起業アイデア見つけ方 - 成功した起業家はどう最初のアイディアを見つけたか
成功した起業家がどのように最初の起業・事業アイディアを見つけたのかのリストです。
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孫正義(ソフトバンク)
今でこそ携帯キャリア事業などを手掛けるソフトバンクだが、創業事業は別のものだった。
事業の土俵選びの段階で、自分の事業の運命が半分くらいは決まってしまうと考えた孫正義は最終結論を出すまでに、実に1年半もかけて初めの事業を選んだ。
あらゆる種類の本を読み、市場調査もしながら、毎日毎日、朝から晩まで時間の許すかぎり、ひたすら考え研究した。
最終的に全部で40ほどの新しい候補事業のリストが出来あがった。そしてそれぞれの候補について人員計画とか製品計画とか、いろんなデータを当てはめ、10年くらいの事業計画と予想損益を検討していった。
最後に事業を選択するためのフィルターになる要因、つまり条件を考えた。
創業者タイプの多くの人は、だいたい新しいもの好みで、それゆえ「熱しやすく冷めやすい」傾向にあり、自分の性格もこれと似ていると分析していたため、この点を一番注意することにして、
・少なくとも50年間は途中飽きずに情熱を傾けつづけていかれる仕事かどうか
これを1番目の大きな分別要因にしました。そして次に、
時代の流れに合っているか
世界のNo.1になることを理想に、まずその分野で日本一になれる事業か
少ない資本金でスタートできるか
世の中にまだ存在しない新しい事業か
それが世の中に役に立って、社会に貢献できるものか
将来の企業グループ作りを前提に、その核となり得る事業であるか
世の中を変えられることか
構造的に伸びていく業界か
などなど、25ほどの要因条件をズラッと作り上げた。
そして各要因ごとに重みづけをして、それを基に出した40候補それぞれの合計点数を見ながら、これぞという事業を絞り込んでいった。
結果、最終的に行き着いたところが、デジタル情報革命時代を見据えたソフト流通という分野だった。
留学中の経験も影響している。
と語っている。
その中でも流通業にいった経緯として、直接ソフトウェアの開発に飛び込むこともできるものの、勝率があまりにも低いと考えた。基本ソフト(OS)分野も世界標準を主導する米国企業が先行獲得してしまっていた。
残りは応用ソフトウェア分野だが、新曲がすべてヒットするわけではないのと同じで、トップ10に入るものだけがヒットする構造だった。
そこで個別商品の代わりに、利益は少ないかもしれないが、生命力は確実に長い流通というインフラを選択することにした。そして圧倒的な地位を獲得した場合、業界の成長に正比例して事業を拡張できるという構想だった。
江副浩正(リクルート)
リクルートの元となった「大学新聞広告社」創業のきっかけは、学生新聞の広告営業。
江副浩正が在学中に、学生ながら企業との営業を次々と成功し営業ノウハウを在学中に確立。その後、大学新聞広告社を創業し、旧来の学生新聞では難しかった学生と企業の距離を近づけることに尽力した。
当時企業が求人する際には、大学教授や人づての紹介、大学の求人窓口で求人票を掲載し運良く手に取ってくれることを願うしか方法はなかった。
そんな旧来の求人方法では新卒学生が良い企業を見つけることが難しかった。一方で企業側も、従来の方法では効率的に求職者にリーチすることが難しいため、優秀な学生群と出会えない。
そんな双方の悩みをビジネスにつなげたのが江副で、1962年大学新聞広告社が「企業への招待」を発行した。
複数企業が広告出稿した求人を一冊の情報誌として展開。学生はその情報誌だけ見れば就職活動を行えるというモデル。
これは、米国の大学で展開されていた新卒向け求人情報誌を模倣し、日本向けに展開したものだ。学生側は手間なく多くの企業を知ることができ、企業は複数の大学に出向かなくても多くの学生に求人できるということで、瞬く間に人気となった。
マーク・ベニオフ(セールスフォース・ドットコム)
1999年、セールスフォースの共同創業者であるマーク・ベニオフが、13年間カスタマーサポートを務めたデータベース会社オラクルの副社長職を退社。
