I'm worth no more, no less than you - 私はあなたより(ひととして)価値がよりあるわけでも、少ないわけでもない=私たちは(男女に関わらず全ての人間は)対等=私たちにひととしての上下はない。
2015年に公開されたイギリス映画「Suffragett(サフラジェット=婦人参政権論者)」の中で、権威側の警官に、スパイとして仲間の婦人参政権論者の動向を密告するようプレッシャーをかけられた主人公のモードが、断りの手紙の中に書いたセンテンスです。
日本語と英語では文化や慣習、宗教、歴史といった土台が大きくことなるので、直訳だと今一つしっくりこないかもしれませんが、意訳すれば、人間として私とあなたの間に上下はない、というのが近いかと思います。
日本では、なぜか、もともとの題名とも内容とも全く関係がないとしか思えない「未来を花束にして」になっているようです。
イギリスでは、ごく普通の市民の間でも、選挙時期になると「サフラジェットのように命を懸けて女性の参政権を獲得した人々のことも考えて(=私たちは投票するべき)」という会話を聞きます。
日本では第二次世界大戦での敗戦により、西側世界から女性の参政権を含む多くの民主主義や基本的人権に関するものを与えられましたが、女性の参政権は、ヨーロッパのほとんどの国で、多くの女性たちが命をかけて闘い、長い時間を費やして勝ち取りました。
ヨーロッパで、ヨーロピアンたちと長く暮らしていると、日本には、ヨーロッパで意味するところの民主主義や基本的人権が存在しない場所だと気づきます。
民主主義もさまざまな権利も、いろいろな人々が協力して、大きな障害(特に当時大きな権威とパワーをもっていて、システムから利益を得ている人々からの妨害や暴力)も乗り越え、長い期間をかけて、命がけで勝ち取ってきたものです。
ただ、いったん勝ち取った権利も、一瞬にして奪い去られる可能性があることも人々はよく理解していて、権利を守るためにいつでも闘う準備はしています。
たとえば、アメリカでは堕胎について女性の権利が危うくなっていますが、ポーランドでは既に堕胎は禁止となり、イギリスでも現在の女性が選択堕胎できる権利をさらに強くする(=簡単に権利が奪われないような仕組みを作る)政治的な活動がいたるところで行われています。
この映画は、1912年のロンドンで、洗濯所で過酷な労働条件で働いている主人公、モードの目を通して語られます。
モードの母も同じ洗濯所で働いていましたが、仕事時間も長く過酷な労働条件で、労働者の安全や命も軽んじられていて事故も多く、モードの母も彼女が小さいうちに亡くなります。
彼女は7歳でパートタイマーとして働き始め、12歳でフルタイムとして働き始めました。
同じ仕事をしていても男性の賃金は女性より高く、扱いも違います。
また、この洗濯所のマネージャーやトップはすべて男性で、モードも含めた若い女児たちは、これらの経営陣の男性たちから性的虐待を日常的に受けていますが、仕事を失うことを恐れて(かつ警察にいっても誰も相手にしてくれなかったでしょう)、誰も何も言えません。
モードの同僚の一人がサフラジェットの一員であったことから、彼女の目が開かれていきます。
サフラジェットには高い教育を受けた人々もいて、勧められた本を読んだりメンバーと話したり会合に参加したりしているうちに、次第に今まで何も考えず受け入れていた自分の人生や社会に対して疑問を投げかけ、違った世界観を築いていきます。
このBlogの題名にしているセンテンスが含まれる手紙の中では、以下のように書いています。
「。。。あなたは、私のような女が言うことには、誰も耳を傾けないと言いました。私は、それを、もうこれ以上受け入れません。私の人生すべてで、私はいつも礼儀正しく、男性が私に言ったようにしてきました。今、私はより知識があります。私はあなたの上でもなければ、下でもありません。パンクハースト夫人(婦人参政権運動のリーダー)は、「彼らの自由のために闘うことが男性にとって正しいことであるならば、女性が自分たちの自由のために闘うことも正しい」と言いました。もし、法律が私が私の息子に会うことを許さないのであれば、私は法を変えるために闘います。私たちはどちらもが、私たちのやり方で歩兵です。私たちは、どちらも自分たちの理念のために闘っています。私は、私の仲間を裏切りません。あなたは、あなたの仲間を裏切りますか?もしあなたが、私が私の仲間を裏切ると思ったのであれば、あなたは私に対して間違った認識を持っています。」
