
昭和の雑誌をnote上で読みたい!
私の好きな昭和“古”雑誌、その魅力とは? 3誌で紹介
当noteアカウントの目的は私が好きな韓国ホラー映画について語ることがだが、実は私はもう一つ、雑誌も好きだったりする。今回は番外編として、自分の好きな雑誌黄金時代の雑誌文化について、その魅力をお伝えしたい。
雑誌、というか、古雑誌が好きなのだ。90年代や80年代や70年代の。特にアイドル誌やファッション誌が。
理由は、誌面をめくるたびに「タイムカプセルがはじける」ような気がして、お手軽にタイムトラベル体験が叶うから。
以下、コレクションから3誌を紹介するが、これをnoteをつかって世の中に広めていくには、どうしたらいいか、ということも、後半で考えてみたい。
①DUNK

この趣味の原点となったのが、かつて84〜90年にかけて存在した月刊アイドル誌『DUNK』だった。それ以前は昔のアイドル写真集を古本で集めていたのだが、それで「タイムカプセルがはじける」ような感興が起きたことは一度も無かった。
だが、写真集の延長線として買ってみた月刊アイドル誌『DUNK』の古本は、違った。1ページめくる度、まさに「タイムカプセルがはじけた」のだ!欠かせないのはテキスト、その時代に特有の言語センス、いわば“言魂”だった。だから写真集ではタイムトラベルできなかったのだ。
私が『DUNK』を蒐集していた時期は、90年代の後半。世は小室ファミリー華やかなりし時代からアムラー全盛期へと突入する頃だった。私だけが、ちょうど十年一昔前に当たる80年代後半のおニャン子クラブに何故か周回遅れでハマっていて、その活動期間(85〜87年)の『DUNK』全バックナンバーを揃えようと思い立ったのだった。この3年間のおニャン子人気は圧倒的で、当時の『DUNK』への登場率や表紙率は異常に高かった(人数が多いため)。ネットオークションなどまだ無い時代のこと、私は神田神保町に日参して古書店を探し歩き、バイト代の多くがこの趣味に消えていった。
流行というやつは十年で完全に入れ替わり、現時点から十年前ぐらいのノリが、一番恥ずかしい、一番アウト、と感じられてしまう。「十年一昔」とはよく言ったものだ。95年の私は85年の『DUNK』のテキストを読みながら「アウトだな」「恥ずかしいな」と感じ、その痛ガユい感じを楽しんでもいた。
『DUNK』85年10月号、これは、その年の春にデビューし人気うなぎ登りのド素人女子高生集団だったおニャン子が、この月刊アイドル誌で初めて特集された記念すべき号なのだが、57ページからは故・中山美穂の記事も掲載されている。その記事タイトルは
なんと小学6年生で初ナンパ わたし・ステキな問題児〜中山美穂まんが大劇場〜
で、扉のリード文には
ちょっぴし人見知りっ子のアタシだけどねぇ 友達と一緒になるとナンパごっこなんかもしちゃったんだからぁ!マジメじゃないけどツッパリでもなかった…とナカヤマは思います
と、ある。
記事中で「ステキ」「アタシ」「マジメ」「ナカヤマ」などと、片仮名を脈絡無く多用するこうした文体のことを「昭和軽薄体」と呼ぶ。椎名誠や糸井重里ら80年代のエッセイストたちが使い始め、雑誌文化にも広まった、当時独特の書き言葉であり“言魂”だ。
この85年感、私が95年に読んでいた時も完全にアウトで恥ずかしいと感じたものだが、それこそが、タイムカプセルがはじけるということ、タイムトラベル体験なのだ。以降、私はこの痛ガユさが病みつきになってしまい、次第に、アイドルに限らず古雑誌というタイムカプセルそのものへと興味の対象を広げていったのだった。
②明星ヘアカタログ

とはいえまだアイドルへの関心を引きずっていた私が、その次に集めたのが『明星ヘアカタログ』だった。これは70年代からの『明星デラックス あなたとスターのヘアカタログ』が82年夏に改題されたもので、94年まで存続した。一巻の中で大勢の人気アイドル達がヘアモデルを務め、その髪型になるためのスタイリングのハウツーも紹介されていた。
86年秋の号32ページからの3ページでは、故・中山美穂がモデルを務めているので、またご紹介しよう。
モノトーン 着ればウキウキ♡ 秋の美穂
との見出しで、
ほとんどモノトーンの洋服しか着ない美穂ちゃん。ことしの秋も、モノトーンしかないぜってなわけで、ハリキってモノクロ娘になっちゃってるので〜す。はい、そこで一句。モノトーン、着ればウキウキ、秋の美穂!
