見出し画像

花について #02 花束と贈り物

花束をプレゼントにもらったらどう思うか。は、人によって意見がかなりわかれる気がする。

今の時代、男性が女性に喜ばれるプレゼントをすることはなかなか難しい。ちょっといい物をとジュエリーにすれば「好みに合わない」、「(本当に欲しい価格帯のものと比較して)中途半端だからいらない」と言われ、コスメにすれば「好みに合わない」、「使わない」と言われ、雑貨にすればまた「好みに合わない」、「置きたくない」と言われる。こういう評価を受ける品物に共通する問題は、もらう人の好き嫌いを除いて純粋に商品として見た時に、一つの用途しか満たしてくれないことにもあると思う。好みにあわなかった時に転用のしようがない。それに固形だからおいそれとは捨てにくい。だからメルカリがはやる。

そもそも、形に残るものはなんだって難しい。少し距離が遠ければ、同性同士だって躊躇するくらいだ。そんなことは皆が知っているはずなのに、悲劇は後を絶たない。

普段、困ったら消えものにしている(意味があって選ぶ時ももちろんある)。好みにあわなくても食べ物なら食欲や渇きが癒せるし、別の人にお裾分けだと言って分ければ自然になくなっていくからだ。他人にぴったりの品物を選べる人がもてはやされるのは、裏返せばそれだけ難しいことの現れだ。だからそれはそれでいいのだと思う。

この理論で言うと、花束もかなり厳しいラインにあるかもしれない。最近はあまり聞かなくなったとはいえ、一時期「花束をもらうなんて恥ずかしい」という女性もよく見かけたし、そういう考え方の人は今もおそらく一定数はいるだろう。単純に手に余る、日常的に飾らないから花瓶がなくて困る、花を貰っても枯らすから嫌だ、など理由はいろいろあるらしい。その気持ちもわかる。

ただ、わたしは花が好きなので、どうしても花束には肯定的になってしまう。もらったらすごくうれしい。マンガで描くなら受け取ったコマの背景はファンタジックな網点トーンにしてほしいくらいだ。知らない人から突然の赤いバラ100本とかはさすがに怖そうだけど、それでもくれた人をそこそこいい人認定できる気はする。花はお腹がふくれるものではないし、物理的に役に立つか立たないかでいえばたぶん立たない。でも確実に自分の機嫌はよくなるし、うれしい記憶を残してくれる。花の種類が少しくらい好みじゃなくても、好きな何かと混ぜればなんとかできる。長さや形を変えれば雰囲気だって変わる。もう理詰めでなんだかんだ言う段階じゃないのだろう。

数年前、誕生日に友達からサプライズで花束をもらったことがある。大好きな芍薬が入った華やかなもので(誕生月と好きな花の季節が合っているとラッキーなことが多い)、友達が「似合うと思って」と言ってくれたのがうれしく、電車でも他の人に少し見せるようにして帰った。

人が何かを自分に選んでくれている姿を想像すると、楽しい気持ちになれる。花はその効果がいろいろな物の中でもずば抜けていると思う。女性でも男性でも、花屋で自分のための花を探してくれている。その姿はちょっとした映画やドラマのようではないか。自分で決められなくても、店員さんにお薦めを選んでもらったり(その時は自分の印象をある程度は伝えているだろうことも含めて)、店頭に置かれた複数のブーケから印象に合うものを選んでくれたりしていると思えば、それだけでも十分うれしい。

ついでに言うと、駅の花屋で花を選ぶ男性に遭遇するのもうれしい。そういう光景は少し遅い時間に多い。包装紙でざっくり包まれた1本の花を手に、薄暗くなった構内を帰っていく姿は、どんな人もすてきに見える。花が祝うためのものか謝るためのものかはわからないけど、少なくともその場では。そして、その男性が贈った花が喜ばれる(もしくは怒りを静める)ものになっていてほしいと願う。

今、花束というプレゼントはどう思われているんだろうか。どんな時代になったとしても、「花束をもらってうれしくない女性(人)はいない」という言葉を信じていたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?