誰への配慮だよ
おもろいことを目掛けて生きていると、自分の芸が誰かを傷つけるのではないかということを、一度は考えたりする。まぁ、あれを芸って定義して良いのか別としても、自分のやったことが誰かを傷つけるかもな、ということは、一応、考える。重要なのは「一応」というところで、あんまりにもこれを突き詰めすぎると、結局、表現することは諦めて、口をつぐみ、何を聞いても黙ってニコニコ、何を言う時も黙ってニコニコ、そんな薄気味悪いディストピア的人間生活を余儀なくされてしまう。それはたしかに、へんに波風を立てないという意味では最適解かもしれないが、シンプルにくそおもんないのでやだ。
トム・ブラウンが大好きなんだけど、彼らの"ツカミ"の部分で、「夢屋まさるは、56します!」というのがある。おれは最初にこれを見た時、腹抱えて爆笑してたんだけど、このツカミで傷つく人がいるのもまた事実。夢屋まさるのファンとか、そもそも56すという表現が受け付けない人とか、身内を事件で亡くしちゃった人とか。じゃあこのツカミは誤りかというと、おれはそうは思わない。たとえば誰かがこれに異を唱えて、トム・ブラウン含む数多のエンターテイナーが今よりさらにコンプラを意識し始めたとする。過激な表現を避け続けまくった結果、そのうち五体満足であることそのものがコンプラ違反になるかもしれない。さすがにそれは極論だけど、「自分とは関係のない界隈」のことまで意識し始めたら、この滅菌作業は果てしないものになる。
おもしろいことをしようとすれば、どうしてもある程度は過激にならざるを得ない。そのへんのバランス感覚は人それぞれだが、配信やってると、無闇矢鱈と無菌化されたものばかりに行き当たる。例えるなら、無言でずっと猫を撫でてるみたいな、毒にも薬にもエンタメにもならないような淡々とした配信。意見や価値観の部分を話すと、どうしても視聴者との齟齬が生まれて、なんか軋轢っぽい雰囲気が出るから、黙っとく。せいぜいその程度だと思うんだけど、それって誰のための配慮?おれには自意識過剰にしか思えない。
じゃなんでこういうふうに自意識過剰になっちまうのかというと、おれが思うに、生きたコミュニケーションが死につつあるから。フェイス・トゥ・フェイスによるナマのコミュニケーションの煩雑さを嫌った人たちが、「ネットの関係がちょうどいい」と御託を並べて、誰にも邪魔されない自分の聖域をシコシコつくりあげる。「ひとりが楽」「気を遣いたくない」「自分のしたいことだけしたい」、そういう世論も相まって、どんどんどんどん自分の考えに固執してこだわって、「多様性」とは口で言っていても、その真意を知ろうともしないまま、無害で無個性、とことん代替可能な機械部品みたいな人格が出来上がる。ひとつ前にも書いたが、誰にも個性がないのなら、あとは変えようのない見た目で差別化を図るしかない。だからVtuberが流行る。声を褒めそやす文化が形成される。
おれがエンタメをやる時、念頭にあるのは「今見てくれている人」だけ。もちろん、自分の言葉があらぬ方向へと向かわないよう、舵取りは怠らない。でも、「こう言ったらこういう人が傷つくかも」なんてことは、いちいち考えない。だってそれは自分本位のわがままな思想でしかないし、ナマのコミュニケーションではないから。おれは「誰も傷つけないエンタメ」をやりたいのではなくて、ただ今見てくれている人に、できる限り高品質な暇潰しをお届けしたいだけ。これがもっともっと有名になって、誰もがおれの名を知るようになれば、ある程度コンプラを意識する必要もあるとは思うが、所詮個人が趣味でやってる程度の規模で、あれこれ策をめぐらすのは自意識過剰にも程がある。表現の自由はもちろんのこと、表現を受け取るか受け取らないかの自由もある。これからの時代、黙ってたって棺桶が迎えに来るだけだから、臆することなく自分の意見を発信できるような「個性」が生き残ると思うし、おれはそういう人間にしか興味がない。