alex taylor 追悼③~the motorcycle boyアルバム秘話続き
*big gold dreamsより。(この記事はより地元感あふれて細かく楽しい!あの映画「BIG GOLD DREAM」監督の記事ですんで!)
(パステルズやプライマルスクリームがグラスゴーでやりだしたころ、イーストキルブライドでは何があったの?と聞かれ)
何にもない。みんな失業者で退屈だったからバンドを始めた。僕の部屋で暇だし他にやることないしみんな音楽好きなんだからバンドやろうぜ~って。
あの頃eddyは僕よりずっとジム・リードと仲良かった。ジムリードとダグラスハートが友達のパーティーで演奏した時にエディはドラムだった。その時のMeat Whiplashは僕とPaul McDermott, Eddy Connelly とDouglas Hart。誰もろくに楽器をやったことなかった。ポールはちょっと見た目良かったからvocal。エディは少しベースを弾けて、ダグラスは3コード知ってた。
メリーチェインとミートウィップラッシュを始めたころ、地元バンドはイースト・キルブライドのユースセンターで演奏できれば満足だった。
ダグラスはジムとウィリアムに誘われメリーチェインに入ることになり、ミートウィップラッシュを抜けた。彼らは曲作ってるからな~と思ったけどデモを製作してることも知らなかった。
思い出すのは、いつもジムのうちで知らないレコードをたくさん聴いたこと。Velvet Underground、Stooges、 New York Dollsとか。ジムからたくさん、当時のグラスゴーバンドが影響された音楽を教わった。
学校の友だちとはへヴィメタルとか聴いてた。放課後はエディと The StranglersやBuzzcocksやJoy Division を聴いてた。
ダグラスはジョンピールを聴いてて詳しかった。ある日ダグラスにバースディパーティーのjunk yardを聴かされて、最初はこれは音楽なのか?と思ったけど何度か聴くうちすげえ!ってなった。
Fire Enginesを初めて聴いたのはいつか覚えてないけど、バンド名はダグラスが提案した。ぼくらみんな「candy skin」が大好きで、splash oneでよくかかってたけど、その前から好きだった。たぶんダグラスから教わったと思う。
--ダグラスハートがオリジナルメンバーとは知らなかった。グラスゴーかどこかに出てもっと大きな事やろうと思わなかったの?
Meat Whiplashはメリーチェインに便乗しただけ。バンドをやる以上の野望もなかった。地元の新聞に載れたら解散しようって言ってた。
イーストキルブライドにはもう一つ、Ocre 5ってバンドがあって、NuggetsやPebblesみたいな60Sガレージバンドだった。僕らの最初のライブはグラスゴーのthe Venueでのクリエイションナイトで、The Jesus and Mary Chain , Primal Scream, The Pastelsと一緒に出たのがそのOcre5だった。彼らのことよく知らなかったけど、町でVUやStoogesなんかを知ってるのって他にいなかった。パンクスはいたけどUK Subsなんかが好まれた。(Ocre5、ざっと探したけど情報見つからず…気になる~)
(メリチェインの暴動ギグについて)僕らは前座だった。イーストキルブライドからロンドン行きのバスが夜10時だったんだけど満席で、当日の朝に行く羽目になった(アズテクファンの脳内ではキラモントストリート鳴ってます)。メリーチェインはもうそこにいて、サウンドチェックはローディがやって。僕らのリハの時、ヴォーカルのポールはダグラスとスピードやってていなかったから、ジムが来て、The Stoogesの 'I Wanna Be Your Dog'を一緒にやったんだ。見てた人はなんであいつらジムと演奏してるんだ?って思っただろうけど、そういうわけだった。
僕らはみんながするように酔ってステージに出た。4,5曲しかなくて、Don't Slip Upもまだ出来てなかった。演奏始めたら、物を投げだした奴らがいたから、ポールがちょっと来いよ!ってなって、ポールは逃げてそいつが追っかけて。エディはそいつを止めようとしたらパンチをくらった。スティーヴンはギターを放って加勢した。相手の友だちもステージに上がってきたけど、スティーヴンが二人をステージからおいだしたんだ…エディとスティーヴンはツバはいたり物投げたりする客にうんざりして、曲の間にDuckと言ってボトルを投げたんだ。誰かに向けてじゃなく何もないとこに。そしたらみんな興奮した!それで引っ込んだら、アランマッギーが「ステージに戻ってノイズだけ10分演奏しろ」って言うからその通りにしたら、更に盛り上がった。楽屋に降りると、アランマッギーが「シングル作るぞ」言って去っていった。みんな何で??って顔してた。
次のthe Jasmine Minksの一人はお尻のポケットにハンマーを入れて、一曲目で客に背を向けてそれを見せながら「何かやりたけりゃやってみな」と言った。そしてthe Jesus and Mary Chainがいつもの15分セットをやったもんで…狂気が続いた。
僕らはステージの地下の楽屋にいて、上の騒動の音だけ聞いてた。スティーヴンのギターは壊れていて、警察がやってきて(取り調べを受け)供述書を出した。それが僕らの2回目のライブだった。
--(この暴動が各音楽誌のニュースになり、日本の音楽雑誌のニュース欄にも載ったんですが)メリーチェインがメジャー紙の見出しになる前に、マッギーからシングルの依頼があったのはスゴイ!