その間に、オラクルの創業者であるラリー・エリソン氏と親密な関係を築き上げた。そして、CRMソフトウェアやソフトウェア全般をどのように改善すべきかについて、アイデアを練っていた。
ベニオフは、以下のようなアイディアを発想する。
ベニオフは、オラクルを退職する際、投資したスタートアップから3人のコンサルタントを採用し、「より良いCRM」を一緒に考えてもらうことにした。
彼らは皆、以前一緒に仕事をしたことがあり、良い関係を築き、何人かはSaaS以外のCRM製品に携わったこともあった。当初から、このチームは技術的に非常に有能で、より高いレベルのビジョンで一致していた。
そして、SalesforceのCRMの最初のバージョンを作った。
さらに、Salesforceの中核サービスでもある、サードパーティの事業者がSalesforceと連携したアプリを展開できるApp Exchangeのアイデアをどう思い付いたか。
そこにはAppleのスティーブ・ジョブズが関わっていた。
AppExchange が立ち上がる 3 年前にスティーブ・ジョブズと会ったときに、アプリストアのアイデアが浮かんだとされる。
ベニオフ氏や共同創業者らは、2003年にクパチーノを訪れ、ジョブズに会った。その際、伝説的な CEO であるジョブズは、Salesforce が企業として本当に成長し発展するためには、クラウド ソフトウェアのエコシステムを開発する必要があるという賢明なアドバイスを 3 人に送った。
企業向けSaaSを手がける企業にとっては当たり前のことだが、2003年当時、ベニオフ氏と彼のチームにとっては新鮮なことだった。
ベニオフは著書の中で、ジョブズに「アプリケーション・エコシステムとは何を意味するのか」と尋ねたと語っている。
ジョブズは、このアイデアをどのように実装するかは自分次第だと答えた。
しかし、そのコンセプトが定着するまでには時間がかかった。ベニオフは、この会議から数年後のある晩、夕食の席で、アプリストアの構想がひらめいたと書いている。彼は、レストランで座っているときに、その最初のアイデアをナプキンにスケッチした。
「世界中の開発者が、Salesforceのプラットフォームで自分のアプリケーションを作れるとしたらどうだろう?そして、そのアプリケーションをオンライン・ディレクトリに保存し、Salesforceのユーザーなら誰でもダウンロードできるようにしたらどうだろう?」と。
全てそのようになったかどうかは別として、このアプリストアのアイデアは最終的に実現することになった。
ちなみに当初は現在のようなAppExchangeという名称ではなく、その代わり、ベニオフ氏はAppStore.comという名前がとても気に入ったので、翌日、弁護士にそのドメインを登録させたという。
しかし、後にAppleがiPhoneを発売しAppStoreをオープンするという発表をうけ、マーク・ベニオフはジョブズに恩返しとしてAppStore.comのドメインをプレゼントした。
ジム・シネガル, ジェフリー・ブロートマン(コストコ)
当時、米国のほとんどの食料品チェーンは、高値の商品を販売していた。
共同創業者のジェフリー・ブロートマンがヨーロッパを訪れた時、フランス人が「ハイパーマーケット」と呼ぶ、ディスカウント・スーパーとデパートを融合させたような店舗を発見する。
彼はこのコンセプトは米国でも通用すると考え、小売業の関係者に電話をかけ、このようなビジネスを運営できる経営者をリストアップするよう依頼した。
ジム・シネガルは、ほとんどのリストに載っていた。ある日、ジェフリーはジムに電話をかけ、カリフォルニアまで会いに行った。
ジムは、米国の会員制で倉庫型の卸売販売店プライス・クラブの幹部を務めていた。
そこを退職し、二人はプライス・クラブのクローンを作り、米国で最も競争の少ない市場のひとつである北西部で展開することを計画した。その後、プライスクラブと合併し、1年ほどプライスコストコとなり、最終的にはコストコの名前を復活させた。
イーロン・マスク(SpaceX)
2001年、マスクは宇宙開発への人々の関心を取り戻すため、火星で育つ食用作物を入れた小型の実験用温室を火星に着陸させるプロジェクト「マーズ・オアシス」を構想した。