ここで、「私の息子に会うことを許さない」といっているのは、当時は、妻は夫の所有物と法律で定められていて、女性は子供の親権をもてなかったことからきています。日本でも明治憲法では女性は男性の所有物で家・財産を所有する権利も基本的にはなかったものの、これも第二次世界大戦での敗戦により西側諸国が定めた法により、人々が権利を求めて闘うことなしに、与えられています。
ちなみに、数年前に会ったイギリスで奨学金を得て大学院生をしていた知り合いのイラン人の女性は、父が突然事故で亡くなり、法律上、女性は家や財産を所有できないので(娘だけで息子はいなかった)、家や財産はすべて父の兄にわたり、貧困と難しい子供時代を過ごさざるを得なかったそうです。
既にもっている「権利」で、かつ、闘うことなしに手に入れた権利については、今一つ自分の人生にどういう役割や影響を及ぼしているかが分かりにくいかもしれませんが、普段の生活に大きく関わっています。
ヨーロッパでヨーロピアンと長く暮らしている中で、日本で育ったことで、自分が無意識のうちに刷り込まれていた洗脳のようなものに気が付き(気づくこと自体が難しかった)、思い込みを捨てて、新たに自分の考えや思考・信条・道徳観を築いてきましたが、その中でも、一番悪い影響を及ぼしていたのは、以下であり、さまざまな暴力(家庭内での子供への虐待、学校での先生から生徒への暴力やいじめ、会社でのさまざまなハラスメント)の土台の大きな一部になっていると思います。
権威者(親、先生・教授、いわゆる士業・いわゆる大企業に勤めている人々、社会的・経済的・政治的に力をもつ地位にいる人々、会社であれば上司、結婚すれば夫と夫の家族等)は絶対に正しい
権威者には絶対服従し(疑問をもつことさえ許されないし、質問も許されない)、常に彼ら(権威者)を気分よくさせることに努めなければならない。(それに失敗したと権威者に見なされれば、暴力を振るわれたり、嫌がらせをされても当然)
すべての関係に上下があり、常に男性がピラミッドの上部で女性と子供はピラミッドの一番下(ただし、夫や父親、息子の権威力が高い場合は、その威を借り、ピラミッドの上に向かって移動することが可)=人々は決して対等ではない。
もう一つの大きな問題は、理論的に言語をつかってきちんと説明することが許されない傾向にあることです。
ヨーロッパでは、どんなに小さな子供にも、大人は明確に言葉で説明し、子供にも言語化することを年齢に見合った言語力に応じた範囲で求めます。
多くの国々で、子供への暴力(頭をはたく、軽く蹴る、つねる等を含めて)は法律で禁止されていて、子供を叩いている親を日常生活でみることはありません。「黙って言う通りにやれ/言い訳せず、謝れ」等は、独裁政治の独裁者ならありえますが、通常の世界ではありえないことです。
権威者に質問することすら許されず、理不尽でつじつまの合わない要求を始終され、言う通りにしなければ、心理的・身体的な罰が日常的に与えられるような状況で育てば、言語化することだけでなく、自分で考えることすら、早い段階で放棄することも無理はないかもしれません。
何かがおかしい、と思っても、言語化されないと、何がおかしいのかが明確にされず、良い方向に向かってものごとを変えていくことは不可能です。
ここには、さらなるレイヤーとして、常に序列関係を決めないと話せない日本語という面も関わってきます。
日本語には敬語・謙譲語に加えて、多くのPronoun(プロナウンー 「私」や「あなた」等にあたる言葉が序列関係によって変わり、たくさんある)があるのが特徴です。
ただ、これは日本語だけでなく、アジアの言葉の中には序列関係が厳しく入ってくるものもあるようなので、文化的な側面なのだと思います。
英語では「私」にあたるのは「I」だけだし、貴社や弊社といった呼び方もありません。
ラテン語起源のイタリア語には、お年寄りや知らない人に対して使うフォーマルな「Lei(「あなた」の敬称)」とカジュアルな通常の「Tu(「あなた」)」が存在しますが、「私」にあたるのは「Io」だけです。また、親しくなると、すぐに敬称を使わなくていいのよ、と言ってくれます。
大事なのは、ヨーロッパでは、その場での(思い込まされた/刷り込まれた)序列・ハイラルキーによって、自分や相手を下げたり上げたりはしないことです。
