潜伏キリシタンのいた島 —五島列島を旅して-2
あるけっ茶ーの
—ホテルの晩餐―
鄙にも稀な、という言葉かある。言い方によっては大変失礼なことになりかねないのだが、ぼくはあえてこのホテルアオカ上五島を「都にも稀な」と呼んでみたい。
玄関を入ると、レセプションもそうなのだが、ロビーではただ単に椅子が置いてあって休めるという構造ではない。コーヒーでも飲んで本がお好きならテーブルで読んでください、ゆっくり休みたいのならソファーもあります。食事の前にちょっと待つのならスツールでどうぞ、と何も書いていないし案内もないのだが、ちょっと考えると構造自体がそういっている。ダイニングも含めて誰の設計だろうと聞いたような気もするのだが確かなことは覚えていない。どうも歳のせいでこういうことになると全くだらしない。
午後6時から食事ですという添乗員さんの案内で食堂に入ったのだが、時節柄みんなと一緒に歓談しながら食事というわけにはいかない。テーブルはそれぞれ少し離れていて静かな食事を強いられる。メニューを紹介しよう。
前 菜: サザエのマリネ
スープ: かぶのスープ
パスタ: 上五島のイカのブッタネスカ(トマトソース)
お魚料理:スズキのポワレ(マルニエール 漁師風)
お肉料理:五島牛のポワレ 黒コショウソース
デザート:洋ナシのコンポート バニラアイス添え
食後のお飲み物:あるけっ茶 又は 珈琲
それにもましてここのサービスが抜群だった。写真のようにフォークやナイフなどをまとめて置くテーブルセッティングなので、一皿終わればナイフ・フォークは元に戻すことになる。しかし何人かが皿に残しておくのをウエートレスは静かにそれを持ち帰って新しいナイフとフォークをそっと配ってくれる。都会だったら “恐れ入ります、ナイフ、フォークをこちらにお戻し下さい” といわれかねない。給仕をしてくれたのは若い学生さんのような女性2人だったがその所作が全く自然で、しかもこの仕事が大好き、という思いが伝わってくるのだ。言葉のやり取りなしでそれが伝わるのは本当にその気持ちがあるからだろう。
ウエイターはベテランという感じで、サービスですと最初に配られた発泡ワインの後、相談してイタリー産の白ワインを頼んだ。とても口に合うワインだったがぼくが感心したのはワイングラスの磨き方だ。余談になるのだけれども、ぼくは若いころ化学実験に明け暮れた時期がある。異物が残ると実験はめちゃくちゃになるから、実験器具の洗浄は厳しく仕込まれた。今はいい洗剤があるから容易だろうけれども、その当時はクリーニング・ソリューションという硫酸系の強力な酸化剤に漬けてから水で流した。本当にガラス器具の表面を平らにしたければフッ化水素を使ったのだ。これはガラスを溶かすからガラス瓶ではなく、ガッタバーチャの瓶という黒い容器に入っていた。
さすがにフッ化水素まで使ったことはないが、完全に洗ったガラス容器は自然乾燥させる。すると液体が容器内面で水滴にならず流れ落ちるようにきれいになるのだ。ここのワイングラスは中身がなくなるまで内面が流れるようにきれいだった。よほど気を使って磨いた上に、自然乾燥はできないだろうからナプキンを使って手がグラスに絶対触れないように拭いたに違いない。都会でもそこまで気を遣う店はそうは多くないだろうと感嘆したのだ。
デザートが終わってお茶かコーヒーかとなったときにぼくは初めて気が付いた。「あるけっ茶」とあるではないか。何だこれはと思うよりも前にアルケッチャーノに似ているねぇ、とかみさんと話をしていると、ちょうど傍にいたウエートレスのお嬢さんが「アルケッチャーノをご存じなんですか?」と聞いてくる。
