進化学と優生学の話、Coten Radioの感想。
Coten Radioのダーウィン〜優生学の話に関する感想と雑記を書く。
愛聴しているCoten Radioでここ最近は障害の歴史をやっていて、進化と優生学についての回が今週配信された。遺伝学を仕事にしていると進化は必然的に触れざるを得ない分野であり、僕も世間の人よりはそれなりに勉強している。していなければ怒られる。すごい進化ラジオの言うところの進化リテラシーはそれなりにある。そういうバックグラウンドとして、ダーウィンであったり優生学をタイトルに見つけたときは聴くのを少し躊躇してしまった。ひどい内容だったらどうしよう、と。しかしながらそれは杞憂に過ぎなかったのである。補足みたいなことを語れるかと思ったけれども、それほど補足が必要な内容ではなかった。それどころか大変綺麗にまとまっていた。生物学の基礎訓練を持たずにここまでニュアンスを汲み取って話せるのは、知的技術もさることながら相当勉強されたのだろう。脱帽するばかりである。とっくに人気コンテンツであるけれど、もっと聴かれてほしい。なんならこのまま2-3時間ほど延長して語ってほしい。
ダーウィンはあまりに誤解されやすい。そもそも進化が誤解されやすい上に、ダーウィンとダーウィニズムにも乖離がありそうで、さらには進化=ダーウィニズムというろくでもない考えも蔓延している。150年を超える進化学者の努力を無視しないでほしい。それぐらいダーウィンが有名なのだけれど、いまさら種の起源を読むとずいぶんと慎重に書いてあるので肩透かしを喰らう。聞けばEvolutionだとか適者生存などと言い出したのは社会学者ハーバート・スペンサーなのだとか。ただ別分野の人間が食いついたからこんなことになったなどと憤るのは早計であって、進化やダーウィニズムを誤解している生物学者は過去にも現在にも多くいる。このあいだも弊所の学生が「チンパンジーはヒトの進化前の状態」とか言って怒られているのを見た。
実際に種の起源でも言及しているが、ダーウィンの進化論の発端となったのはマルサスの人口論だという。莫大なリソースがあれば生物は指数関数的に増えるはずで、しかし現実はそうはならない。すなわち選択圧というものが環境から与えられ、個体数を減らす方向に作用する。生物集団にある遺伝的多様性と選択圧が組み合わさり集団の長期的な変遷が生じる。非常に綺麗な論理である。メンデルの法則より少し前、DNA二重らせん発見の100年近く前にこの論理が組めるのである。彼の指摘した諸事象の検証だとか、実際の種分化に選択圧が寄与しているかの話はさておき、議論の出発点としての価値は揺るがない。
話をCoten Radioに戻す。優生学が統計と国民国家的発展の中で生じたという説明はとても納得のいくものだった。とはいえ、番組全体のトーンとしてはダーウィン進化論の誤解を端緒にして社会科学と政策決定が生物学を悪用したような印象を与えていた。遺伝学者からの批判についての回と合わせて、遺伝学は優生学的な流れでなかったような誤解を産むかもしれないなと思った。もしかするとパーソナリティの方々が専門外の分野を批判するにあたって控えめなトーンにしてくださったのかもしれない。ここに補足すべき点としては、20世紀前半の遺伝学は当時の優生学をかなり後押ししたことであろう。少なくともアメリカ合衆国の遺伝学は優生学に強く加担した。遺伝学と統計学は密接な分野である。統計学を学ぶ上で必ず耳にするロナルド・フィッシャーは遺伝学にも大きく貢献した。そしてフィッシャーは優生学者だった。マウスの基準系統C57BL/6で知られるC.C.リトルはアメリカ優生学会(American Eugenics Society)の会長を務めた。ニューヨーク州ロングアイランドにあるCold Spring Harbor Laboratory (CSH) は今なおハイレベルの研究を行う類い稀な研究所であるけれど、当時は優生記録所を設置して優生学に貢献した。
当時の学会全体がどういう風潮だったのか、というのを今から推し量ることは難しい。番組ではドブジャンスキーを反優生学の例として紹介していた。ドブジャンスキーの師匠であるトーマス・ハント・モーガンも優生学に反対していたという。そういう教育をする師匠だったのか、それとも共通した考えがあったから弟子になったのか。いずれにせよ偉大な一門である。遺伝学者全体が優生学に傾倒していたわけではないのだろう。遺伝学者としては救いがある。ただ、1930年代でも優生学は盛んな研究ジャンルであったようだし、CSHのウェブサイトにはナチス当時のドイツの優生学者との書簡が公開されている。このあたりはBLM運動に付随して再燃していたので近年改めてまとめた記事が出回った。
番組内ではゲノム解析の話と現代の優生学的思想についても話題が出た。ゲノム解析と表現型(ところで一般的にはひょうげんけい、と読む方が多い)の研究をしている現場から言わせてもらうと、個人のゲノム解析から優生学的に人間を選択するのは無理がある。これは技術が発展途上だからという話ではない。多くの量的形質について、表現型に寄与する遺伝領域の数が多すぎるのである。しかも効果は足し算ではない。理想的な遺伝型を選ぶのに万単位の人間から選択する必要が出てくる。ましてや体外授精した数個の胚から選ぶなんて無意味である。それも環境要因を排除した上で、である。全貌が解明されたとしても現実的ではないのだ。結局、集団遺伝学の扱うサイズというのはずっと大きい。個人がどうこうする話との乖離がありすぎるし、個体レベルではデータのばらつきの方がよっぽど大きい。たとえば二型糖尿病のリスクについて遺伝子検査を国が保険適応するかとか、そういう話で応用する規模感なのである。一方で稀な遺伝型による危険な表現型というのもある。ここでは個人の話ができる。出生前遺伝子診断が将来的に寄与するのは、生後間も無く治療が開始できるよう準備したりだとか、そういう方面だろう。実際すでに心臓の中隔欠損はエコー健診の時点で見つけることができるし、生後すぐに対応がはじまる。出生前診断からの堕胎に関しては別件。個人的にはトリソミーに関して堕胎賛成であるが、ここでは深い言及を避ける。
あらためて、Coten Radioの障害の歴史、ダーウィン〜優生学の回はとてもよくまとまっていて分かりやすかった。僕もここまで綺麗に説明できないので今後は真似しようと思う。アウトリーチというものに関して良い例を見せていただいた。引き続き楽しく拝聴したい。
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