相手の名前を呼ぶことができない人
「誰かと話をしたい(話をする)際に、下の名前やあだ名で呼ぶ」とか「誰かと親しくなりたいがためになにがしかの行動をとる」とか「誰かと一緒に旅行に行く」とか…人との繋がりを持つための行為そのものに対しての経験値が圧倒的に少ないいやほとんどないまま年齢を重ねていき、現在にまで至ってしまっている。ネット上ですら「下の名前やあだ名」で呼ぶことに抵抗感がある始末。これだから、いつまでたっても「明確な自己肯定感」を持てないままでいるのだと思う。
生まれ育った環境が全ての原因とは言わないけれど、「名前で呼ぶ」とか「旅行に行く」とか「外出する」とかそういったものがない家庭で育った。厳密なことを言えば、全くどこにも行かなかったということはない。物心ついてからは「家族で旅行に行く、外出をする」といったことがなくなっていったからだ。両親の両親の介護問題やそれに関わる様々な諸問題があったことが起因していることは幼心にもわかっていたし、今振り返ってみれば「あんな状況じゃ致し方なかった」とは思うけれど。理由はわからないけれど「自分だけ」おいていかれて「旅行や外出」をされていたことはあったし、こうした状況であっても「名前で呼ぶ」という行為はブレることなく「皆無」ではあったことは事実として残っていますが。
そんなことがあったとしても「努力していけばいいだけのことだ」「改善していけばいいじゃないか」ということは自分でもよくわかっているし、自分でもよくわかっていた。わかっていたけれど、できなかったのが現実。だからこそ、いまだに独り身の子供部屋おじさんで仕事における立場は「都合のいい男」状態で、孤独死まっしぐらなんだと思う。それを少しでも修正していきたいと思うからこそ、転職活動をしているわけだけれど(それで全てが解決するとは思っていない)根本的なものは変わらないままだろう。「改めることはできなくても、改めていこうとすることはできる」けれど。
「帰省しました」とか「家族と…」とかそんな話を聞き(実生活において)や動画・記事を見る度に、「ああ、この人の性格や特徴が生まれた理由はだからなのねえ」と感じるのです。自分自身の考え(価値観)として持っている「どこで誰と何をするのか。環境が人に与える影響の大きさ。この2点は人の人生を大きく左右するもの。だからこそ、お互いに譲ったり譲られたり主張したりしていかないと駄目だ」というものが、誰に何を言われようとも「正しかったのかな」と思うわけで。それに、人間なんてそんなものだろうとも思うわけです。
中流家庭に育ち大学まで進学させていただいて、現在もなお実家に住まわせていただいているわけですから(後者に関してはそれにたる言い分がありますが)感謝してもし尽せないのは言うまでもなく、本心としてそう思っていますが、やっぱり「名前で呼ぶ」とか「旅行に行く」とか「外出する」とかそういったものがほとんどなかった環境において育ってきたことの影響は、少なからず残っているのが自分に突きつけられている現実なんだと思えてならないのです。
「それじゃダメじゃん」と思うから努力も続けてきましたが、いつまでたっても「明確な自己肯定感」を持てないままでいるから、何もかもが宙ぶらりんな状態のままなんだと思う。いつになればこの状態から抜け出せるんだろうか。