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向き合うべきか、向き合わざるべきか

「40にして惑わず」とは、年齢を重ね多かれ少なかれ人生経験を積んでいくうちに「人間の実態」を見つめる視点を持つようになり「人間なんてそんなもんだ」と言えるようになり、「自分で自分の身を守る、自分で自分の人生を進んでいこうとする」ことを意味しているような気がする。これまでの人生が「惑い続けている」ものだったからまだ「惑い続けている」日々だけれど、なんとなく「40にして惑わず」を実践できているんじゃないかって思う今日この頃。

「人が環境に与える影響は大きく、環境が人に与える影響も大きい」ことは以前から感じていたけれど、「人は自分が経験したことでなければ物事を判断できず、判断をしようとしなくなるもの」なんだと40歳を過ぎてからそんな視点が自分の中で生まれた。それまでも何となく感じていたことのような気もするけれど、40歳を過ぎてから「暖簾に腕押し」なことが増えてきたことでそんな視点が自分の中で生まれたのかもしれない。

「自分が経験したことでなければ物事が判断できず、判断をしようともしない」ような人に対して、何度でも何度でも「発言し続けること」は必要だろう。立場年齢性別に関係なく誰だって「わからないものはわからない」んだから「伝えなければ」気づかないままで、その人に動いてもらわなければ前に進んでいかないことがあれば「気づかないまま」であれば「判断ができず、判断をしようとしない」状態となり、物事が前に進んでいかなくなってしまう。だからこそ、何度でも何度でも「発言し続けること」は必要。それがコミュニケーションを取るということであり、お互いを理解し合うことにも繋がっていくのだと思う。

けれど、伝えても頑なに「物事が判断できず、判断をしようともしない」人もいるのが人間社会の厄介なところ。こういう人の場合「周囲の人間がその人が果たすべき役割をやってあげてしまった」から(それがわかっていて「判断をしようともしない」面があることは否めないと思う)それが当たり前になってしまっていて「伝える」という行為に対して異常な反感を抱いてしまうのだろう。「当たり前じゃないからな、その状況、当たり前じゃないんだからな」と思うけれど、当の本人にとってはそれが当たり前。しかも、悪気がないんだから厄介。「悪気のない悪意」とはこういうことなんだろう。

そんな人間に対してどのように接していくのが正解だったんだろうか。

「自分が経験したことでなければ物事が判断できず、判断をしようともしない」人に向き合う場合、自ずと自分自身で何とかしていかなければならない部分が増え、なんとなく負担ばかりが増えていく。それが当たり前の状態になってしまい、「伝える」行為をすれば異常なまでの反感を抱かせてしまう(不慣れなことに対する不安感の現われであることは理解している)「伝える」行為はそのまま受け流されるだけ。それ以上のことをしてしまうとさらなる負担になるだけなので、「何も言わずに」自ずと自分自身で何とかしていかなければならなくなっていき…負の螺旋に入り込んでしまう。

「人間なんてそんなもんだ」と思う一面ではあるけれど、こうした人と距離を置くべきだったのか。それとも距離を置かずに向き合うべきだったのか。距離を置いていたから「生き続け、働き続けることができた」のではないか、距離を置かずに向き合っていれば「働き続けることができず、精神的に病んでしまっていた(今もある意味では病んでいるけれど)」のではないか。

こんなことを考えてしまっている自分の存在が周りにも迷惑をかけているのではないか。

本気でそんなことを考えてしまう。僕はどう行動すればよかったんだろうか。あの環境の中で。


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