そこでマスクは、モスクワに行き、構想中のペイロードを宇宙へ送り出すことができるドニエプル大陸間弾道ミサイル(ICBM)の改修品を購入するために出かけた。一行は、様々な企業と面談したが、マスクは素人と見なされ、ロシアの主任設計者の一人につばを吐きかけられ、一行は手ぶらで米国に帰国したという。
2002年2月、一行はICBM3基を探すため、再びロシアに向かった。一行は会談したが、ロケット1基800万ドルと言われ、マスクはこれを高すぎると感じ、会談から飛び出した。モスクワからの帰りの飛行機で、マスク氏は、自分が必要とする手頃な価格のロケットを製造する会社を立ち上げることができることに気づいた。
その方法は第一原理思考と呼ばれるもの。
マスクは問題を別の枠組みで捉えなおし、「手ごろな値段のロケットを見つける」のではなく「ロケットをそれほど高価なものにしている要因は何か」を考えることにした。
ロケットは何でできているのか。航空宇宙グレードのアルミ合金と、若干のチタン、銅、炭素繊維だ。それから、こう考えた。これらの材料の商品市場での価値はどれくらいか。
その結果、マスクはロケットを製造するための原材料が、当時のロケットの販売価格のわずか2-3%であると計算した。
そして、垂直統合とソフトウェア工学のモジュラーアプローチを適用すれば、理論上は打ち上げ価格を10分の1に抑え、なおかつ70パーセントの粗利益を確保できると結論づけた。
最終的にマスクは、真の宇宙文明を創造するという長期的な目標を掲げてSpaceX社を設立するに至ったのである。
ジェフ・ベゾス(Amazon)
ニューヨークのヘッジファンドで働いていたとき、ウェブの利用が年率2,300%で成長しているという驚くべき統計に出会ったジェフ・ベゾスはこの市場でビジネスプランを見つけようと探した。
その結果、「何でも揃う店」を作りたいというアイディアを彼がかつての上司であったデビッド・ショーと何度も話し合って考えついた。
当時からベゾスとショーの目標は「顧客とメーカーの仲介役として、ほぼすべての種類の製品を世界中で販売するインターネット企業」を作ることだったという。
しかし、ベゾスが創業を考えたとき、「何でも揃う店」というのは非現実的な目標であることが分かっていた。そこで彼は、ひとつの商品カテゴリーに絞ろうとした。
ベゾスは音楽から事務用品まで、オンラインで販売するのに最適な商品の第一弾として20の商品カテゴリーを考えたという。その中で、書籍を選択する。
書籍が最も適していると思われたのは、他のどのカテゴリーよりも商品数が圧倒的に多いからだった。
2位である音楽CDは常時20万枚ほどだが、書籍の分野では、全世界で300万冊以上の書籍が、あらゆる言語で常に印刷されており、英語だけでも150万冊以上ある。これだけのアイテムがあれば、文字通り、他の方法では存在し得ないオンラインストアを構築することができると考えた。
スティーブ・ジョブズ(Apple)
1975年、大学を中退しアタリの技術者として働いていたスティーブ・ジョブズと、その友人でヒューレット・パッカードに勤務していたスティーブ・ウォズニアックは、シリコンバレーのコンピュータマニアの会合に頻繁に参加していた。
ウォズニアックは、その会合で高く評価されていたマイクロプロセッサであるIntel 8080の代わりに、安価なマイクロプロセッサを処理装置とするコンピュータの自作を開始し、1976年3月までにApple Iの原型となるコンピュータを独力で完成させる。
ウォズニアック自身はこのコンピュータの回路図をその会合にて無料配布することを望んでいたが、ジョブズはその商業的可能性に興味を抱き、このコンピュータを利用してビジネスを始めるべきだと訴えた。
2人は当初、それぞれの勤務先であるヒューレット・パッカードとアタリに製品化を提案したが却下されたため、自ら起業して基板(プリント配線板)の製造・販売を行うことになった。
ちなみに、設立資金を調達するのにジョブズは唯一の電動移動手段だったVW Busを数百ドルで売り、ウォズニアックはHP-65計算機を500米ドル(2021年で2381ドルに相当)で売った。
ビル・ゲイツ(マイクロソフト)
幼なじみのビル・ゲイツとポール・アレンは、プログラミングのスキルを活かしたビジネスを模索していた。
