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《蝶々夫人》とはどのようなオペラか(『歌劇「蝶々夫人」』感想文・その1)


はじめに

『歌劇「蝶々夫人」』(兵庫県立芸術文化センター、2024年)の感想文です。先に述べておくと、本公演は素晴らしかったと思います。上演中は何度も感激を覚え、幕が下りた後も、心からの拍手でカーテンコールの時間を過ごしていました。ただその仔細を語る前に、《蝶々夫人》が私にとって複雑な気持ちにならざるを得ないオペラであることを、まず述べさせてください。

《蝶々夫人》は、日露戦争が行われていた頃の長崎を舞台に、現地の元芸者である蝶々さんとアメリカ合衆国の海軍士官であるピンカートンとの恋愛を、悲劇的に描いた作品です。言わずもがな世界的に名作と評されており、1904年の初演から今日に至るまで、何度となく再演されてきました。その反面で時代が下るに連れて様々な批判に晒されてきたことも、オペラに詳しい方であればご存じでしょう。批判の主な矛先は、植民地主義的な思想及びオリエンタリズム的な偏見が本作のリブレット(台本)に滲んでいることへ向けられてきました。さらに、女性に対して差別的である点も問題視されています。こうした批判が起こってきた背景とか《蝶々夫人》のやや複雑な成立過程とかについても語るべき事柄は多々ありますが、本稿では割愛します[^1]。以下では、本作がどうして複雑な気持ちを催すのかを私なりの言葉で述べた後に、それを踏まえてなお本公演にどうして感動したのかをしたためたいと思います。


[1]:興味をお持ちの方へは、小川さくえ『オリエンタリズムとジェンダー:「蝶々夫人」の系譜』(法政大学出版局、2007年)をおすすめします。

《蝶々夫人》の問題点

とりあえず、私見を加えながら《蝶々夫人》のあらすじを追っていきましょう。先に述べておくと、この話題にかんして、当初は感想の「まえおき」として簡単に済ませるつもりでしたが、想定外の紙幅を費やしてしまいました。よって本稿全体を分割して、本題である公演の感想は、その2で述べることといたします。「あらすじなんて読まなくていいよ」という方は、本記事を丸々読み飛ばしていただいても構いません。

第一幕:ピンカートンと蝶々さんとの「不平等条約」

長崎へやってきたピンカートンは、現地の結婚周旋人であるゴローによって蝶々さんを紹介されることとなっています。ピンカートンは現地に家を所有しており、蝶々さんとの結婚生活をそこで営むつもりで心を躍らせているのですが、この時点で既に問題を孕んでいます。実は、家も結婚も「999年の期限」(19)[^2]付きの契約であり、彼の側は、好きなときにいずれも破棄できるようになっており、「いつでも自由になれる」(20)条件がはじめから与えられているのです。彼は、遅れてやってきた長崎領事のシャープレスに対してこのことを言い、蝶々さんに対する感情を「愛かそれとも気紛れか、なんとも言えません」(22)等と表明します。また、「〔本当の結婚生活を蝶々さんが〕信じきっている心を悲しませるとすれば酷いことだ」(23)等と忠告されても、聞く耳を持ちません。つまり、この結婚を蝶々さんは本気で受け止めているけれどピンカートンの方は必ずしもそうじゃない、ということになります。彼にとって蝶々さんは、都合のいい「現地妻」または一時の「火遊び」の相手といったところであり、本気で愛を捧げる対象ではないと言えましょう。そもそも、彼が地に足のついた結婚を見据える相手は「本当の花嫁… アメリカの花嫁」(24)であると、はじめから表明されているのです。


[^2]:戸口幸策(訳)『オペラ対訳ライブラリー:プッチーニ 蝶々夫人』(音楽之友社、2003年)。以下、リブレットからの引用は全て本書に拠り、括弧内にページ数を記載することにします。