とリードが踊る。
誌面上、衣装もモノトーンでキメているが、モノトーンが流行し“カラス族”が持て囃されたのは80年代初頭。5年近くの隔たりがあり、そのトレンドとこの号での中山美穂の格好に連続性は無いように思われる。単なる彼女の個人的好みだろう。
かくして、私のタイムカプセル的興味関心は、流行やファッションの領域にも広がっていったのであった。
③Olive

流行やファッションへの関心から集めていったのは主に女性ファッション誌だった(アイドル同様、可愛い女子にしか興味が無いため、男性ファッション誌は興味の対象外)。創刊号からの『CUTiE』や、「ニュートラ」「ハマトラ」ブームを仕掛けていた頃の『JJ』など、あれこれ蒐集したが、ここでは伝説の少女誌『Olive』を紹介しよう。
80年代には「Olive少女」という言葉があったぐらい、ある系統のトレンドを隔週刊誌『Olive』が当時は牽引していた。具体的には“フレンチガーリー系”とでも言ったらよかろうか。フランス語の「リセエンヌ(女子中高生)」を日本でファッションコンセプト用語化し、「パリのアパルトマンに暮らすお洒落な女学生みたいなファッション&ライフスタイル」を打ち出した。
おニャン子メンバーでなら、初期の会員番号12番 河合その子と中期の会員番号36番 渡辺満里奈の2人が、この「Olive少女」「リセエンヌ」的なコンセプトの体現者だった。
河合には「さよなら夏のリセ」という曲まであるほどだ。
(なぜか同時期に南野陽子も完全同タイトルの全く違う曲を歌っていたが、それぐらい「リセ」は時代のキーワードだった。個人的には河合その子の圧勝だと思う。その子がまとう雰囲気こそが当時のリセっぽさだ。
なお元々は、この頃に公開された、ロジェ・ヴァディム監督によるフランス版『アメリカン・グラフィティ』といった趣きのフランス映画の題名だった。センス良い邦題!)。
閑話休題。雑誌『Olive』の話に戻そう。その誌面をめくれば、そこにはフレンチ・ガーリーな世界観が広がっていた。ヨーロピアン・テイストへの憧れはバブルへと向かう80年代後半の日本で『Olive』から飛び出し、CMからアイドルまで、日本における表現物全般に広く見られる時代のトレンドとなっていった。例えば中山美穂がバブル絶頂の91年に歌った井上ヨシマサ作曲の「Rosa」は、南欧風のアレンジ。アイドル時代の「ツイてるねノッてるね」「派手!!!」などとはだいぶ趣を異にする。縦長シングルCDジャケットに踊るRosaのロゴも、どこかラテン風だ。こうしたタイポグラフィが当時は流行った。
しかし『Olive』、創刊時からヨーロピアン・コンセプトを打ち出していた訳ではない。上で表紙を紹介した84年2/18号の「リセエンヌ(パリの中・高生)のおしゃれ感覚にドキドキーー⚫︎」特集号では、雑誌そのもののキャッチフレーズが「Magazine for Romantic Girls」となっているが、ロマンティック(リセエンヌなどの)路線はこの頃編集方針を転換して始めたもので、実は方針転換前、82年6/3号の創刊時点では「Magazine for City Girls」だった。ロマンティック系とシティー派では、路線が正反対ぐらい違う。
そもそもUSA西海岸カルチャーを日本に紹介し、80's前半の流行の方向性を決定づけた男性誌『POPEYE』の姉妹誌としての出自を持つ『Olive』である。初期2、3年はアメリカン志向で、また「マイコンを使いこなそう」「ターボエンジンの仕組みを理解してマイカーを華麗に運転しよう」といった特集が組まれる、自立志向の都会(City)派女性のためのコンセプトだった。リセエンヌ時代以降の『Olive』と比べて、文字量が何倍も多く、白黒ページが大半で、それが写植の文字で真っ黒に埋め尽くされている雑誌だった。明らかに読むことメインの雑誌で、グラフィックな傾向が強まるリセエンヌ期以降の『Olive』とは全くの別物だったのだ。
提言!昭和の雑誌文化よ、noteの中で令和の世に甦れ!!