ご存じなんてものではない。話せば長くなるのだが、その昔ぼくの幼稚園の時の先生が山形県の鶴岡市に住んでいらして、100歳で亡くなる前に同窓会と称して仲間とあるいは一人で十何回も鶴岡を訪れていたのだ。そこで知り合った土地の人がアルケッチャーノに連れて行ってくれた。奥田政行さんというオーナーシェフが庄内平野のいい食材を生産者と共に開拓してフランス料理店(その名前をアルケッチャーノという)を経営し、何度かぼくもお会いしたことがある。鶴岡と東京を含めて何軒かの店があるのは知っていたのだが、ここ五島にまで影響があったとは知らなかった。
土地の素材を大切にし、生産者と共同でいいものを手に入れるという精神の持ち主だから、奥田さんの影響があったとすれば、肉も野菜も魚も生産者と息の合った最上のものに違いない。姿の見えないシェフの腕前も見事だったし、またきちんと背筋を通していながらとても温かい雰囲気の店であるのも納得がいく。鄙にも稀な、ではなく都にも稀なといいたくもなろうというものだ。
800メートルの空港
—中通島の観光—
11月4日、旅行の最終日の今日は、朝からこの島をめぐり、船で長崎港へ行き、夜中には横浜の自宅まで帰るというすこぶる忙しい日程が組まれている。幸い晴天が続いていて7時半には朝食になった。人間は不思議なもので指定されたわけでもないのに食堂に入ったらみんな昨夜と同じテーブルについている。鯛の出汁漬けという簡素だが贅沢な食卓で腹ごしらえをして懐かしのホテルを出るとき、昨夜給仕をしてくれたお嬢さんがニコニコして送ってくれる。聞くと朝は5時からの勤務だという。有難う、気を付けてねと挨拶してバスに乗る。朝からまことに気持ちがいい。
この島の東北端に頭が島(かしらが島)という小さな島があって、何とそこに空港があるというのだ。福江島の空港と違って滑走路は800メートルしかないからごく小型のプロペラ機とヘリコプターの発着場になっているらしい。それでも空港があるために本島との間に立派な橋が架かっています、とガイドさんの説明だった。今日の現地ガイドさんは30歳代だろう、かなり若い女性で説明も年代を感じさせる。その橋を渡って頭が島の上までバスが登ると遥かな海と小さな集落が見渡せる。ここに頭ヶ島天主堂があって、上から見ると赤い屋根と十字架が見える。本当に海岸すれすれに立っているのだが、向かい側に細長い島があるから台風の風よけにもなっているのかもしれない。
9時10分にホテルを出たのだが、この空港には9時53分に到着した。小さな空港とはいえ職員も1人いて管理していまーすという説明だったが、正式名の五島空港の看板は島と港の2つが欠けていて修復する気もないらしい。2階から空港が見えますよといわれて階段を駆け上がる。なるほどこれは空港だ、看板と違ってちゃんと整備されている。
ここで小型のシャトルバスに乗り換え。急坂を下って天主堂へ向かう。立派に舗装されているのだが大型バスは通りにくいのだろう。五島のキリスト教会は多くがこういった大変辺鄙なところにあるのはやっぱり歴史の所産なのかもしれない。下まで降りて仰ぎ見ると立派な天主堂だ。ここはやっぱり祈りの場だからわれわれは這入るのを遠慮しなければならない。
説明によるとこの教会は旧五輪教会堂と違って天井は華麗な船底天井だという。直接見ることは叶わなかったのでパンフレットからその船底天井を紹介しよう。石造りとはいえ五輪教会堂と同じように外観は飾りのない誠に質素な感じなのだが、内部の壮麗さは全く違う。ここでもやっぱり潜伏キリシタン時代の風習というものがどこか残っているのだろうと思わざるを得ない。ヨーロッパの壮麗な石造り建築と違ってはるかに見上げる天井はないがなんとも柔らかい感じがするし、窓のステンドグラスも可愛らしいという方が似合っている。
この教会のすぐ近くにキリシタンの墓があって十字架が林立しているし、6000年前の縄文時代の遺物がここから出土しているという。白浜遺跡という碑があってそれを説明しているのだが、どういう経路でここに定着したか、渡来人だったのかちょっと興味があるが詳しいことは分からない。
