く暮らしたという。そこでクリスティの女性への助言、
「女性は考古学者と結婚なさい。何故かというと歳を取るほど夫が興味を持ってくれるからです。」
これはなかなかのジョークでぼくは知らなかったがいかにもクリスティらしい。
英国では二軒長屋?が多い。つまり2家族が一軒に住むのだが一緒に住む家族は親族であることはまずないという。親兄弟はわがままを言いますからね、他人なら 契約で嫌なら出て行ってもらう、親族だとそうはいきませんから、というのが牛堂さんの説明だった。ロンドンの高級住宅地には集合住宅でも一軒数十億円とい う値段がつくらしい。それでもほんとの金持ちは都会の喧騒を嫌って郊外に住宅を構えてロンドンに通うという。その住宅なるものはバスからはもちろん窺い知 れないが、写真の右のように田舎のちょっと豊かな一軒家のような家が広大な敷地の中に建っているに違いない。贅沢な住宅は国を選ばず平屋建てと決まってい る。
イギリスではバスの運転手を保護する規則が厳しく何時間ごとに何分の休憩、また1日の走行時間も規定されていて厳密に守る。われわれの予定はそれによって 左右されることになるのだ。その休憩に立ち寄った場所で木製の面白い小物入れを見つけた。birchで作ってあると書いてある。変わった木を見るとつい手 が出るがこれは樺の木だった。
「バ スは止まりませんが、もうすぐソールスベリー大聖堂を見ることができます。カメラのご用意を」ということで皆バスの右舷側にカメラを向ける。あちこちに 大聖堂は存在するが、ここはその尖塔の高いことと、何といってもかの有名なマグナカルタ、つまり大憲章のコピーの1枚があることが決定的にここを優位にし ている。英語で正式にいうと「イングランドの自由の大憲章」というらしいが、1215年の制定でいろいろ事情はあったにしても、国王の権限を制限する憲章 がこの時代にできたことはいかにも英国だ。そのコピーのもう1枚は大英博物館にありまーす、というのが牛堂さんの説明だった。
11時30分にサウサンプトンに着いた。ぼくは1976年の9月にここを訪れている。39年も前のことだ。サウサンプトン・ポート・オーソリティと銘打っ た港湾局のお偉方はぼくたちを案内してくれながら、こっちを見てくださいお宅の国のダットサンですぞ、なんとその数の多いこと。一方、こっちにある輸出用 のジャギュアーは疎らにしかいないのです、と大げさに天を仰いだ。
多分に商売上のコメントだったとは思が、それでも日産の自動車は多かった。そうではあったが、ぼくはジャガーのことを英国人はやっぱりジャギュアーという んだ、とそっちの方が面白かった思いがある。 当然のことながら、そのサウサンプトンの面影は全くない。昔ぼくが見た場所がどこかまったく分からなかっ た。われわれが最初に見たのはメイフラワー記念塔で旧市街の防壁の外すぐのところに立っている。高い石造りで天辺にメイフラワーの模型だろう帆船が載ってい る。向かいにある港に入ると遥かにガントリークレーンの群れと大型商船の停泊しているのが見渡せ、ここが大きな商業港であることを思わせる。
昔からそうだが、ここからワイト島への連絡船が頻繁に出ているのだ。ぼくたちのいる港の近くにその連絡船の出入りが見られた。もし時間があったらワイト島 も見てみたい。欲張ればきりがないが、当初は計画に入っていなかったサウサンプトンをもう一度見ることができてなんとなく懐かしい。あの処女航海で海に沈 んだタイタニックももちろんだが、クイーン・エリザベスなどキュナード船籍の大型客船はこのサウサンプトンからみんな大西洋を渡ってニューヨークへ行っていたのだ。
バスはこの港の中に特に入れてもらって、「タイタニック・メモリアル・ストーン」を見ることができた。その立て看板には「1912年4月10日昼の12時 にタイタニックはホワイトスタードック(現在ここはオーシャンドックとして知られている)の43/4バースから出航した。」と書いてある。更に「この港は 危険な場所です。この記念碑を訪れるすべての人は黄色い線から出ないでください。保護者は子供をちゃんと見守り、監督しなければなりません。」という注意 書まである。どうやら監督を必要とする仲間もいたようだ。
(福田正彦)