紹介はこれぐらいにして、さて。古雑誌の蒐集は私個人の趣味とは言え、90年代や80年代や70年代の雑誌がここにあります。見てみたくないですか?と問われて、見たくないと答える人は少ないのではなかろうか。「わー懐かしい」とか「昔ってこんなだったんだ」とか、誰もが時が経つのも忘れ思わず見入ってしまうはず。有料でも読みたいか?と問われても「それでも読みたい!」と答える一定のニーズも期待できるのでは?
でも、残念ながら、もう読めないのである…。雑誌は作り捨て・読み捨てだったからだ。『Olive』のように、かつて流行を生み、時代をリードし、多くの人が読み影響された、文化史的に重要な雑誌、それが、二度と読めない…という現状は、控え目に言って残念、はっきり言えば間違ってるとしか言いようがない。そこが、私のもう一つの関心領域である映画とは大きく違うところだ。
なぜ、昔の雑誌は見ようと思って見られる状態になっていないのか!? 映画はなっているのに!
映画の著作権者は、作品で何度も何度も半永久的に儲けようとする。劇場公開が終わればソフト化し、テレビに売り、配信にも売り、何十年も経ってから今度は「4Kデジタルリマスター版」などと謳って、また売り出す。8K版も売るだろうし、今後16Kが発明される時にもまた売るだろう。骨までしゃぶり尽くすという、IPとして正しい使い方だ。劇場公開で製作費を原価回収しその先のソフト化以降からが利益、という収益構造すら、国によってはなっていたりもする。
雑誌は、さにあらず。最初に一回だけ書店売りして、それでお終いだ。なんとも勿体無い話ではないか!雑誌だって立派なIPで、どう考えても高いコンテンツ価値があるにも関わらず、出版社は過去コンテンツを再活用しようとしてこなかった。
ボトルネックとなっているのは
再公開する場が無い。再公開するメリットも無い。だから再公開の発想そのものが無い
関係者に再報酬を支払う必要が出てくるかもしれない(原契約次第だが)。つまり権利処理。それが面倒である
あたりだろうと想像する。1.は、noteをそういう場にすればいい。noteで有料記事として公開したりメンバーシップ機能を使ったりすれば出版社(著作権者)に再び利益をもたらしてくれる、というのが、私のこのポストの結論なのだが、いったん2.の、関係者への再報酬ということから考えてみよう。
映画では、それをするための仕組みが存在する。スタッフやキャストに、再リリース時に再度お金が入る仕組みが整備されているのだ。一例として、洋画の翻訳者の場合。「こんど民放でTV放映する映画の吹替用台本を翻訳してください。ギャラうん十万円で」という仕事を過去に請け負ったとして、後年になりそれがソフト収録など当初の用途以外のことに流用される(業界用語で「二次使用」「転用」と言う)なら、その時に追加でその分のギャラもくれ、と当然なる。
それを支払う仕組みが、映画業界の方では確立されているのだ。翻訳者だけでなく脚本家や俳優や声優でもそう。二時使用時の料率や定価が、映画団体側と俳優組合・翻訳者協会との間で、団体交渉により取り決められている(ソフト版に二次使用する場合の翻訳者への二次報酬はいくら、声優だと主役いくら、脇役いくらetc)。そのため、都度都度交渉する必要すら無いのだ。システマティックかつオートマティックに二次報酬が支払われる仕組みが整備されている。
この仕組みを、雑誌業界の方はと言うと、持っていない。雑誌は作り捨て・読み捨てが当たり前だったから必要無かったのだ。例えば記事を書いたライターに支払う二次使用料。またカメラマンへの、そして被写体となったモデル(前に挙げた『DUNK』『明星ヘアカタログ』の例で言うなら芸能人の故・中山美穂。彼女の場合は遺族)への二次使用料を支払う仕組みが、存在してないのである。

では、どうしたらいいのか?