一方の蝶々さんは、「私は日本中で、いいえ世界中で、一番喜びに溢れた娘です」(25)と開口一番に歌ったり、結婚式に参列した友人たちに名前を呼びかけられて「F. B. ピンカートン夫人よ」(41)と訂正してみせたりする等、この上なく無邪気に幸せを表現します。そればかりではありません。ピンカートンとの結婚に当たって、代々信仰してきた宗教[^3]を捨ててキリスト教へ改宗していたのです。そのせいで、叔父のボンゾが激怒しながら結婚式に乱入したり、親戚・友人の一同さえも「酷い! チョーチョーさん!」(45)とか「お前を見捨てるのだ」(46)とか彼女を非難したりして、場は騒然とした様相を呈します。ピンカートンは、一同を立ち去らせた後、「蛙どもが喚いても、泣いてはいけない」(46)等と言って蝶々さんを慰めます。すると彼女の方は、「みんなに捨てられても、もうそれほど悲しくないわ」(47)と簡単に靡いてしまいます。ややあってから、睦まじく戯れあう二人の重唱が高らかに歌い上げられ、第一幕が終わります。


[^3]:蝶々さんたちの宗教は判然としません。改宗を告げる場面で蝶々さんが「仏様」(Ottoke)を出したかと思えば、別の場面では共同体の信仰対象として「猿田彦の神」(Kami Sarudasico)等の神名が挙げられており、仏名は一切唱えられません。神仏習合を鑑みたとしても釈然としないところがあります。

こうして見ると、ピンカートンと蝶々さんとの結婚には、二人の関係が著しく不平等であるという不正義を指摘できます。一方は相手に一途であり、向こう見ずの覚悟で大事なものを捨てて、その結果として孤立にまで追いやられてしまっているのに、他方は「気紛れ」でしかない可能性さえ匂わせて、何の痛手も被らず、仮初の結婚生活を送るつもりなのですから。「心理」と「状況」とにおける二重の不平等が、二人の間に見えてきます。いえ、さらに加えねばならない事実があります。第一幕の時点で、蝶々さんは15歳の少女ということになっています。経験の不足や情緒の未成熟を考えれば、既に成人していて海軍士官を務めているピンカートンとの不平等な関係に気づけなかったとしても、無理からぬことでしょう。

そもそも、二人が交わした「結婚」の契りは、自由恋愛または縁談の末に行われるような、いわゆる普通のそれではないはずです。そのことを示すために、蝶々さんの境遇にも触れておきましょう。彼女は、長崎の「大変豊かな家」(28)に生まれ、出自自体は悪くないものの、父親が「帝」の命に従って自裁(切腹)したという悲しい過去を持ちます。「そして私たちは生計を立てるために芸者になりました」(28)と本人が語るところから、不幸によって落魄した少女と見ることができます。そして周旋人のゴロー曰く、蝶々さんのような少女は「ただ同然、わずか100円」(21)で用立てされる存在なのです。このような背景を考えれば、15歳の少女が外国の成人男性に周旋されて「結婚」したといっても、「羅紗緬」と呼ばれた人々の身請けと変わらないじゃないか、という疑義が生じてきます(蝶々さん自身は芸者から既に足を洗ったということになっていますが)。再確認しておきましょう。ピンカートンにとってこの「結婚」は、あくまで「999年」という年期付きの契約であり、「いつでも自由になれる」ことが保証されているのです。

素朴に考えてみれば、本作のここからの末路は、ピンカートンが蝶々さんを本気で愛して彼女を不遇から救済するハッピーエンドか、蝶々さんが彼から捨てられて身を亡ぼすバッドエンドかでしょう。残念ながら後者であることは、周知のとおりです

