時差と同時性の話、あるいは地球が丸いという話。
去る日曜日の未明からアメリカでは夏時間が始まった。時計を1時間早めることで活動中の日照時間を長くするのである。11月まで続くのでどちらかというとこれがデフォルトであり、冬時間が用意されているといった方が自然ではある。広い国土のおかげで国内でも時差があるし、年に二回時計が動くので、つくづく時刻というのが人間の定めたものなのだというのを実感する。日本にいた頃はあまり味わうことのなかった感覚である。
そういえば先週は3.11であった。当時は京都にいたので直接は被害を被らなかったけれど、それでも友人が被災したし、あれはもはや個人・地域の枠で捉えるような現象ではなかった。毎年思い出しては喪に服したり災害への備えについて考えている。考えているのだけれど、アメリカに住んでいるとまだ日付は3.10なのに日本のニュースやSNSのタイムラインが盛り上がり、こちらが3.11の朝になった時にはおおかた終わっている。震災の瞬間は米東部時間でも11日であったけれども、イベントを日付と紐づけたおかげで逆に同時性が失われてしまう。3.11が起こらなかった国に住んでいるのだなと実感する。
12月7日に小規模な愛国者パレードをやっているのをアメリカに来てから何度か見た。おそらくパールハーバーなのだけれど、自分が記憶していた日付と違うな、8日ではなかったかと思って検索してみると攻撃当時のハワイは7日で日本は8日なのだった。両者で日付が違うイベントだったのだと思うと不思議である。こちらもまた、日付に紐づけると同時性が失われてしまう例なのであろうか。それにしても、なんとも遠い場所に戦争を仕掛けたものである。
アメリカに来てから、新年のカウントダウンも変な感じになってしまった。やはりあれも同時性が大切なのであろう。大晦日の米東部時間で朝10時ごろにLINEグループなんかで新年の挨拶が飛んでくる。未来人からメッセージがやってくるのは少し不思議である。西海岸なんかはまだ7時だ。そうかそうかと他人事のような気持ちで大晦日を過ごす。紅白歌合戦は終わっているし除夜の鐘も聞こえない。慣れてしまうとその何もなさが心地よくて、どうして今まで大晦日〜新年であんなに盛り上がったんだろうかと冷静な気持ちになる。相対時間に紐づいたイベントも同時性を失うのである。
絶対時間で記憶されるイベントなんてほとんどないのは人類の認識・記憶がそのぐらいの解像度だからなのだろう。その意味ではグローバル化したりリモートワークが定着したとて地域性というものは強く残り続けるのかもしれない。
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