1972年、彼らは自動車の交通データを追跡・分析するための初歩的なコンピュータを販売するトラフオーデータを設立。ゲイツはハーバード大学に入学し、アレンはワシントン州立大学でコンピュータサイエンスの学位を取得したが、後にハネウェルで働くために中退した。
そんな頃、とある雑誌でMicro Instrumentation and Telemetry Systems (MITS) のマイクロコンピュータAltair 8800が紹介され、これに刺激されたアレンが、このデバイス用にBASICインタプリタをプログラムできないか、とアイディアを思いつき、ゲイツに提案した。
ゲイツはMITSに電話をかけ、まだ何も出来ていなかったが、「自分には動くインタプリタ」があると話すと、MITSはゲイツらにデモンストレーションしてくれと依頼した。
そこからアレンはAltairのシミュレータを開発し、ゲイツはインタプリタを開発する。そしてMITSにデモを行ったところ、完璧に動作したため、MITSはこれをAltair BASICとして販売し、配布することに同意。
1975年4月4日、ゲイツはCEOとなり、アレンはマイクロコンピュータソフトウェアの略である「マイクロソフト」という名前を提案し、マイクロソフトが設立された。
エヴァン・シュピーゲル(スナップチャット)
アイディアの発案者であるレジー・ブラウンは、当時スタンフォード大学の寮の部屋で、週末の社交界の出来事について友だちと話し合っていた。
話題は女性たちのことに移り。レジーは「消える写真が送れればいいのだが......」と、ぼんやり考えていた。
レジーは、この新しいアイデア「消える写真を送る」ことの有用性に注目した。自分のアソコの写真をナンパ相手に送る心配もないし、女の子は、消える写真なら、もっと過激な写真を送ってくる可能性がある。
そこで彼はエヴァン・シュピーゲルの部屋に向かい、エヴァンの部屋に飛び込んできたレジーは、「すごいアイディアがあるんだ!」と叫んだ。
レジーが説明し終わらないうちに、エヴァンは目を輝かせた。レジーがアイデアを説明し終わる前に、エヴァンはすっかり元気になって、「100万ドルのアイデアだ!」と、エヴァンは叫んだ。
二人は、マスコミにヌード写真が流出した有名人について、興奮気味に語り合った。「この問題を解決するのは、自分たちのアプリだ!」と。エヴァンは、身振り手振りを交えて、レジーに「消える写真を何度も何度も送っているのが見える」と説明した。この時点では、ほとんどの人がフリップフォンやブラックベリーを卒業して、やっとiPhoneに移行したところだった。そして、通話からメール、その他のアプリに移行したように、人々はセックスのためのアプリに移行し始めていた。
しかし、二人とも、アプリを作れるほどのプログラミングの知識はない。そこで二人は、友人の一人に参加してもらおうと、コンピューターサイエンスを専攻している仲間をリストアップし、勧誘に向かった。
エヴァンは、特に説得力のあるセールスマンだったが、最初の売り込みで説得するのに苦労した。最初に誘った2人の友人は、「ノー」と言った。
幸いなことに、エヴァンはそう簡単には引き下がらず、以前も一緒にプロジェクトをやったボビーにこのアプリを作らせてみようと思ったが、ボビーもはじめは納得しなかったのだ。しかし何度も説得し、3度目の正直とばかりに、コードを書くことにした。
エバン、レジー、ボビーの3人が最初に作ったのは、写真をアップロードして、その写真がいつ消えるかのタイマーをセットする、という不格好なサイトだった。彼らはすぐに、ウェブサイトではなくモバイルアプリを作れば、ユーザーにとってより簡単でプライバシーが守られ、より広く利用されることになると気づき、アプリを開発して「Picaboo」という名前でリリースした。
しかし、Picabooは大ヒットには至らなかった。夏の終わりには、ユーザー数は127人にとどまった。そして、ブラウン、スピーゲル、マーフィーの3人は、このスタートアップの所有権をめぐって喧嘩をした。結局、スピーゲルはブラウンをスタートアップから追い出すことになった。
残った2人は、アプリ名を「Snapchat」に変更した。それでも大ヒットには至らなかったが、スピーゲルのいとこがロサンゼルスの高校で使い始めたのをきっかけに、徐々に普及し始めた。10代の若者たちの間で爆発的ヒットとなっていった。