第二幕:「待つ女」としての蝶々さん

第二幕では、二人の結婚から三年後、ピンカートンを待ち続ける蝶々さんが描かれます。果せるかな、結婚してからすぐにアメリカへと彼は発ってしまい、それ以降は音沙汰なしの状態が三年も続いていました。彼がいない間、蝶々さんは金銭面でも追い詰められていきます。既に芸者を辞めて稼得のない状況で暮らしているのですから、無理からぬことでしょう。女中のスズキは、そんな彼女に痺れを切らしてか、「外国人の夫が古巣に戻ったのを聞いたことがありませんわ」(61)等と諭そうとします。しかし、彼女の心は変わりません。「或る日、海の彼方にひと条の煙が上がるのが見えるでしょう」(62)と、愛する夫が船に乗って帰ってくる日を信じる気持ちを、〈ある晴れた日に〉の名で知られる有名なアリアとして歌い上げます。

そんな彼女たちの元へ、シャープレスがやってきます。ピンカートンからの手紙を携えており、蝶々さんにとって悪い報せがそこには書かれているのですが、話を切り出すことが彼はできません。「駒鳥がまた雛を抱く幸せな季節に戻って来る」(68)という夫の約束を疑わぬ少女は、きっと良い報せが書かれてあるのだろうと決め込んでいるのですから。さらに、ヤマドリ公という男性がやってきます。彼は、「別荘、召使い、金、それに〔…〕立派なお屋敷」(72)を所有する名士であり、新たな夫の候補として、ゴローに連れられてきたのでした。もちろん、その周旋を鰾膠もなく彼女は断ります。蝶々さんは、長い月日が経とうと、生活が苦しくなろうと、他に良い人がいようと、一切を構わず、一途に夫を待ち続ける良妻なのです。いえ、そのようにならざるを得ないところへ気持ちが追い詰めらている、というべきでしょう。「もし彼がもう、帰って来なかったらどうしますか」(79)とのシャープレスの問いに対して、「歌で人々を楽しませる生活に戻るか、死ぬかです。死ぬほうがいいわね」(80)と応えるのですから。

次いで、衝撃の事実が明かされます。蝶々さんは、ピンカートンとの間にできた男児を産んでいたのでした。ピンカートンはそのことを知りません。シャープレスは、「金色の巻き毛」(82)をした男児と対面して、狼狽えながらも、彼らに同情的にならざるを得ません。「お父さんに知らせるよう、約束するよ」(85)と言い残して、その場から立ち去ります。その直後、更なる不幸が蝶々さんを見舞います。「あの子の父親は誰だか分かりはしない」(86)というようなことを、ゴローが周囲に触れ回っていたのでした。流石の蝶々さんも「殺してやる」(87)とまで激昂して、彼を追い出します。まだ十代後半の少女がこのような境遇に陥っていることを、よくよく考えてみる必要があるでしょう。

第二幕が終わるころ[^4]、ようやく一筋の希望が見えます。それは「アメリカの星条旗」(88)を掲げた一隻の船でした。つまり、三年の月日をおいてピンカートンがついに帰ってきたわけです。蝶々さんは、「私の愛が勝った、私の真心が完全に勝ったのよ」(89)と、一挙に有頂天気分になります。花という花を庭から採ってきて、スズキと二人で家の中にまき散らします。「ここを春一杯の香りで満たしたいの」(91)という何ともいじらしい気持ちで、彼を迎える準備を整えようというわけです。それからきちんと化粧をして、「障子に穴を三つ」(95)開けて、スズキと息子とともに、愛する夫の帰路を寝ずの番で見守り続けます。夜が更けたことを暗示するハミング・コーラスが聞えてきて、幕間となります。


[^4]:《蝶々夫人》は、初版では二幕構成でしたが、改訂版で三幕構成に変わり、現在では後者が定番となっています。今回の公演も三幕構成でしたので、その前提で書いています。

