右から左に受け流された側の主張
「どこで誰と何をするのか」によって人の人生は大きく変わってくることを痛感する日々。それは「環境が人の与える影響が大きい」ということの証左でもあり、自分の考え方は間違っていなかったことを実感する。けれど、この考え方が「大多数」の見解になることはないだろう。自分の中で何となく感じていることであったとしても、こうした発言をしてしまえば「他責的な人間」との烙印を押されるからだ。たとえ「そんな意味を持って発言していなかった」としても。「人生経験」として「人間なんてそんなもんじゃね?だからこそ、お互いに認め合い協力し合っていこうとすることが必要で、多様性を認めるとはそういうことなんじゃないの?」と思う次第。
ふと、「右から左に受け流す~♪」…いつかどこかで流行ってフレーズが頭に思い浮かんだ。アレが流行ったのはフレーズと音程と歌い方(シチュエーション)を含めて面白かっただけではなく、人間の根底に「自分の責任も負わずに右から左に流してしまう人って多いよね」という感情があったからだったんじゃないかと思った。責任を負うべき立場にも関わらず都合が悪くなると「右から左に受け流す(第三者に丸投げしちゃう)」ことをしがちなのが人間。これは誰がどうというわけではない人間のすること考えることなんてそんなもんじゃね?と思うわけで。
けれど、そりゃじゃ駄目だということもわかっているから「何となく譲り合い、何となく協力し合い、何となく周りを引っ張っていく」もので、そうした人達が集まることで友人関係や家族親類関係、集団や社会や国家というものが成り立っているんじゃなかって思うのです。でも、その中には「譲り合わず、協力しようとせず、足を引っ張り、自分の主張を押し通し、自分の責任を他者に投げてしまう」ことをしてしまう人も少なからずいるのも人間というもので、そんな人がいるからやっぱりあのフレーズは流行したと思うのです。
でも、そんな人は「わからないことに向き合っているから、その反動でそんな行動に移してしまっている」のだと私は思います。理由は何であれそんなことをされてしまえば周囲の人間にとっては迷惑でしかありませんし、「我を押し通しているだけ」かもしれませんが。周囲の人間が発言したことに対して、時間が経ったとしても自分の行動を修正することができていれば「我を押し通している」人で、「不安の裏返し、自信の無さ」を周りにぶちまけているだけの可哀そうな人なんだと思います。(それでも周囲に迷惑を掛けてしまっているのはいただけないですけれど)
年齢を重ねるに連れて感じるのはそうやって「不安の裏返し、自信の無さ」を周りにぶちまけているだけの人が年々増えているのではないかということ。そうした人がいる環境に身を投じるようなことになってしまうと自分の努力だけではどうすることもできない壁が生まれ「環境が人に与える影響」が大きなものになり、人ひとりの人生が大きく左右され「どこで誰と何をするのか」という言葉が頭の中に常に浮かぶようになる…のも人間であり、人生でもあると思う9月の終わり、また1つ年を重ねて思う月末。