スチュワート・バターフィールド(Slack)
当初バターフィールドは、Glitchという多人数参加型オンライン・ロールプレイング・ゲームの制作をしていた。
彼のチームは、総額1,070万ドルの資金を得たが、開発は停滞。3年以内に、Glitchがヒットしないことは明らかであった。
チームがGlitchに取り組んでいたとき、さまざまな州に分散していた。彼らは、少なくともしばらくの間は、人気のあるインターネットリレーチャット(IRC)を使ってコミュニケーションをとっていました。
やがてチームは、IRCではコミュニケーションのニーズをすべて満たすことはできないと判断した。そこで、経験豊富な開発者たちは、自分たち独自のコミュニケーション・ツールをゼロから作り上げてしまった。
チームは、より良いものを作り、自分たちのニーズや仕事のスタイルに合わせられると考えた。ログアウトとログインが可能で、残されたメッセージが待機しているような、完全な非同期型のツールが彼らにとって必要だった。
そうした社内ツールから生まれたのが、Slackのアイデアだ。
鈴木敏文(セブンイレブン)
1970年代にスーパーは急成長していたが、スーパーの出店は地元商店街をはじめとする中小の小売業との深刻な軋轢を生んでいた。
このような状況下で、いくつかのスーパーの経営者等は米国で展開しつつあったチェーンストア方式での小売注目していて、イトーヨーカ堂で働いていた鈴木には、小規模な店舗であっても生産性を上げれば生き残れるはずだとの強い信念があった。
そこで視察で訪れた米国で、鈴木はコンビニの先駆けであったサウスランド社の「セブンイレブン」に出会い、「これだ!」とこの会社との業務提携を進めることを決意する。
サウスランド社との厳しい交渉や、社内外での反対にあいながらも1974年5月、セブンイレブンのフランチャイズチェーン第1号店が開店し誕生。
後に日本のほうが大成功し、本家サウスランド社を買収するに至る。
マーク・ザッカーバーグ(Facebook)
2003年から2004年の間、マーク・ザッカーバーグがハーバード大学のカークランド寮に在籍していた時のこと。
ハーバードの各ハウスのページをハッキングして全ての人の写真を手に入れ、彼はhotornotdotcomと呼ばれる、容姿や服装(主に女の子)を基準に人を評価するWebサイトを作った。
そのサイトは、すぐに多くのトラフィックを獲得したが、サーバーがクラッシュし、マーク・ザッカーバーグはペナルティを受けた。
その後、彼はハーバード大学でウィンクルヴォス兄弟に出会う。この2人は、マークが作ろうとしていたソーシャルネットワークのアイデアを売り込んたが、技術的な部分で行き詰ってしまった。
マークは彼らの依頼を受け、一緒にプロジェクトを進めることになった。しかし、その後マークは自分がやれば、ウィンクルヴォス兄弟が考えていたよりもずっと良い方法でこのアイデアを育てることができることに気づく。
2003年末、マークはソーシャルネットワークの制作に取りかかったが、サイトの進捗状況を聞きたがっていた双子からの電話を無視し続けた。
最終チェックと微調整を経て、2004年2月4日、マーク・ザッカーバーグはNetwork Solutionsを通じて自分のものとして、thefacebookdotcomを立ち上げた。一週間で爆発的にヒットし、一瞬でハーバードの学生皆がこのサイトを利用するまでになった。
ウィンクルヴォス兄弟はその後、アイディアを盗んだとしてFacebookを訴訟し、賠償金を得ている。
ケビン・シストロム(Instagram)
初めはいまの写真共有アプリであるInstagramとしてスタートしたわけではなく。始まりはBurbnというアプリだった。
彼は、位置情報アプリ「Foursquare」の成功に乗じて、BurbnというiPhoneアプリを開発した。このアプリは複雑だったが、シストロムはわずか数カ月で完成させた。
Burbnは、ユーザーが特定の場所にチェックインし、将来のチェックインの計画を立て、友人と一緒に過ごすことでポイントを獲得し、待ち合わせの写真を投稿することができる。
