「愛してるよ」
私の父は、
おそらく何かの発達障がい(特性)を持っていて、
人と同じように仕事をしたり、物事を理解したりするのが不得手である。
言葉で気持ちを表すのが不器用で、
毎日お酒を浴びるほどに飲む、そんな人である。
今まで沢山仕事でミスをしてきたし、
沢山迷惑をかけてきたし、
沢山死にかけて、
家族を心配させ
絶望させてきた。
しかし、私の父は、
人の悪口を言わず、
不平不満を言わず、
物事を純粋に捉え、
まっすぐに考える人でもある。
だから彼は、
人の悪い面ではなく、良いところを見る。
純粋に。本当に純粋に。
そこのところを私は
とても羨ましく思っていて、
とても、尊敬している。
人がいちばん大事にすべきものを、
こどもの心のまま、
ずーっと、当たり前に持っているから。
これは、なかなかできることではないと思う。
そんな父は、私たちに、一番の財産を残してくれた。
それは、「愛してる」という言葉である。
父は、酔いが回ってしばらくすると、
(だいたい終盤の方に)
子どもや、妻の手を両手でにぎって、
まっっっっっすぐに見つめながら、
「〇〇(相手の名前)、愛しているよ」
と、真剣に、
それはもう真剣に、
まっっっっっすぐ、
真剣な声の調子で、言うのである。
迷いなく、
恥ずかしげもなく
しっかりとその言葉を伝えてくる父に、
私たち家族は、
度々圧倒される。
以前私が、お酒のことで
こっぴどく叱ったのに、
父はそんなことまるで気にしていない様子で(それもそれでどうかとも思うが)
まっすぐに、
「愛してるよ」
と伝えてきた時は、
神的な、人間を超越した何かが、
父に乗り移っているのではないかと疑ったほどだった。
そんな父と共に時間を過ごしてきた私たち家族だから、
父の影響で、
「愛しているよ」という言葉を、
素直に、
言うことができる人間になった。
愛しているよ
と言われると、
誰かに、愛しているよ、
と、言いたくなるのだ。
母と父は、
今では朝から
「愛してるよ」(「愛してるよ~!」ではなく、「愛してるよ。」って感じ)
と伝え合っているし、
関東で暮らす
兄も、姉も、
「愛しているよ」
という言葉を使う。
(私は姉とよく会うが、解散する時にはいつもハグをして、「愛しているよ~」と言い合う。
たまに恥ずかしくなるけれど、でも、人はいつ死ぬかわからないのだから、できるだけ愛は伝えた方が良いと思う。兄も、お嫁さんに「愛しているよ」とよく伝えるらしい。そのお嫁さんから伺ったことがある。)
不器用だけど、
私は、
父を、
愛している。
愛したいのだ。
母を、愛している。
愛したいのだ。
神の全貌をまだ知らないけれど、
愛している。
愛したいのだ。
愛するべき対象かどうかを吟味したり、
確かめてから愛するのではなく、
相手の善いところ、美しいところを、信じて、
積極的に信じて、
愛したいから、
「愛している」と言うのだ。
不思議と、
愛したいと思ったら、
はじめは愛せている実感がなくても、
気づいたら、
愛を、
そう思える何かを、
心の内に、感じるのである。