スタジオ経験がまったくなかったから緊張した。メリチェインの便乗で…プロデュースしてもらえたのも本当に運が良かった。僕らは何度かライヴ演奏して、そこにヴォーカルに歌ってもらった。
僕らのシングルはメリーチェインが演奏してるんだろうって言われたけど、それはちがう。彼らはただそこにいて、2時間でシングルを製作した。
シングルは驚いたことに、レヴュー受けもとてもよく、うまくいった。マッギーも僕らのことよくやってると思ったろう。でもマッギーがmeat whiplashはalien sex fiendくらいビッグになるって言った時、とてもガッカリした。個人的にはその時に、別のことをしなきゃ、もっとプロフェッショナルにならなくては、と思ったんだ。
meat whiplachはThe Weather ProphetsとPrimal Screamと一緒に、The Creation Package というツアーを回った。同じバンであちこち回って。モンキーズみたいに。
creationでもう1枚シングルを録音したけどリリースされなかった。最近出たcreationのボックスセットに収録されたけど、自分たちはまったく気に入ってない。
若いバンドはTop of the Popsに出たいと思うものだけど、自分たちのバンドがTop of the Popsに出られるとは思えなかった。自分はもう少しプロっぽくなって成功したいと思った。グラスゴーのバンドはみんながそうではなかった。メリーチェインはいつもTOTPに出たいって言ってた。例えばパステルズみたいなバンドはTOTPに出たいと思ってるイメージはない。TOTPにはゴミみたいなのも沢山出てるけど、そこでdavid bowieみたいなひとを初めて観ることもある。
メリーチェインをTOTPで観たのはシュールだったな。知ってる人が出てるなんて。
meat whiplashが終わった理由は2つある。才能がないことと、野心がないこと(笑)。
その頃alex taylorはshop assistantsでうまくいってなくて、alexとeddyはカップルだったから、僕らと一緒にやればいいって提案したんだ。
--オニオンセラーでのmeat whiplashのライヴ写真にalexが写ってるよね。これは87年の写真だけど…
motorcycle boyの原型。その時ポールはvoでその後MCBのドラマーになるんだけど。アレックスはドラムを叩いてた。
当時eddyはjesse garonにギグをやらせたいと思ってて、Meat Whiplashの名前出すと話が早いんで、たいてい僕ら最初に出て4曲くらいやってた。その時meat whiplashは名前だけだった。僕らはMCB用に曲を作っていて、meat whiplashではもう録音しないって決めてた。
Westworldのシングルで、思い切りSique Sique Sputnikぽいシーケンサーを使ったのがあったんだ。Duane Eddyぽくもあった。それがすごく面白いと思って、もっと洗練されたのを作りたいと思った。
(すごい種明かしにびっくり。ギターは元generation Xだって!!1987年2月のヒット曲)
ショップアシスタンツとクリサリスの契約で、誰かが辞めても次の契約に関してクリサリスに最初の権利があった。mighty lemon dropsと同じマネージャーがつくことになった。
サウンドはできるだけMeat Whiplashとは違うものにした。あのころ、自分らインディバンドにとって「コマーシャル」って言葉は忌み嫌われてたけどね。
--過去にもインディバンドが後にコマーシャルな音になることはあって、例えばFire EnginesだったWINだって、音楽は素晴らしくても成功できなかった。なぜBig Rock Candy Mountainは(メジャー)チャートでヒットしなかったのでしょう。それこそTOTPに出てもよかったのに。