この幕では、蝶々さんの内面が主題化されていると見ることができます。「一途に夫を待ち続ける良妻」と上述しました。ややともすれば、私たちは、このことを彼女の美徳と捉えてしまうでしょう。「忠誠心」とか「愛の強さ」とか「清らかさ」とかを源泉に見出すかもしれません。しかし、本当にそれで良いのでしょうか。これまで見てきたような不平等な結婚をした少女が、そもそも真面目かどうかさえ怪しい夫を待ち続け、どんなに辛いことがあっても信心を保っている、その様を無批判に嘆賞すべきでしょうか。また、ピンカートンが一切登場しない点も指摘しておくべきでしょう。このことによって、蝶々さんがどんな状況に陥っていようと、夫・父親としての彼の責任が有耶無耶にされていると言えます。「酷い奴だ!」(79)等とシャープレスが吐き捨てる他には誰も彼を責めないし、私たちの方でも、彼の挙措を論う手がかりを持たないわけですから。

第三幕:「転嫁」するピンカートン

朝が来て、夜通し待ち続けた蝶々さんが息子とともに眠りにつくと、シャープレスを伴ったピンカートンが、彼女の家を訪れます。三年も待たせたことを、両手をついて蝶々さんに謝るつもりでしょうか。何かしらの弁解をするつもりでしょうか。否、応接したスズキに対して、「〔蝶々さんを〕起こさないで欲しい」(99)と彼は言いつけます。さらに彼らは、一人の女性を連れてきていました。ピンカートンの妻であるケイトです。ピンカートンは、既にアメリカで結婚していました。そして、シャープレスを通じて息子の誕生を知ってから、自分たちがその子を引き取ることを、スズキを通して伝えるために訪問してきたのです。いえ、蝶々さんと対面するつもりが、もしかしたらはじめはあったのかもしれません。しかしながら、「この三年間、港に着いた船は全部、蝶々さんが遠くから色や旗を見分けて」(99)いたことや、たくさんの花で家じゅうが彩られていることから、彼女の思いの強さを知って狼狽え、「私はここにいることができません」(103)と恥もなく怯懦をあらわにします。「言ったとおりだろう? 〔…〕結婚した時に、『気を付けなさい。彼女は真剣だ』、あの時私は予言した」とシャープレスに咎められて、「一瞬のうちに私は自分の犯した罪が分かりました」(104)と後悔とも反省ともつかぬ弁を初めて述べます。しかし、その「罪」と向き合う覚悟はどうやら持っていないようで、「さようなら、喜びと愛の花咲く家よ」(105)と言い残して、その場を一人で立ち去ります。

その直後、目を覚ました蝶々さんが、一同と対面します。ひどい展開に悲しんでいるスズキと庭にいる外国人女性とを認めるなり、彼女はすぐに事実を察します。「ああ! あの女がとても怖い、とても恐ろしい」(108)とはじめは怯えながらも、「末永く幸せにいてください、私ゆえに悲しまないでください」(109)と献身的な態度をケイトに示し、子どもを引き取りたいという申し出にすんなり応じます。繰り返しますが、蝶々さんはまだ十代後半の少女です。愛する夫が母国で他の女性と結婚していようと、あろうことかその女性が実子の養育を求めてこようと、感情や道理に訴えて反抗するなどできやしないでしょう。

蝶々さんは、ピンカートン本人が改めて引き取りにくるように伝えて、一同を帰します。その後、戸外で遊んでいる息子の相手をするようスズキに言いつけて、一人になります。それから、父親が自裁の際に使用した短刀を持ち出してきて、その刃に彫られている一文を読み上げます。「誇りをもって生き遂げられない者は誇りをもって死ぬ」(112)。直後、彼女の元へ息子が駆け寄ってきます。蝶々さんは、息子を抱きしめ、「決して知っては駄目よ、お前のために、お前の清らかな瞳のために蝶々が死ぬということを」(112)と最期の言葉を伝え、彼を再び戸外へと追いやります。そして…… 彼女の名前を叫ぶピンカートンの声がどこからか聞こえてきて、幕切れとなります。

