『先見の明』伊達政宗の父、輝宗の生涯【THE☆JACABAL'S 公演『伊達政宗』講座 vol.2】
どうも!
この度、THE☆JACABAL'S 公演『伊達政宗』
時代考証担当を仰せつかりました、小松雅樹です!
より「伊達政宗」を楽しんでいただけますよう
これから数回に渡って、伊達政宗や伊達政宗が生きた時代背景などを
解説していきたいと思います。
どうぞよろしくお願い致します!
第2回目は主人公・伊達政宗の父である
伊達輝宗についてお届けします。
第1回目『伊達政宗ってどんな人物?』の記事はこちら↓
若くして当主となった伊達輝宗
輝宗は天文13年(1544)、伊達晴宗の次男として生まれ、彦太郎と名付けられました。
徳川家康の2歳年下です。
11歳で元服し、輝宗と名を改めます。
伊達家は元服の際に代々足利将軍から一字頂いており、
輝宗が頂いたのは『剣聖将軍』と言われた足利義輝。
塚原卜伝から『一の太刀』を授けられ、『最も強かった足利将軍』と言われた方です。
その義輝から『輝』の字を頂き『輝宗』と名乗りました。
兄は岩城家の跡継ぎになっていたため
輝宗は次男でしたが家督を継ぐこととなり、
当主となったのは17歳の年。
父の隠居で若くして伊達家十六代当主となりました。
小競り合いの度に姻戚関係(親戚同士での結婚)を結んでいた東北の各武将達でしたが、
輝宗も類に及ばず、祖父の死により力関係が危うくなると見て妹を葦名家に嫁がせたり、
自身も最上義光の妹『義姫』を娶るなどしました。
義姫とは仲睦まじく、翌年の永禄10年には長男『梵天丸』が誕生しました。
梵天丸は後の政宗ですね。
『先見の明』の輝宗
輝宗は外患、つまり隣国との紛争が落ち着くと
内憂、つまり家中の再編成にかかりました。
鬼庭左月斎(良直)を内政に当たらせ、鬼庭家とその姻戚の片倉家に家中をまとめさせました。
外政には後藤基信をつけ
織田信長、柴田勝家、北条氏政らと交流している事から、
単に東北制覇のみを見ていた武将ではなかった事が伺えます。
ちなみに、永禄3年には近隣にとっては『若僧』だった信長は桶狭間で今川義元を討ち、永禄11年には将軍・足利義昭を奉じて上洛しています。
輝宗には、先見の明があったということですね。
その後、上杉謙信の死による越後の争乱に柴田勝家と連携しましたが、
中央に媚を売るというより、来るべき時に際して東北が一つにならねば!という思いがあったようです。
輝宗と政宗の関係
そんな『先見の明』の輝宗。
幼い頃、片目を失った嫡男の梵天丸を大変愛し、不憫に思い、その裏返しか教育には一段と熱が入ったようです。
名僧、虎哉禅師を米沢城招き、人間は学友と競いあって伸びるの例え通り、
片倉小十郎(景綱)らを学友としました。
これは、片倉小十郎が後の政宗の側近となっていくことも見越した上での采配であったようです。
後に、片目の政宗を廃嫡し弟の小次郎を跡取りにという論争が持ち上がると、輝宗はこれを断固拒否!
おそらく輝宗のビジョンを達成できる『才覚』を見抜いての事だったのでしょう。
政宗が自分が家督を継いだ年くらい(17歳前後)になると、早々に政宗に家督を譲って自身は隠居してしまいました。
その後は軍義・評定などからも退きましたが、
議事が紛糾するとふらりと現れ『どうした?』と席に着くと、
何故か興奮していた者も冷静さを取り戻したそうです。
政宗に未来を託した男の散り際
天正13年、政宗は畠山義継を降したが、畠山義継は「なんとかお取りなしを!」と、
苛烈な戦後処置を行った政宗...ではなく、温厚な父・輝宗に面会を求めました。
輝宗は承諾し面会に応じるが、これは温厚な性格からというより、
輝宗の南東北を連合化させるという構想からだったようです。
しかし、面会の終わりに義継は刀を抜き、輝宗を人質に取ってしまいました。
駆け付けた政宗に対し『私ごと撃て!』と叫び、鉄砲の掃射を受け死亡。
享年42歳でした。
政宗の最大の理解者であり、政宗に未来を託した男の散り際でした。
次回は伊達政宗の母である「義姫」についてをお届けします!
次回の更新をどうぞお楽しみに!
THE☆JACABAL'S 公演
『伊達政宗』
2022/7/13(水)〜7/18(月)
両国シアターχ
チケット:6,800円(全席指定席・税込)
☆チケット一般発売 受付中☆
https://www.quartet-online.net/ticket/datemasamune
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