本来、人間としては、性別や職業、社会的な地位や経済力や政治的な力、教育の有無、病気の有無や仕事の有無等で、ひととしてのWorth(価値)が変るわけはありません。
英語の「Worth」は「価値」として訳されることが多く、日本語の「価値」だと物質的なもの(経済力、社会的な地位等)を連想しがちですが、ひととしてのWorth(価値)とは、不正義に対して勇敢に立ち向かう勇気と道徳心だったり、共感力と想像力が高く、本当の意味で人々に優しい言動がとれる強さを持っていること(見返りを求めた行動や、他の人々からよく見られたいという動機や意図からではなく、自分の信条・道徳観といった自分の内部から発生している)であったりします。
社会的・経済的・政治的な地位やパワー等は、いつでも失う可能性がありますが、自分の内面に持っているものは誰にも奪えないし、自分から失うことを選択しない限りは失いません。
また、さまざまなハラスメントやいじめといった卑劣なことを行うのは、往々にして社会的・経済的・政治的にパワーを持っている人々です。
社会的に高い地位にいることと、その人の人間性には何の相関性もありません。
彼らが、卑劣な行動を繰り返すのは、卑劣な行動に対してなんの対価も払わなくていいと知っているからです。
また、中には、自分よりも「下」と見なした人々のことは、人間だと思っていない、とても残念な人々も存在します。
社会や人々が彼らにパワーを与え続ける限り(=大多数の市民が、権威のある人々が優位にあり絶対に正しいと盲目的に信じる、権威者が自分の権威を守る/強めるために社会や経済や法律を自分に都合よく変えていくことに気づかないか、気づいても声を上げない)、弱い立場におかれた人々が搾取され、ひどく扱われる構図は変わりません。
これは、ねずみ講のような詐欺システムと同じで、多くの人々がこの馬鹿げたゲームのルールを盲目的に信じることをやめて、ゲームからおりれば、一気に崩壊します。
既に権威をもっている人々は、自分たちの利権を守ることだけに注目し、少しでも現システムを揺るがす人々を許さないでしょう。
たとえ、現システムが大多数の市民を社会的・経済的に弱く苦しい立場に追いやっているとしても。
弱い立場にいる人々のことを、弱い立場にいる人々が悪い、という人々やメディアがいますが、これは、権威者たちによって恣意的に作り出されているものであることはしっかりと理解しておく必要があります。
ここでは、問題を言語化して、どこに問題があるのかを正しく明確に見ることは不可欠です。
権威者側は自分たちから目をそらせるために、弱い立場に追いやった人々同士で争うよう仕向けるでしょうが、正当な理由のある怒りとフラストレーションは正しい場所におかなくてはなりません。
また、市民は団結して闘う必要があります。
いくら権威者側の力が強くても、国民の半分を完全に抑圧することは不可能です。
「闘う」手段は、平和なマーチング、権利に関するグループ勉強会を行う、本・信頼のあるジャーナリズムの記事をしっかり読み世の中で起こっていることを理解する、アート(文章や絵を描くこと、歌うこと)、ジャーナリズム、政治家への働きかけ等、さまざまでしょう。
他の「誰か」が何かを始めることを期待するのではなく、自分のできる範囲で動き出すことが大切です。
今日、自分の住む世界がある特定のルールで制御されていても、それが正しいわけでもなければ、そのルールで未来がしばられていいわけはありません。
そのルールが大多数の市民に対して悪い影響を与えていれば、私たちは力を合わせてよい方向へと変えていくよう、動き出す必要があります。
それには、私たち人間のあいだには、上も下もない(=誰もが対等)、ということを誰もが実感としてもっていることが大切です。
もし、この映画の主人公のように、権威者から、「君のような人(女性/ワーキング・クラス/貧困/フォーマルな教育を受けていない)のいうことは誰も耳を貸さない/発言する権利すらない」と言われたら、明確に「私はあなたの上でも下でもなく対等です。」と伝え、自分の発言を相手が最後まで聞くよう促しましょう。
あなたの意見は、あなたがどんな状況や属性をもっていようと、他の人々(相手が権威のある政治家や教授であっても)と同じだけの価値があります。
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