Radio oneのリストBというのに入って、それはインディバンド用に毎日各番組で1度かかる。クリサリスと契約してたのに、インディバンドとしてradio oneにかけてもらえるように、ラフトレからリリースだった。インディバンドがradio oneでかかるのは凄いことだったんだよ。メジャーのチャートでは74位か76位どまりだった。当時は相当シングル売れたんだけど、あの頃はその順位だったんだよ。
--shop assistantsはインディーズプレス(ファンジン?)でかなり取り上げられてました。Sandy(McLean ~ 53rdand3rd共同代表)がshop assistantsの53rdのシングルでさえ、週に5万枚売れたって言ってましたよ。
Safty Netはトップ75に入りました。MCBはBig Rock Candy Mountainのあとのリリースに時間がかかりすぎた。自分たちの問題だった。今となってはどうしてなのかわからない。Floodプロデュースのセカンドシングルも気に入らなくて、出さないでくれって頼んだんだ。big rock candy mountainと同じロンドンのスタジオでいろいろやってみたけどうまくいかなかった。
Greenhouse Studiosでアルバムを録音したけど、ずっとリリースされなかった。スコットが追い出されて、自分は孤独になった。
alexとeddyはロンドンへ越して、他のメンバーといろいろやってたけど、たいしてうまくいってなかった。あのアルバムがちゃんと出て、最初のメンバーのままだったら。U2になれたとは言わないけど、それなりにうまくいったんじゃないかな。
--creationにいるのと、クリサリスみたいなメジャーにいるのとの違いは?
Don't Slip Upのジャケットは、むかしthe Crampsのブートカセットを持ってて、そのジャケットがこのMan from U.N.C.L.E.ので、これにしたいって言って、デザインを自分でやって、アランマッギーが印刷するんだ。
メジャーならプロのデザイナーがいる。僕らはメリーチェインのダークランズ・ツアーのサポートをした。誰かの家の床で寝るんじゃなくて、ちゃんとホテルで眠れる。移動用のちゃんとしたバンも買えたよ。
--当時を振り返って、DIYでインディなやり方の自由のほうがいいと思う?
いや、キラキラしたヴァージョンの方が好きだった。ちゃんとしたスタジオで録音して、レコードジャケットも質の良いものになる。アランマッギーの狂ったような熱意は刺激的だったから、クリエイションにいるのは好きだったけど、僕はキラキラしたヴァージョンが好みだったんだ。
--MCBでの一番の思い出はなんですか?
ロンドンの大学にいた現在の妻に会いに行ったとき、radio oneでbig rock candy mountainがかかってたんだ。ぼくらみたいなバンドが当時のradio oneの、Culture Clubや George Michaelばかりかかる昼間の時間帯にかかるなんて、それはすごいことだったんだ。ある意味浅はかな考えかもしれないけど、何らかの成功を収められたというちょっとした希望になったんだ。
Meat Whiplash やThe Motorcycle Boyでジョンピールセッションをやったことも、ジョンピールを聴いて育ったものとして、すごいことだった。 Big Rock Candy Mountainが John Peel’s Festive 50に入ることは、メジャーじゃないかもしれないけど、とんでもないことだよね。
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長くなっちゃいました。note上の文章編集も長いとうまくできない~。
昔、NHK-BSでやってたtransmissionでmotorcycle boyのPVよくかかってたよね…インタヴューもあったよね~と検索したら、自分でアップしてた!えらい過去の自分!(こればっか。記憶力ないだけ)(のちに他の方が高画質でも上げてます)
美男美女。苦悩するインディスター。89年ってそんな時代でした。
訳の間違いなどありましたら、ご指摘いただけると幸いです。
次はshop assitantsやらなんやら、まだまだ続けたいです。