劇場なんか行かないーー No.3:神里雄大/岡崎藝術座『イミグレ怪談』
団体:神里雄大/岡崎藝術座
演目:「イミグレ怪談」京都公演
料金:3,500円(全席自由・一般)
劇場:ロームシアター京都 ノースホール
日時:1/29 14:00開演
時間:120分
備考:『公文協アートキャラバン事業 劇場へ行こう2』参加事業
よかった舞台のことはあまり書きたくない。書くことで大切な何かが抜け落ちて行ってしまうような感覚があるからである。そのとき失われると思っているもの、つまり神聖だと思っているものは「声」にまつわるものである。舞台より映画、映画よりテレビ、テレビより配信とメディアの形式の主役は移行してきた。それは、徐々に生身の声から距離を取っていくという流れで進む。まず、俳優の声が消え、次いでともに鑑賞する観客の声が家族の声にまで縮小し、ついにはたった一人の、誰もいない部屋にまで至った。挙句の果てには、誰もいない部屋のほうが外に飛び出し、通勤・通学のあいだにも人は目と耳を引き籠らせて、生身の声をやり取りする場はコロナ禍もあいまって極限にまで狭められてしまった。世界の声は、自分自身の耳に入る前に調整可能なものとなる。その調整は、コンテンツに合わせた厳密な演出ではない。どのような声も、ほとんど同じように聞こえるように均質化されているというのが実態ではないだろうか。
これがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。ただ、生身の声のやりとりが失われつつあることに対して虚しい感情になることは個人的な事実である。それでも、本作で、自分と違う「ことば」を聞いたとき、その差異が明らかだと感じたとき、「声の歴史」とでもいうべきものを感じた。知らない国の言葉を聞いているとき、あるいは知っている言葉でも自分が触れてこなかった方言による言葉を聞いているとき、その背後にある巨大な何かと対峙している気分になる。もちろん、発している本人たちはそんなつもりは毛頭ないだろうし、聞いているこちらもいちいち面喰ったり、平伏したりするわけではない。「私の知らない、別の歴史がここに至っている」ことを確認するばかりである。
四人のキャストがいたが、やはり眼前に現れ、自身の名前が連呼する三人のことがよく記憶に残ってしまう。「記憶」というものが、そもそも持つ曖昧さ。確かに見たものであろうと、いかに衝撃的な体験であろうと、それは徐々に薄れていってしまう。記録は、結局のところ均質化するばかりで、現在の科学技術では実体験には遠く及ばない。「語り継がれてきた」ということを、言葉の揺らぎとしての「方言」や「他言語」が示唆しているようにも感じられた。わずかに残る痕跡から、想いを馳せるしかない。
「記憶」という素材は、舞台芸術と相性がいいのかもしれない。観劇体験は、「記憶」に依存するよりほかないからである。「記憶」は、あまりに脆く儚い。例えば、映像や上演台本を頼りに記憶を手繰り寄せていくなかで、それは純粋な観劇体験からかけ離れてしまうのではないかという疑念を持つこともありえる。
闇夜に浮かぶ星のように、黒い背景に明かりが散りばめられた美術とは裏腹に、物語や演出の質感は終始明るかった。酒を飲みながら、話しているという前提も心地よい酔いのように感じられる。個人的には酒をほとんど呑まないのだが、そういう文化が世界中にあることは理解している。酒がある種の文化のなかでは、必要不可欠なものなのかもしれないとまで思えた。もちろん、飲みすぎには注意しなければならない。中央に配置された、黒い坂の向こうにあるものはいったいなんだったのか。
この文章を書きながら、少しずつ薄れていく観劇時の「記憶」と向き合っている。小生は、誰とも語り合わずに帰ることにした。不純物とでも言うべき、何か別のものが介入してくるのが嫌だった。自分にとって都合のいい部分だけを抜き出し、無意識のうちに改ざんしているかもしれない。政治家であれば大問題だが、正当性、妥当性、合理性といった政治的、社会的、経済的な事柄から自由になっているはずの文化的な場所なら、ある程度は構わないと信じたい。曖昧さを抱えながら、何か折に触れて大切なことを思い出して、それが良いものであれ悪いものであれ、記憶に浸ることがあってもいいのかもしれない。そう思える時間だった。
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