インディーズTシャツブームの勃興と終焉について(4)LESS北山友之
2003年7月20日(日)青山アミーホール。Tシャツラブサミットの第2回。僕にとって初めての東京での直売り(それまでスーパーフェスティバルや展示会イベントは参加していたが僕が東京で直接売ったことはなかった)の日。実はこの決戦に挑むまでに僕はタイトーとのコラボ話を進め、そして2002年中に契約を締結していた。nendo(草野剛氏、藤本健太郎氏によるデザイン集団)やデザフェスの8bit好きがブートで作っていたアンオフィシャルなグラフィックゲームT。素晴らしいデザインの数々に触発はされたが、僕にとって版権がきっちりしていないものは元の人(原作者)たちに失礼だと考えていたし、曲がりなりにもプロ(Tシャツだけで生活をしている)としての矜持があった。
タイトーで最初に選んだタイトルは「スペースインベーダー」。ちょうど2003年で発表から25周年にあたる、ここからウチはゲームとのコラボを延々繰り返すブランドになるんだ。そんな青写真があった。不思議なことに誰もこの巨大タイトルのTシャツを作ろうというブランドはいなかった。もっと言うとほかのアパレルアイテムも全く出る雰囲気がなかった。「なんだよ、誰もいないのかよ。」締結した瞬間にもう勝った気になった。そして、セールスという意味において僕らは大いにこの分野で勝った。渋谷でインベーダー25周年コラボがスタートと言ってVANSやG-SHOCKやポーターのアイテム販売が始まったのは僕らのセールスが一通り落ち着いた半年以上後のことだ。なのであの世間的なゲームアパレルブームは僕が影響を及ぼした一人だと今も信じて疑わない。任天堂オフィシャルのKING OF GAMESが始まったのは奇しくも同じ2002年。そして僕は高らかに宣言した。「ゲームのTシャツといえばMARS16でしょって言われる日が来ますよ。ファミコンのタイトル全部出して、メガドラのタイトル全部出して、そんなクレイジーなことをやってやりますよ。」当時雑誌のインタビューで僕は調子に乗って語った。僕はそう調子に乗っていた。
Tシャツオンリーの販売イベントTシャツラブサミット。僕にとって離れていた仲間たちと一つ会場で競い合う初めてのイベント。そこに持ち込んだのはすでに東京を歩いているとちょこちょこ見かけるようになっていたそのインベーダーのTシャツだった。結論を言うと段ボールからずっとTシャツを出し続け、終わるころには2枚を残し全部なくなって、僕は段ボールを畳んで身一つで会場を後にした。当然だ!という気持ちとお客さんがこんなにいたのかよ、すごいな!という気持ち。僕はハイになってお客さんとずーーーーーっと喋っていた。戦えることのうれしさ、デザインを見てもらえるうれしさ、そして感想を言ってそれに応える双方向の感動。打ち上げがあったのかは知らない、そして特にブランド同士の会話も無かった。会釈で充分。みんなも売れているようで、顔は一様に明るかった。Tシャツはずっと詰めている間はプレッシャーがあるが売れるとちょっとホッとする。またここからTシャツを作り続けよう。そして、またここでお客さんの顔を見ればいい。一つの目標ができた、そんな気がした。
その後タイトーとは「エレベーターアクション」「バブルボブル」「ニンジャウォリアー」「ダライアス」をリリース。さらにハドソンと契約を結び「スターソルジャー」と着々とゲームTのコラボは続いていく。そして「迷宮組曲」「チャレンジャー」「高橋名人の冒険縞」の3タイトルのデザインは中目黒ばんから仲良くなったハンバーグ009にデザインを依頼。ハンバーグ009のファンの方が多数僕らにも注目してくれ、相乗効果でインディーズTシャツファンから絶大なレスポンスをもらえることになる。(5)に続く