再び空港にシャトルバスで戻り、観光バスで出発したのは10時55分だった。赤く塗られた頭ヶ島大橋を渡って橋の上から見るとはるかに海が広がる。帰りに長崎までの航路はこの橋の下を通る。地図で見ると分かるのだが、これでかなり大回りを避けることができるのだ。
中通島の東端にあたる海岸に「坂本龍馬ゆかりの広場」という名前のちっとも広くない広場がある。この地に何で坂本龍馬?と思うでしょ、とガイドさんがいうが全くその通りだ。何でも竜馬が起こした亀山社中という商社が帆船を買ったのだが、慶応2年(1866年)にこの辺りで遭難し、竜馬自身もここを訪れているという。銘板にはそのワイル・ウエフ号の図もあるのだが、船体は和洋折衷型で説明ではスクーナー型の帆船とあるけれども、フォアセイルを持っているから2檣トップスル・スクーナーだ。
またその舵棒が近所の家に保管されているのを復元したというものも置いてある。が、その太さといい材木そのものの形といいこれがちゃんとしたトップスル・スクーナーの舵柄(チラー)とは到底思えない。もっときちんと成形されているはずで、そうでなければ操舵などできるはずはないのだ。おそらくこれはどこか他の部材だったのだろう。それにしても坂本龍馬というだけでこういった設備ができるのはやっぱり有名人なんだと思わせる。理屈はともかく、観光にはもってこいなのだろう。
白長須鯨
—中通島から長崎―
旅行第3日の今日は忙しい。バスは11時半に土産館に着いたが、ここで余っているクーポン券を使ってもらいたいのだ。それはそれでいいのだが、ぼくにはほかに目論見がある。実は福江島でもここ中通島でもシロナガスクジラの話を聞いているし、その顎骨を見ているのだ。その土産店のすぐ近くに神社があって、そこにシロナガスクジラの顎骨がありますとガイドさんから聞いている。これを見ずにおられようか。
というわけで、ぼくはバスを降りるとすぐその神社に向かった。ぼくの感覚からするとシロナガスクジラがこの有川湾で捕れたということ自体が信じられない。世界最大の哺乳類といわれるこのクジラは、以前大型の捕鯨船が南氷洋で捕っていたのだ。なんで日本近海で捕れるのだろうと思うのだが、実際にあの顎骨が、保存のために白く塗られてはいるが、鳥居の後ろにドンと立っている。福江島でも同じような光景を見ているから当時この近海にシロナガスクジラがいたことは間違いなかろう。
福江島のガイドさんの説明によると、一番珍重されたのはセミクジラだという。背美鯨とも書くのだが、これが日本近海にいたことはぼくも知っている。優美な曲線の背中を見せて長いこと泳ぐのでこの名があるというが、このクジラの油を田植え前の田圃にまいて害虫を駆除したあと、新しい水を入れると米が良く採れるのだそうだ。シロナガスクジラの油はセミクジラ程よくないと、何故かはわからないがそういう説明だった。
それにしてもだ、体長20~34メートル、体重80~190トンにもなるシロナガスクジラや、同じく20~26メートル、30~80トンのかなり大型のセミクジラを一体どうやって捕ったのだろう。おそらく手漕船がたくさん集まって囲い込んで銛打ちをしたに違いない。五島の捕鯨漁はわれわれの想像以上に勇壮だったようだ。その成果がこの神社の顎骨であり、ターミナルの天井にある骨格だろう。神社の顎骨は5、6メートルもあるだろうか。全長の1/5が顎だと勝手に決めると体長25~30メートルになる。かなり大柄なシロナガスクジラだったのだろう、それで記念にしたのかもしれない。
有川港のターミナルの天井に飾ってある骨格を見ると顎の骨は全体から見てもかなり大きい。海水ごと口に入れたオキアミを舌で髭に押して濾す作業をするにはこれぐらいの大きさが必要だったのだろう、なるほどと思わせる。もう一つ面白いことに気が付いた。動物の首の骨は7個だと教わったことがあるが、人も7個、キリンも7個でこの場合は1個ずつが長い。上の写真で見るとクジラもやっぱり7個だ。図体の大きい割に首(といえるかな)が短いから7個の骨は扁平だ。
