ディグニティ―: ひととして存在しているだけで、誰もが特別な価値をもっているー他人からどう扱われるかに関係なく
イギリスの独立新聞のガーディアン紙の日曜版には、Physchotherapist(サイコセラピスト/心理療法士)・Author(作家)であるPhilippa Perry(フィリッパ・ペリー)さんが長年担当している相談コーナーがあります。
Agony aunt(アゴニー・アーント/新聞や雑誌の相談欄に回答する女性たを指していう)とも呼ばれています。
フィリッパさんは、女装をすることでも知られている現代陶芸家のGrayson Perry(グレイソン・ペリー)さんと結婚しています。
グレイソンさんは、陶芸家としての作品も好きなのですが、著作もいいです。
「The Descent of Man(日本語版では「男らしさの終焉」というタイトルのよう)」という本も、自分が正直に感じることも話されていて、かつ共感をもって世界を見ている姿勢が印象に残りました。
英語という、日本語とは文化や歴史・社会の成り立ちに大きな溝のある言語間で訳されると、意味がねじれることもやむを得ない部分もあるので、英語で読むことをお勧めします。
国営放送BBCが毎年、その時代の最先端にいる思想家を招いて一般の人々の前で講演するプログラムのLeith Lectures(リース・レクチャーズ)に2013年に招かれたときのContemporary Art(コンテンポラリー・アート)について話していたのも、気軽でユーモアもありながら、本質をついていて、アートが好きな人なら、きっと楽しめると思います。
このグレイソンさんの偉ぶらない(自分のことを、他のひととは違う重要な人だと思ったり、自分の言うことはほかのひとがいうことよりも価値があるのだというところが全くない)ところも、イギリスらしい、と思います。
フィリッパさんは、かなり重いDyslexia(ディスレキシア/難読症)をもっていて、その当時の教育は難読症への理解がほぼなかったので、裕福だった家族は、彼女をスイスのFinishing school(フィニッシング・スクール/女性が社会にでるために必要な作法が礼儀を身につける学校。通常は1年)へと送ります。
フィリッパさんは礼儀・作法よりも、スキーを楽しんだそうです。
その後は、借金の取り立て人だったり、マクドナルドで働いたりとさまざまなことをしていたのですが、どこにいっても、人々とのコミュニケーションがとても好きで、かつ、どんなに難しい状況に見えることでも、ひとびとうまくコネクトできることを発見したそうです。
サマリタン(イギリスの一番大きな悩みや自殺相談チャリティー団体)で働いたことをきっかけに、心理療法士の道へと進んだそうです。
現在のイギリスだと、難読症にも理解もサポートもあり、私自身、ロンドンの大学でジュエリーコースを履修していたとき、クラスメートにもかなりの数の難読症の人たちがいたし、Lecturer(レクチャラー/大学の講師)にも重い難読症でほぼ文字が読めない、という人もいました。
このレクチャラーは、ドイツで育ったドイツ人で、授業は英語ですが、とてもArticulate(アーティキュレィト/明瞭・理路整然)でした。文字が読めることと考える力は必ずしも一致しないし、彼女の場合は学生たちの論文を読んでくれるアシスタントがいて、それについての彼女のコメントをアシスタントが書き留めるという形で行っていたと思います。20年近く前のことなので、今だったらテクノロジーで解決できることも増えたのでは、と思います。
フィリッパさんが自分にあっている道に進めたのは、もちろん裕福な家庭出身で家族もサポーティヴだったというのも大きかったとは思いますが、イギリスという、ひとびとが自分の可能性をひろげる・挑戦することを応援する環境にもあると思います。
今回の相談は、妻の強い希望で、イランからイギリスへと移民してきた男性の心が痛くなるような相談でした。
多分、有色人種、かつ白人主要国(元植民地宗主国)でない国で教育を受け、大人になってから白人主要国(元植民地宗主国)に移民したひとにとっては、すごく分かる部分もあるかな、と思います。
この男性相談者は、妻が男女平等な国で教育を受けたい、生きたいという夢を叶えるために、イギリスへやってきて、妻はカレッジで勉強していて働いていない状況だそうです。
彼は、自国ではよい教育を受け、尊敬を受け、かつ給料もよいプロフェッションをもっていたものの、イギリスでは、そのプロフェッションや経験は認められず、、最低賃金の仕事で、Essential workers(エッセンシャルワーカーズとよばれている医療や学校、公共の乗り物、配達等の人々の生活にとってなくてはならない職業)をせざるを得ず、長時間働いて二人分の生活費を稼ぎますが、仕事でも尊敬を受けている気がせず、公共交通機関で往復2時間の通勤でも、人々は自分の横には座らず避けられているような気がするし、妻は、自分が何も買えずみすぼらしい服装をせざるをえない状況で、妻自身に新しい服を次々に買い、自分が長時間働いていて家事を半分担当できないことにとても怒っていて、自分が人間としての価値がなくなった気がする、自分はいなくなったほうがましなのでは、もう限界に近い、といった内容の相談でした。
当然、英語で書いてきているので、とても分かりやすい話しぶり、的確な言葉の選び方からも、きっと教養のある思慮深い人なんだろうな、と思わせる相談文でした。
ペリーさんの答えは、暖かいもので、かつ「Dignity(ディグニティ―)/日本語では尊厳と訳されるようだけど、日本語にない概念で無理やり訳すと意味がねじれるので、ディグニティ―のまま記載します」について、考えさせられるものでした。