しかし、Burbnは大成功とは言えなかった。アプリが複雑すぎて、機能がごちゃごちゃしていた。しかし、シストロムはアプリに手を加え続けた。
アプリを調整し続けたシストロムは、人々がどのように使っているかに注目した。そして、もう一人のプログラマー、マイク・クリーガーを迎え入れ、二人はアナリティクスを使って、顧客がBurbnをどのように使っているのかを正確に把握したのだ。
その結果 Burbnのチェックイン機能は、まったく使われておらず、彼らが使っていたのは、アプリの写真共有機能だった。
その時、シストロムとクリーガーは、データを倍増させることを決意した。彼らは、写真共有のインフラに焦点を当て、他のほとんどすべてを廃棄しました。Burbnは、シンプルな写真共有アプリとなった。
とある本の解説でこう言われている。
そして、フィルターを追加した。しかし、あくまでもシンプルであることにこだわり、最終バージョンでは3クリックで写真を投稿できるようにした。
数カ月にわたる実験と試作を経て、2010年10月12日、シストロムとクリーガーは、シンプルな写真共有アプリをリリースし、結果大ヒットした。
チャド・ハーリー(YouTube)
2005年のバレンタインデーにハーリーはCEOとして、YouTubeの商標、ロゴ、ドメインを登録する。
一番最初、Hot or Notというサイトに影響されYouTubeはビデオ付きの出会い系サイトとしてスタートしたが、ほとんど関心を持たれず、共同設立者は、出会い系ビデオをアップロードする女性に20ドルを支払う広告を出さざるを得なくなった。
しかし、出会い系の動画が十分に見つからず、さまざまな種類の動画がアップロードされるようになったため、計画を変更し、あらゆるタイプの動画のアップロードを受け入れることになり今のYouTubeへ。
ジャック・ドーシー(Twitter)
Twitterは、元々サイドプロジェクトから始まった。
当時Noah Glassが立ち上げたOdeoというPodcastの会社があったが、AppleがPodcastプラットフォームに参入するという発表をし、もう未来がないと考え、会社の従業員に新しい方向性についてのアイディアを考えるよう言った。
そこである時、グループに分かれて「ハッカソン」を開催することになった。
そこで当時Odeoの従業員だったジャック・ドーシーは、人々がその時何をしているかという "ステータス "を軸にした、まったく別のプロダクトのアイデアを持っていた。
そして最終的にはOdeoは閉じ、Twitterに専念をする会社となった。
三木谷浩史(楽天)
興銀を退職し、個人営業の経営コンサルティングをしていた頃、三木谷氏は起業家としてもっと大きな何かを成すべきだと考え続け、共同創業者の本城氏とともに事業を探していた。
そして三木谷氏は100ほどあったアイディアの中から、3つにまで絞ってホワイトボードに書き出した。それが下記の3つ。
地ビールレストランの全国展開
酵母パン店のフランチャイズ
インターネットのショッピングモール
そして、2人で「インターネットのショッピングモール」に決めた。
理由として三木谷氏は、仕事が軌道に乗ってしまったら興味を失ってしまう自分の欠点を理解し、インターネットの分野なら今後どこまでも可能性が広がり、飽きずに取り組めると考えたからだという。
そしてその後、アメリカのViawebという「これだ!」という実現したいショッピングサイトのエンジンを見つけ、三木谷氏は「この会社を買いに行ってくる」と言い、実際にアメリカまで行った。
しかし断られてしまい、三木谷氏は「ダメだったわ。じゃあ、自分たちで作ればいいか。この会社をマネすっか」ということでスタートした。
このViawebが楽天の原点だった。
柳井正(ユニクロ)
ユニクロを飛躍的に発展させたのは、製造と小売を一気通貫でおこなう完全SPA方式を採用したことと、製造と小売のグローバル化だろう。
しかしユニクロが自らでSPA方式の採用と製造と小売のグローバル化に踏み切ったわけではない。
1986 年に柳井氏が安い仕入先を探しに香港に行ったときにSPA企業のジョルダーノ社(当時、アメリカ・リミテッド社のサプライヤーとして成功)のジミー・ライ会長を訪れた。
ライ会長の話を聞いているうちに、自分にも同じことができるのではないかと思ったのである。