このように五島列島に来て、江戸時代の末期日本近海に大型のヒゲクジラ類がたくさんいたことを改めて知った。大西洋のクジラを取りつくし、太平洋に捕りに回っていたアメリカ合衆国の捕鯨船は長途の旅をするから当然補給を必要とする。こういった捕鯨船の補給基地として日本の港が必要だから鎖国中のわが国にその開港を促す、というのがペリーの黒船戦隊の目的だった。その歴史を聞いてはいたけれども、五島列島まで来て再認識させられたのだからまことに皮肉なことだ。どこでどんなことを教わるかほんとうにわからない。だから旅は楽しい。
シロナガスクジラの顎骨を飾ってある海竜神社には農林水産省のお墨付きがある。立札には「海竜神社:未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選の地 農林水産省」とあって、平成18年2月に認定されたらしい。往時の盛況を証明するものだと思うのだが、現在はまことにひっそりとした佇まいでクジラと奮闘した人々の有様はぼくの気持ちの中にしかない。
買い物を堪能したみんなは12時20分に集まってすぐ近くにある「割烹扇寿」で昼食。刺身や稲荷寿司、大柄の茶わん蒸しとどうも若者向けの量だったが、更にどんとうどん鍋が出た。いやー凄いねえと感嘆したのだが、このうどんご当地の産でとても美味しかった。とまあ言えるぐらいしか食べることはできなかったが。
ちょっと興味をそそられたのがうどんを取る、何というのだろうがしゃもじでもなく、「ひっかけ」とでもいいたくなるような用具だ。ちゃんと確実にうどんを掬うことができる。たんに竹の平に数本の棒が突き出ている雑な造りだが、何か秘密があるのかとしみじみ見ると、突き出している棒が5本あり、これがサイコロの5の目の形に並んでいる。ははあ、これだと納得がいく。おそらく4本だったらつるりと落ちることもあろうが、中央にある1本がそれを止めているのだろう。これも知恵だねえと感心した。こんなものは訳もないから家で作ってみるかと思ったのだが、あまり使う機会がなかろうとそのままになっている。
食事を終えて、午後2時に港のターミナルに行くので集合して下さいと念を押されて、かみさんと2人で港を見て回る。この島のガイドさんは福江島のガイドさんより若いから、機会があると長崎まで行って、まあ都会の雰囲気に浸るのだという。そうだろうな、島から出たことはないという年代ではないから。ここでバスとはお別れ、現地ガイドさんに有難うございましたと挨拶して集合時間まで港を見ることにする。近くにあるスーパーを覗いてみた。エレーナ有川店といってかなり広い。そこを出て対岸のターミナルを見ると、これが鯨の形をしていてなかなかしゃれたデザイン。有川港はクジラで持つか。
こちら側の突端には珍しくフローティング・クレーンと思しき起重機船が見える。かなり大きいが、どうも消波ブロックなどを置くためのクレーンらしい。キャビンの外には「第六長崎号」と看板がでている。それでもこういった巨大なメカを間近で見るとやっぱり感激する。
連絡船は有川港を離れて長崎港を目指す。船の名前を憶えていないのだが、調べてみると122トンで乗客140人、航海速力は30ノットだという。これは昔の1万トン級重巡洋艦並みの速度で、商船としてはとんでもなく高速だ。もっとも今はジェットフォイル船もあってこちらは航海速力43.0ノットだというからちょっと桁が違う。同じ海面でも水上タクシーとは図体が違うからあまり揺れないし、クルーに聞くとデッキには出られないというので仕方ないおとなしく座って過ごす。