第三幕で描かれたのは、取り返しのつかない悲劇です。蝶々さんは、一人の男性を深く愛し、不幸な運命に心を痛めつけられました。そのさなかで、自分の「誇り」を取り戻すため、そして息子のために、自ら死を選びました。この結末こそが、彼女を名ヒロインたらしめ、また《蝶々夫人》を名作たらしめているとも言えそうですが、私たちはあくまで冷静に考える必要があると思います。この幕でもやはりピンカートンが罪に問われないままとなっています。彼は、「自分の犯した罪」に気づいたにもかかわらず、それを償う素振りさえ見せませんでした。そればかりか、大事な話を妻のケイトに任せて立ち去ったために、最後まで清算の機会に立たされず、蝶々さんに対する罪から逃げおおせてしまっているのです。

恋愛劇の破局において、片側が責任を引き受けずに逃げてしまえば、残された側は気持ちはどうなるでしょうか。復讐も執着も意味をなさないわけですから、相手へと向かいようがありません。向かう先は、第三者または自分自身のいずれかです。そして後者は、乗り越えられることで自己形成の糧となるか、まったく反対に、毒をもたらして自己破壊をせしめるかです。蝶々さんの死は最後のケースでした。やや飛躍があることを承知して述べますが、この結末を以って破局の清算が遂げられたのではないかと思います。そして、この見方をすれば、ピンカートンは破局の清算を彼女に転嫁したとも言えないでしょうか。そればかりでなく、彼女を死へと追いやる宣告さえ、そもそも彼はケイトに転嫁しています。「私はここにいることができません」と言って逃げた臆病者は、二人の妻のおかげで、最後まで何の痛手も被ることがありませんでした。捻くれた観点に立つ必要がありますが、このことを見落としてはならないと思います。上述した蝶々さんの美徳とか悲劇的な最期とか、そういった点にばかりスポットライトが当たる本作を観る際には、見えづらい影の部分もしっかり吟味してみるべきでしょう。

補遺

《蝶々夫人》のあらすじを、「複雑な気持ち」を催すものとしてまとめました。論点をあらかじめ定めずに書いたこともあって、冗長でまとまりのない記事になってしまったかもしれません。それでも全体としては、不平等な結婚と身勝手な振る舞いとによって少女を破滅へと追いやった成人男性(というモデル)に対する批判、という体を辛うじて成しているのではないでしょうか。拙文に対しては、様々な反論があり得ることでしょう。「そういう結婚だって上演当時は当然のこととして許容されていたかもしれない」とか、「オペラのリブレットに道徳的正しさまで求める態度がそもそもおかしい」とかも言えると思います。しかし、擁護のために道徳的相対主義に立とうと開き直りを選ぼうと、対象そのものが変容するわけではありません。だとすれば、ここで問われているものは、受け取る私たちの態度でしょう。私は、本作を鑑賞すべきでないとかまでは言いません。現行の上演を楽しむ前に、どんな内容がそこに描かれているのかを一考する余地があると言いたいのです。

また、本作の舞台が日本であることや悲劇に見舞われる人物が日本人女性であることも、私たちを複雑な気持ちにせしめる理由の一つかと思います。冒頭で述べた「植民地主義的な思想」や「オリエンタリズム的な偏見」に対する批判に紐づいた問題です。本記事ではこの辺りをなおざりにしてしまいましたが、きちんと論立てて批判しようとすれば学術的な知見・洞察を要するでしょうし、強いて贅することはいたしません。それでも一つだけ付記しておくとすれば、この批判はリブレットだけでなく演出にも向けられることが多い、という点でしょう。

このオペラが欧米で上演される際には、日本の文化に対する無理解がどうしても見え隠れしがちです。そういった公演を私たちが見れば、少なからず違和感に襲われることでしょう。たとえば、半袖の和服とか唐風の礼服とかを着た明治時代の日本人を見て、すんなり受け入れることは難しいと思います。現在では改善されてきているとはいえ、「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」といった具合にステレオタイプ化された日本像には、私たちの文化を蔑ろにしていると感じざるを得ません。

長くなりましたが、ここまでお付き合いいただいてありがとうございます。その2では、上記を踏まえて今回の公演がどうだったのかを述べようと思います。


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