柳井氏の著書「一勝九敗」の中でこう記されている。
これがSPAとそれをグローバルでやろうとしたきっかけである。
海外の先行している企業の話を聞いて、インスパイアされたのがユニクロの現在のアイディアの源である。
トラビス・カラニック(Uber)
Uberは初期と提供している主要サービスが変わっているため、どこを切り取るかでアイディアをどう見つけたかが変わってくる。
まず初期の話から。Uberの初期アイディアを思い付いたのは、Uberの代表を務めていたトラビス・カラニックではなく、共同創業者のギャレット・キャンプだ。
キャンプはある新年、数人の友人と一緒に800 ドルを費やしてプライベート ドライバーを雇った。キャンプはすでに会社を売却して大金を稼いでいたが、1 泊分の便利さを得るには値段は高すぎると感じていた。それ以来、彼は黒い車のサービスのコストを下げる方法を考えるように。
そして彼は、コストを多くの人々 (シリコン バレーの数十人のエリート ユーザーなど) と分担することで、手頃な価格になる可能性があることに気付いた。
こうしてアイディアを思い付いたギャレット・キャンプは、2008年後半の技術カンファレンスで、ともに参加していたトラビスにこのアイディアを話す。
するとトラビスは興味を持って一緒にプロジェクトを進めることとなり、よりハイエンドな顧客向けのプレミアムサービスであるUber(リムジンの配車サービス)として誕生。
しかし、サービスを提供しているうちに変化していき、いまの成功を生み出した「ライドシェア」になる。
ではその「ライドシェア」はどう生まれたのか。
当時、2011年にSidecarというドライバーと乗客をマッチングするまさにいまの「ライドシェア」アプリを提供する会社がサンフランシスコにあって、急速に伸びていた。
Zimride の創設者である Logan と Green はそれを見て、そのアイデアをコピーし、2012 年に Lyft を開始。
さらにUberはこのLyftを見て、現在のドライバーと乗客をマッチングするライドシェアサービスを開始し、最終的に元祖のSidecarもLyftも凌駕する存在になった。
ブライアン・チェスキー(Airbnb)
Airbnbの創業者であるブライアン・チェスキーとジョー・ゲビアがニューヨークから引っ越してきたばかりだった時、職がない彼らは家賃の支払いに困り、小遣いを稼ぐ方法を探していた。
ちょうどその頃、サンフランシスコで開催されたインダストリアルデザインのカンファレンスに多くの人が集まり、ホテルの部屋はすべて予約で埋まっていることに気がついた。
そこで「これはチャンスだ」と思った彼らは、エアベッドを数台買って、「エアベッド&ブレックファスト」というサイトを立ち上げた。寝るだけでなく、朝食を提供しようとした。一泊80ドル。30歳のインド人男性、ボストン出身の35歳の女性、ユタ州出身の45歳の4児の父親が自分たちの床で寝泊まりした。
ディートリッヒ・マテシッツ(レッドブル)
創業者のディートリッヒ・マテシッツは、ある時「ニューズウィーク」という雑誌掲載されていた日本の高額納税者リストに関心を抱いた。
なんと、そこに1位としてランクインしていたのは、大正製薬の経営者だったからで、この企業はリポビタンDという名の飲料を製造していると紹介されていた。
記事には、この飲料にはタウリンが含まれているため、滋養強壮作用があり、1963年よりすでに国際的に販売されていると書かれていた。
このとき38歳のマテシッツは、当時世界第2位の経済大国であった日本で、このような栄養ドリンク製品を作れば一番の高額納税者になれることができるという事実に驚き、「ここには巨大な金儲けのチャンスが眠っているに違いない」と考える。
そして色々なドリンクを試していると、主にトラックの運転手や稲作農家に人気を博していたタイのTC製薬社が作っているリポビタンDと同様の成分を含むドリンクに出会う。
マテシッツはこのドリンクをアジア以外の地域で販売するライセンスを獲得し、オリジナルドリンクの味をヨーロッパ人の好みに合わせて変えるために、何度も実験を繰り返してレッドブルを生み出した。
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