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理屈は正しくても有害になるアイデア


頭のいい人が間違った判断をする。
歴史はことあるごとにその事実を記録してきました。心理学者のアービング・ジャニスさんは、高学歴のエリートが集まって極めておろかな意思決定をした例を数多く研究し、「どんなに個人の知的水準がたかくても、同じような考え方を持つ人が集まると意思決定の質が下がる」ことを明らかにしました。

知能指数が高い人でも、みんなが同じ考えや意見を持つ人同士だったら、彼らが導く「答え」はソリューションを提供するどころか害悪にさえなる。19世紀のロンドンでは、大流行したコレラに対して無力どころか、より多くの死者を出す対策を考えたのは、聡明で論理的で、高い教育を受けた科学者や医者でした。

ある人は「消臭剤」によってコレラをせん滅できると考えました。産業革命の真っただ中。農業で生計を立てられなくなった人がロンドンに押し寄せ、工場労働者として働くようになりました。人口増加、都市機能が追いつかず、狭く不潔で粗末な家屋に閉じ込められる人々。特に下水処理に問題があり、汚物が庭や地下室、道端などそこら中にため込まれていました。

つまり「ヒドイ匂い」がする地域の人々がコレラで亡くなっていたので、消臭すればコレラがなくなると考えられたのです。ウソのようなホントの話で、効果がないのは言うに及ばず。さらにもっと果敢に、汚物処理に躍起になる役人も存在しました。とにかく下水整備を急ぎ、汚物を川へ流せるように。

ところが死亡者は、減るどころか増えてしまう。第一次大流行時の死者数は2万人。役人ががんばって下水処理が可能になったあとに訪れた第二次大流行では、7万人の死者を記録しました。知的水準が高く、見識も十分だった役人、科学者、医師が集まって侃々諤々の議論。時間と労力をかけて、知恵を絞って出したアイデアはムダ、というかむしろ有害でした。

「コレラ事件」は後日談あり。「疫学の父」と評されるジョン・スノウという外科医が状況を一変させました。コレラ死亡者の家を訪問して聞き取り調査を開始。同じ状況下でコレラにかかっていない人を調べ、データから「違い」を探し出す。すると見えてきたのは「水道会社」でした。

水道会社Aを利用している家で1263名の死者が確認され、水道会社Bでは98名という「違い」 使う水道会社によって死亡リスクが7.7倍になるというデータです。スノウさんが下した意思決定は「とりあえずしばらく水道会社Aの水を使わない」というシンプルなもの。結果、コレラ感染はぱったりと止まるわけですが、いったい何が起きたのでしょうか?

じつは水道会社Aと水道会社Bの違いは、前者がテムズ川の下流、後者が上流から採水していたこと。既述のとおり、勇敢な役人たちは排泄物を大量に川に放流していました。役人は、効率的にコレラ患者を拡大再生産させる社会システムを意図せず作り上げてしまっていたのです。

頭がよくて、行動力に優れた人たちを集めて議論させただけでは、スノウさんのようなシンプルかつ強力な解決策は出てこない。というかむしろ相手にもされないアイデアだったかもしれません。代わりに採用される賢者たちのアイデアは、理屈としては正しく見えても、無益かもしくは害悪でしかない、そんな事例でした。

ここで注目したいのは、勉強したり学んだりして知識が豊富な人たちが「正解」を出せるとは限らないということ。そしてもうひとつは「統計」の力強さです。スノウさんは、地道な聞き取り調査でデータを収集、コレラ患者と非患者の「違い」の抽出に尽力。つまりサンプリング調査による科学的な手法が人類滅亡の危機を救ったということです。

長年スポーツビジネスの世界で仕事をするなかで、頭がよくて、たくさん勉強している優秀な人材が異業種から参入してくるようになるにつれ、いろんな「正解」に触れる機会に恵まれた私。ところが正解が氾濫して、「いったい何を信じればいいのか」わからなくなり、混乱して、たどりついたのが「大学院で学び直そう」というものでした。

論文をたくさん読んで、最初はよくわからなかった論理も、続けていると理解できるように。たくさんの研究者が、必死に集めたデータをもとに編み出した論理は科学的。統計学的に信憑性が高く、実際に現場で成果につながった事例も少なくありません。つまり「使わない手はない」わけです。

ですがこの論理、いかんせん読みづらく、むずかしい文体で理解するのに時間を要する。いそがしい現場の人が、疲れた体にムチ打って、がんばって論文を読むなんてなかなか考えにくい。そして読み込まないから論理の骨子がわからない。結果、なぜか「机上の空論」的に処理して学者の論理にフタをしてしまう。以前の私がそうでした。

加えて、プライドの高い研究者たちも、「使いたくなければご勝手に」となるのもうなずけます。データの収集、分析、論理に昇華させる作業が大変なのは論を俟たないこと。その苦労を承認してくれないことほど悲しいことはなく、意固地になってしまっても仕方ありません。でも双方のこの状態、誰も得をしません。

研究者の努力が、現場で採用され、その結果、現場の成果があがればみんなハッピーです。ところが現場とアカデミックのあいだに深い溝、齟齬、葛藤、軋轢が間違いなく存在。そして私はここに、自分の存在意義を感じています。学者とビジネスパーソンをつなげる存在。世の中をハッピーにできる存在になりたい。最近強く、そう思うようになりました。

論文をたくさん読み、より有意な論理を抽出して、いかにわかりやすく現場の人たちに伝えられるか?SNSを見ていると、優秀な人たちがたくさんいて、みんながスポーツ界をよりよくしたいという強い思いが伝わってきます。そして若干の「同質性」もひしひしと。そこに私のような異質な存在が、科学的な道をひとつのアイデアとして提示できれば、業界への貢献にあり方として悪くないのではと思っています。

がんばります!
久保大輔




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