おりしもアメリカ合衆国の大統領選挙の開票が真っ最中で、テレビではトランプとバイデンが激戦を繰り広げていた。その時刻では票数が両者拮抗していて午後3時の選挙人獲得数はトランプ213人、バイデン210人の接戦だ。それを見てついバイデン頑張れと応援したくなる。遠い国のまあ野次馬には違いないけれども、ぼくはどうしてもトランプ流にはついていけない。何でアメリカの国民が彼を4年前に選んだのか、それが解せないのは常識ある人士ならだれでもそうだろうと思う。
そうこうするうちに、30ノットが功を奏して午後4時前にはもう長崎港に入ってゆく。ぼくは何回か長崎には来ているのだが、海上からこの街に入るのは初めて。どこをどう入ったのか定かではないのだが高架橋があり、ドックがあり、行き交う船がありで往時の造船最盛期ほどでないにせよ、やっぱり造船の街だと実感できる。何といったれいいのか、そういった匂いがあるのだ。
港に到着すると目の前に三檣バーク型の外輪船が見える。メインセイルと煙突の位置からして現代の観光船だろうと判断できるのだが、ちょっと見はかなり格好のいい船だ。やがてバスに乗って坂道ばかりの長崎の街を行く。観光名所に行く暇はないのだが、長崎といえば何といってもカステラだとこの旅行を計画した人がいっているらしく、「カステラの和泉屋」へと向かう。この坂道だらけのところに大型バスが2,3台も入れる駐車場がこういった戦略の要で、なるほどと感心する。
少し坂を上がるとすぐに平和公園にでる。ここを訪れるとぼくは戦争中の思いが蘇える。学徒動員でいた海軍の施設でこのことを知らされた。「新型爆弾」で被害を被ったという。何でも閃光が激しいから白い服を着ている方が火傷をしないからいいとも言われたのだ。戦時の情報とその規制がそういわせたのかもしれないが、その惨状を知る由もなかったことがここに来ると引っかかる。
午後5時半、バスが出発するとあたりも大分暗くなってくる。長崎空港まではかなり距離があるからバスは高速道路に入ってひたすら走る。知らない町の夜景は灯火が窓を流れてゆくようでなんとなく郷愁を誘う。特に航空機から着陸しながら夜景を見ると暗い道路に自動車の明かりが点々と動いていて、ああ外国に来たのだなとしみじみ思わせる、そんな景色がぼくは好きだ。
6時15分に空港に到着。7時過ぎのチェックインまで各自で夕食を取ることになった。サンドイッチなどで軽い夕食を摂るが、この店はクーポンが使えないという。少し残ったクーポンをかまぼこ屋さんで使って残りなし。ちょっと気にしながらも恩恵にあずかった。
添乗員さんは本拠が福岡だという。もう役割は終わっているのだが、皆さんの飛行機が見えなくなるまでお送りしますといってくれる。それから帰ったら真夜中になるというのにご苦労様なことだ。やっぱり最後まで見届けたいという気持ちが有難い。午後8時36分に離陸したボーイング737-800の明かりが見えなくなるまで見送ってくれたのだと思う。
午後9時47分、わがボーイング737機はドンという大きな音と共に羽田空港に着陸した。ちと荒い着陸だったが、この音と共に実り多きわが五島列島の旅が終わった。
おわりに
新型コロナが第三波に入ったのは最近の状況を見ると間違いない。偶然かもしれないが、ちょっと一息ついたときにこの五島列島に行けたのはまことに幸いだった。ちと後ろめたい気持ちもないではないがやっぱり人はいろいろ動きたいのだ。旅は目新しいことに触れるばかりではなく、その土地で育ちその土地のことを熟知している人との交流がなんといっても大切だし、ぼくにとっての宝物でもある。
地球規模でいえばわが日本は狭い。しかし90年余も生きている最近ですら、少し動けば全く知らなかったことが知れ、こんなことがあったのだと知らされる経験はいくらでもあった。見、聞き、食べることも大事だが本当の旅の醍醐味はこの交流にあるのだろう。もっといろいろ聞いてみたかったという思いはどの旅でも後に残る。今回の旅でもそれは同じだ。
そういった思いが、また旅をしてみたいという気持ちに繋がるのかもしれない。これからも。できれば、だが…。
2020年12月11日
福田正彦