ペリーさんは、とても明確です。
下記の内容を答えていました。
※直訳ではありません。
あなたは、自分のディグニティ―を再発見する必要があります。
ディグニティ―は、すべての人々が、人間であるということにひもづいている特別な価値をもっているということを意味します。
これは、階級や人種、国籍、経済状況、仕事や職業、宗教等には全く関係なく、人間である、ということにだけ、ひもづいています。
ほかの人々からのあなたに対する態度や、しなければならない仕事、公共交通機関でのほかの人々のあなたに対する態度、あなたの妻がどのようにあなたと折り合っているかということにより、あなたのディグニティ―は、はぎとられたかのように見えます。
また、あなたは、あなたのままでOKであるということを知っておく必要がありますー周りの人々がどのようにあなたを扱うかいは全く関係なく。
今、どのように周りがあなたを扱うかということが、あなたにShame(シェイム/恥)という感情を引き起こしているかもしれません。「恥」は、あなたを侵入者のように感じさせ、それは自信を打ち砕き、助けを求めることがさらに難しくなります。簡単でないと感じるのは分かるのですが、あなたのディグニティ―を取り戻すために、コミュニティーを見つける必要があります。
友人や、like-minded people(ライク・マインディッド・ピープル/気の合う人達、似たような志や考えをもった人たち)、同じように移民としての経験をしてきた人たちと、話すのはよいことです。
助けを求めることをプライドを失うことだとは思わないでください。
Pride(プライド/日本語の概念でのプライドとは大きく違います)は、ディグニティ―と同じではなく、Prideは、自分のケアをすることです。
自分のことをケアするということは、助けを求めるということです。
ここには、あなたに権利のある福祉を受けることも含みます。
Resentment(リゼントメント/(人や侮辱などに対して)苦々しく思う)は、沈黙のなかで繁栄します。
コミュニケーションを妨げ、つながりや親密さにバリアーをつくります。意見・判断がつくられ、非難が誰かに割り当てられます。状況は、個人的な侮辱だと解釈され、不当な扱いを受けたという感覚になります。
でも、Resentment(リゼントメント/(人や侮辱などに対して)苦々しく思う)は、オープンなコミュニケーションのもとでは、消え去ります。
あなたの妻の正面に座って、まっすぐ彼女の目をみて、非難しないやりかたで、あなたが経験していること、それがあなたにどう感じさせているかを彼女に話しましょう。
フィリッパさんは、一般の人々(その国でマジョリティーとして存在している人々)に対して、以下を提案しています。
知らない人たちに対して、バスや公共交通機関で、フレンドリーなうなずきをするだけで、誰かの一日に大きな違いをうむことを覚えておきましょう。
個人的にも、20年近く前になりますが、私自身、仕事でストレスなことが続いていて、知らないうちにロンドンの地下鉄で泣いていた(自分が泣いていることにさえ気づかなかった)ときに、「大丈夫?」と声をかけてくれた隣の見知らぬ人や、薬局で胃痛の薬を買ったときに「世の中ストレスフルなときもあるわよね。お互いがんばろうね。明日はいい日かもしれないしね。」と声をかけてくれた薬局のひと、一つ一つは小さなことかもしれないし、その人たちはきっと覚えてもいないのだろうけど、本当に救われました。
フィリッパさんは、メキシコの心理療法士Guy Pierre Turさんのことばを引用していました。
私が外国語のアクセントを聞く時、私には、努力が聞こえます。
私が違いをみるとき、そこには、勇気があります。
私が差別をみるとき、そこにはresilience(レジリエンス/回復力・復元力)があります。
私が否定されたディグニティ―をみるとき、そこには強さと生き延びることをみます。
ちなみに、ディグニティ―について、フィリッパさんがリンクを貼っていたところからは、ディグニティ―は、Respect(リスペクト/尊敬)とは違うもので、尊敬は何かをしてEarn(かせぐ、勝ち取る)必要がありますが、ディグニティ―は、何もしなくてもそこに人間として存在するだけで、私たちみんなが、もっているものと定義されていました。
そこでは、誰かが優位で誰かが劣位ということはなく、誰もがEqual(イコール)です。
ディグニティ―をもって接しているということは、その人を、偏見やバイアスなしで、その人のアイデンティティーをそのまま受入れ、フェア(公平)に接し、その人のいうことにしっかりと注意をはらって耳を傾け、心身の安全にも気を配り、その人がそのグループや団体、友人関係の大切な一員であるということを感じさせるような言動も含みます。
日本で、ディグニティ―という概念がないのは、基盤である、「誰もがイコール」という概念やノームがないせいなのかもしれません。
どんな場でも、優劣や上下をつけ、不透明なカーストをつくりだす社会は、ごく一部の特権をもっている人々を除いては、とても不自由でフェアでないし、人々がもっている力を発揮したり夢に気づくこともなく、結局は社会全体にとっても失うものが多いでしょう。
私たち一人一人ができるのは、どんな場でも、自分が優劣をつけようとしていないか(誰かが自分より上で、誰かが下)に気づき、それをやめて、誰もがイコールであると信じて行動することでしょう。
勝手にあなたのことを下と決めつけてかかるひとがいたら、どう思うかはその人の自由ですが、あなたはその人とイコールであり、奴隷のように扱われることは受け入れないと明確に示し、その言動に抵抗する必要があるでしょう。
ひとりひとりが変われば、社会は時間がかかっても変わっていきます。