これを解決する方法は、ある。例えばモデル。例えば中山美穂なら、ただ単に、そのページは再公開しなければいいのだ。どの記事を再公開しどれはしないかを出版社側が選べばいい(つまり雑誌を一冊まるごとnote上で再公開することは難しい)。芸能人なら今でも連絡は取りやすいが二次使用料は高くつくだろう。名も無きモデルなら二次使用料は安くても、今となっては連絡先が分からないというケースも多かろう。そうした理由で権利処理に困難を覚えるなら、そもそも再公開しなければいい。
ライター、カメラマンも同様で、今となっては連絡先が分からずコンタクト不能な外注の人が関わっているページは、そもそも候補から外せばいいし、逆に、社内の、社員カメラマンが撮影して、社員編集者が自分で書いた記事ならば、それは出版社の一存でnote上での再公開が可能だと、優先的に候補になるはずだ。
いずれにせよ、この権利処理の仕組みを構築する上では、一度は、著作権法や知的財産法に詳しい弁護士に法的アドバイスを受ける必要があるだろうけれども、仕組みさえ整ってしまえば、あとはただ出版各社を相手に回していくだけだ。
「やってみましょうよ!」と出版社を口説いて、かつて発行されていた雑誌の一部記事のnote公開、令和の世に甦る昭和の雑誌、といった取り組みが始まって、どんどん広がっていったら、それは、懐かしくて新しくてとても楽しいことでは?と、私は夢見る。
テキストは当時のものが既存で在るので、新たな執筆者がいなくてよく、原稿料が発生しない。当時の誌面をOCRにかけるだけ。OCR読み込み時に生じる多少の誤字はAIチェックにかければ、今どき校正に人手もかからない。誰かが手動でnoteに記事登録しなければならないが、noteの機能は至ってシンプルなので、自社のWeb担当がやるにせよアウトソーシングに出すにせよ、人手やコストがさしてかかる作業でもないし、特段のトレーニングや習熟も要らない。グラフィック類のスキャンも同様だ。投資を抑え小規模のテストスタートができる。
このアイデアで人手とコストが一番かかるとしたら前述の通り権利処理だが、すでに提案した通り「権利処理が難しくないページ」からまずは優先的に公開し、それでnoteの有料記事にしたりメンバーシップ公開したりマガジン化したりして、このサービスの収益性をテストしてみればいいのである。
先行する出版社が成功すれば他社も追随するだろう。また、収益性があるということになれば、そこから権利処理が面倒な記事でもトライが始まって、それこそ中山美穂の御遺族と二次使用料について協議したり、連絡先が分からなくなり交渉不能状態のライターやカメラマンを探し出す、といったことまで始まっていくかもしれない。いよいよnote上の古雑誌コンテンツは充実していき、noteという、今はクリエイターが集ってめいめいが発信の場として利用している空間が、雑誌文化華やかなりし時代のアーカイブとしても、新たな価値を持つことにもなる。
noteは新しいプレゼンスを獲得し、出版社は死蔵していたIPで儲かり、モデルやライターやカメラマンにもゆくゆくはお金が落ち、ユーザーは昔を懐かしく楽しめて、誰もが得をする、まさにWin-Win-Win-Winのアイデアではないだろうか [終]。
