見出し画像

花について #08 サンクコストと博打

今年は芍薬がうまく咲かない。花屋に行くのは2週間に1度のサイクルだし、よくここに書くように相手は生ものなので花との出会いはそこそこの博打感がある。でも5月下旬になっても好みの芍薬に出会えず、そのまま6月に入ってしまう年は珍しい。今年は、なぜか地域も知り合ったジャンルも全然違う知人たちがInstagramに芍薬の写真を一斉にアップしていて、それもことさらに芍薬を意識させる要因だった。季節的になんか出遅れたなーという思いはありつつも、花屋のなじみの店員さんたちに「やっぱり好きな色を飾りたいし」とぶつぶつ言い、「好きな色が入ってませんもんね。まだ大丈夫だと思いますよ」とフォローされながら(好みをよく知ってくれている)、イキシアや緑のバラを買ってさわやかな5月を過ごしていた。

6月になって梅雨入りもし、店先にはもうヒマワリの数が増えていて今年の芍薬はナシやなあ、と思ったところでようやく好きな色の芍薬と遭遇できた。でも不思議なもので、季節感が強い花は、どんなに好きでも季節が変わりつつあるのがわかると今回はいいかという気持ちになることが多い。たぶん、バーゲンで少し安く買えるものを見に行ったのに、プロパーで次の季節の洋服を買ってしまう感覚に少し似ている。そういえば着物だって一つ先の季節を先取りした柄選びが基本だから、昔の人のものの考え方は今でもこういう感覚的なところにちゃんと通じているのだと思う。1月に紫陽花の着物や洋服を着ていたら、一つの柄だとしても、あれ? とは感じるだろうし。
そういうわけでこの日も芍薬を買うかどうか一瞬考えたが、大好きな花だし、あんなに長い間飾りたいと思っていたのだからと結局買って帰ることにした。こういうのを軽めのサンクコスト感覚と言うのだろうか。ここまで大事に楽しみにしてきた時間の行き場がなくて、せっかくだし満たしたいと思ってしまうあの感覚(を、花に持つとは思わなかった)。次の季節、初夏への思いは、黄色と紫のカラーを一緒に買って満たすことにした。

でもやっぱり、そういう煮え切らない感じで買うのはよくないらしい。店員さんは、芍薬も盛りだからこれは恐らく咲くと思うと言いながらも、念のためにと咲きかけのつぼみも混ぜてくれたけど、買った3本はどれも咲きかけた状態で止まってしまった。花と出会えるか否かの博打に加えて、芍薬はその存在自体に博打の要素がある。以前と違ってそういう咲かない可能性をわかった上で買っているから、こればかりは仕方ない(だから咲くと普通の花の数倍うれしい)。5日ほど経つと、花びらの縁が少しずつ枯れはじめてきた。内側の花びらは元気そうなので外側の蜜を拭いたり、萼のあたりを少し剥がしてみたりもしたが、効果はそれほど見られないようだった。

その翌日、水替えをして斜めにカットしたら、その震動でボソッと音がして花の一部が崩れ落ちてしまった。芍薬は一枚でも花びらが落ちるとそこからどんどん緩んで落ちていく。そうなると手入れしようにも難しい。諦めて花の中をよく見ると、花心に近い花びらにも茶色い枯れが入っている。完全に開き時を逃してしまっていた。いくら外から覗いて手入れをしても、こればかりは本当にどうにもならない。

枯れた花は嫌いではないし、どちらかというと好きなほうだ。ただ芍薬は花びらが柔らかいせいか、枯れると途端に草臥れた雰囲気が勝ってしまう気がするのでいつもあまり粘らない。わりとあっさりと捨ててしまう。まだ鮮やかな色の花びらがごみに混ざる様子は、なかなか退廃的で諸行無常の感がある。でも、美しいばかりではない、生きているものの移りゆく様子が見えるからこそ、生花が好きなのだとも思う。
今年の芍薬はもう最後の一本になってしまった。ここから咲いてくれたらうれしいが、どうなるだろうか。このまま終わってしまったとしても、それはそれでいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?